(①からの続き)
日韓の間の「歴史認識」の問題にも、言葉のあり方が関わってくる。
「歴史は正しく認識されねばならない」とは、多くの人の共通理解であると思う。特に韓国は、日本に対し「歴史を直視すべき」だと、よく言ってくる。
では、「正しい歴史認識」とは何か?
「日本は朝鮮を併合した」と記述したとする。
これは、間違った記述ではない。
しかし、正しさというのを、価値中立的、客観的であることだとすると、厳密にはこの記述は正しくない、ということになる。
それは、「日本」が主語であるからだ。
日本が主語であるということは、日本の側からの、日本の立場に立った記述だということになる。すると、どれだけ公正であろうと努めたとしても、少なからず主観の入り込む余地が生まれてしまう。
これはもちろん、「朝鮮は日本に併合された」と記述したとしても同じことである。
妥協策として、「両論併記」という手段があるが、二つの主観を並べても、それが融合して一つの客観となるわけではない以上、根本的な解決とはならない。
養老孟司と玄侑宗久が、対談本『脳と魂』の中で、「真に客観的なのは宗教だけだ」と話し合っていた。最初にそれを読んだときは、意味がよくわからなかった。だが、今ではよくわかる。
我々がこの世界を記述するというのは、自分自身、この世界の中にあって、少なからず自分という存在も含めて記述する、ということである。多かれ少なかれ、その記述の中に、自分という存在が入り込んでしまう。
徹底して客観的であろうとしたら、世界の外側に出て、そこから世界を眺めて記述するしかない。しかし、世界の外側に立つことが出来るのは、神だけである。神ならぬ我々人間が、そのような立ち位置を確立することなどできない。
だから、真に客観的なのは宗教(神)だけだ、ということになるのである。
日韓が歴史認識の問題でなかなか折り合うことができないのは、よく言われるように、感情的になりやすい問題であるからとか、外交カードとしても使われるから、というのも理由としてあるだろう。だが、それだけではなく、歴史を記述するときに、主観を完全に排除することができない、という点、人間は、世界の内側からしか世界を記述することができないという点が、ひとつの大きな原因となっているのだと思う。
先程、「愛」という言葉が出た。次は、その言葉の持つ力について。
あるテレビ番組に、「亭主関白会」とかいう名の、おじさんたちの私設団体が出演していた。その活動内容は、団体名に反して、「妻をいたわり、思いやる」ことを主目的としていた。
で、会の規則何ヶ条があったのだが、そのうちの一つが、「1日1回、妻に必ず愛してると言う」というものだった。出演していた会員が、「たとえ愛している、という気持ちがなくても言うんです」と説明していた。
これに対し、番組レギュラーのお笑い芸人が、「あかんやろ」とツッコんでいたのだが、いや、これはなかなか含蓄のある会則である。
普通、「愛してる」と言われて、まず、悪い気はしない。妻は少なからず嬉しくなるだろう。そして、その喜びを、夫に返そうとするはずだ。
何か良い事をしてもらえれば、夫も嬉しい。お互い気持ちよくなる。そのまま良い事の応酬が続いていけば、お互いが「愛してる」と、本気で実感できる関係が出来上がるだろう。
つまり、愛してなくても愛してると言うことで、本当に愛してるという感情に到達できるのである。
もちろん、いつ愛してるというか、にもよる。ケンカの真っ最中だとか、明らかにおかしなタイミングで言っても、意味がないだろうし、余りにも気持ちがこもってない言い方だと、逆効果になる恐れがある。だが、その点に注意さえしていれば、「愛していなくても愛してると言う」のは、極めて有効な行為なのである。
言葉が先にあって、後から感情が作られる。これは、いかに我々が言葉に縛られているか、ということを表している。
それから、今挙げたのは、言葉がプラスに働いたケースである。ということは、この働きが、マイナスに作用する場合もあるわけだ。現代では、むしろそちらの言葉の方が、活発に発せられているのかもしれない。学校裏サイトに「死ね」と書き込みをされたいじめられっ子が、本当に自殺してしまう、といったように。
言霊信仰は、あながちただの迷信ではない。
だからこそ、我々は言葉に敏感でなくてはならない。良い関係も、悪い関係も築きうる言葉。場合によっては、生死を左右する言葉。この言葉の力に無自覚な者が、今日も気軽に「死ね」と呟いている。
(③に続く)
オススメ関連本・石川九楊『筆蝕の構造――書くことの現象学』ちくま学芸文庫
日韓の間の「歴史認識」の問題にも、言葉のあり方が関わってくる。
「歴史は正しく認識されねばならない」とは、多くの人の共通理解であると思う。特に韓国は、日本に対し「歴史を直視すべき」だと、よく言ってくる。
では、「正しい歴史認識」とは何か?
