徳丸無明のブログ

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言葉という神が支配する⑤

2015-11-17 22:10:51 | 雑文
(④からの続き)

新約聖書の中の「ヨハネ福音書」に記さている、天地創造の物語は、次の文章から始まる。
「初めにロゴスがあった。ロゴスは神であった」
この「ロゴス」とは、「論理」という意味もあるが、大抵の場合は「言葉」と訳される。
おわかりだろうか。
我々は、まず人間としての自分があって、その主体が、意思伝達の手段としての言葉を使いこなしている、と考えがちだ。しかし、事実はそうではない。
初めに、言葉があったのだ。
人間が主で、道具としての言葉を使っているのではない。言葉のほうが主で、人間が従なのだ。
まず、人間ありきなのに?
人間がいなければ、言葉は発せられることすらないのに?
確かに、単なる生命体として、動物的存在としてならば、人間は言葉に先行しているし、言葉がなくても存在しうる。しかし、社会的存在、我々が常識的な感覚で人間と思い込んでいる存在は、言葉なしには成り立たない。
ここで言う社会的存在とは、言葉で世界を「わけ」、言葉によって世界を認識する主体のことである。
では、動物的存在とは何か。それは、目の前に動いているものがあれば、とりあえず飛びかかるような、言葉による判断ができない主体のことを指す。
あくまで、言葉は道具だと言い張りたいなら、それでもいい。だが、道具というのは、使うも勝手、使わぬも勝手。なんなら、捨て去っても構わないものだ。しかし、社会的存在である人間は、言葉とは不可分である。言葉を着脱可能な道具として放り投げれば、我々は、目の前の動いているものに反射的に飛びかかる存在に成り果ててしまうのである。
ちなみに、これは小生の推測なのだが、日本の八百万の神々は、「ヤマトタケルノミコト」といったように、名前の末尾に「ミコト」が付く。これは尊称であり、「尊」ないしは「命」という漢字が当てられる。
しかし、この「ミコト」は、「御言」という字を当てはめることも可能だ。これはつまり、日本神話の創設者もまた、「言葉は神である」と認識していたことの表れなのではないだろうか。
繰り返すが、これはあくまで推測である。『古事記』や『日本書紀』、もしくは神道の研究者に、ご教授を賜りたい。

この間テレビニュースで、小学校低学年の中に、急に感情的になって、教師に暴力を振るう子供が増えている、と言っていた。
いわゆる問題児とか、不良生徒のことではない。ごく普通の、普段はおとなしい生徒が、些細なことをきっかけにして、一気にメーターの針が振り切れるように激昂する、というのだ。
番組内では、原因として、子供のボキャブラリーの少なさを指摘していた。真偽のほどは定かではないが、小生はありうる、と思った。
なぜボキャブラリーの多寡が、このような行動に結びつくのか。
喜怒哀楽、などと言うが、喜にしても怒にしても、レベルの違いがある。強い怒りに弱い怒り。また、二つ以上の感情が、同時に現れることもあるだろう。それから、二種類の感情は、それぞれ切り離されているわけではなく、その間がグラデーションのように繋がっているはずだ。
感情とは、なかなか複雑なものである。
怒りの感情だけでも、「ムッとする」「カチンとくる」「イライラする」「カッとなる」「頭にくる」「腸が煮えくり返る」等々。怒りの度合いに応じて、様々な表現がある。
しかし、仮に「キレる」という言葉しか知らなかったらどうだろうか。
怒っている状態を指し示すのに、「キレる」という言葉しか用いることができない。すると、自分の中に怒りが発生した時、その強弱にかかわらず、「自分は『キレて』いるのだ」と理解するしかない。
どんなに微細な怒りであっても、「キレる」という言葉を当てはめる他なければ、それは「キレて」いるのだと解釈される。「キレる」という言葉に見合った行動様式は、我を失い、暴力的になることだ。そうしないと、自分が「キレて」いること、自分の中に沸き起こった感情の説明がつかない。
「キレる」という言葉しか知らないと、「キレる」行動しか取れなくなる。
この、些細なことで激昂する子供の行動様式は、目の前の動くものに反応する生物に近しいことはおわかりいただけるだろう。
言葉は、神であった。
我々は、言葉という神に支配されている。
神の支配を受け入れて、我々は人間になったのだ。


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