「日本は朝鮮を併合した」と記述したとする。
これは、間違った記述ではない。
しかし、正しさというのを、価値中立的、客観的であることだとすると、厳密にはこの記述は正しくない、ということになる。
それは、「日本」が主語であるからだ。
日本が主語であるということは、日本の側からの、日本の立場に立った記述だということになる。すると、どれだけ公正であろうと努めたとしても、少なからず主観の入り込む余地が生まれてしまう。
これはもちろん、「朝鮮は日本に併合された」と記述したとしても同じことである。
妥協策として、「両論併記」という手段があるが、二つの主観を並べても、それが融合して一つの客観となるわけではない以上、根本的な解決とはならない。
養老孟司と玄侑宗久が、対談本『脳と魂』の中で、「真に客観的なのは宗教だけだ」と話し合っていた。最初にそれを読んだときは、意味がよくわからなかった。だが、今ではよくわかる。
我々がこの世界を記述するというのは、自分自身、この世界の中にあって、少なからず自分という存在も含めて記述する、ということである。多かれ少なかれ、その記述の中に、自分という存在が入り込んでしまう。
徹底して客観的であろうとしたら、世界の外側に出て、そこから世界を眺めて記述するしかない。しかし、世界の外側に立つことが出来るのは、神だけである。神ならぬ我々人間が、そのような立ち位置を確立することなどできない。
だから、真に客観的なのは宗教(神)だけだ、ということになるのである。
日韓が歴史認識の問題でなかなか折り合うことができないのは、よく言われるように、感情的になりやすい問題であるからとか、外交カードとしても使われるから、というのも理由としてあるだろう。だが、それだけではなく、歴史を記述するときに、主観を完全に排除することができない、という点、人間は、世界の内側からしか世界を記述することができないという点が、ひとつの大きな原因となっているのだと思う。
先程、「愛」という言葉が出た。次は、その言葉の持つ力について。
あるテレビ番組に、「亭主関白会」とかいう名の、おじさんたちの私設団体が出演していた。その活動内容は、団体名に反して、「妻をいたわり、思いやる」ことを主目的としていた。
で、会の規則何ヶ条があったのだが、そのうちの一つが、「1日1回、妻に必ず愛してると言う」というものだった。出演していた会員が、「たとえ愛している、という気持ちがなくても言うんです」と説明していた。
これに対し、番組レギュラーのお笑い芸人が、「あかんやろ」とツッコんでいたのだが、いや、これはなかなか含蓄のある会則である。
普通、「愛してる」と言われて、まず、悪い気はしない。妻は少なからず嬉しくなるだろう。そして、その喜びを、夫に返そうとするはずだ。
何か良い事をしてもらえれば、夫も嬉しい。お互い気持ちよくなる。そのまま良い事の応酬が続いていけば、お互いが「愛してる」と、本気で実感できる関係が出来上がるだろう。
つまり、愛してなくても愛してると言うことで、本当に愛してるという感情に到達できるのである。
もちろん、いつ愛してるというか、にもよる。ケンカの真っ最中だとか、明らかにおかしなタイミングで言っても、意味がないだろうし、余りにも気持ちがこもってない言い方だと、逆効果になる恐れがある。だが、その点に注意さえしていれば、「愛していなくても愛してると言う」のは、極めて有効な行為なのである。
言葉が先にあって、後から感情が作られる。これは、いかに我々が言葉に縛られているか、ということを表している。
それから、今挙げたのは、言葉がプラスに働いたケースである。ということは、この働きが、マイナスに作用する場合もあるわけだ。現代では、むしろそちらの言葉の方が、活発に発せられているのかもしれない。学校裏サイトに「死ね」と書き込みをされたいじめられっ子が、本当に自殺してしまう、といったように。
言霊信仰は、あながちただの迷信ではない。
だからこそ、我々は言葉に敏感でなくてはならない。良い関係も、悪い関係も築きうる言葉。場合によっては、生死を左右する言葉。この言葉の力に無自覚な者が、今日も気軽に「死ね」と呟いている。
(③に続く)
オススメ関連本・石川九楊『筆蝕の構造――書くことの現象学』ちくま学芸文庫