徳丸無明のブログ

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日本人の美点、あるいは暴力性について――ジキルとハイドの弁証法

2015-11-02 18:25:54 | 雑文
日本人であることに自信を持とうとか、日本の文化を誇ろう、といった風潮は、結構長いこと続いている。
これは、いわゆる「自虐史観」というやつに、長年囚われてきたことの反動であるらしい。(いわゆる、と書いたのは、この言葉は特定の政治的立場からの視点によるもので、小生は必ずしもそれが正しいとは思っていないからだ)
思うに、バブルが崩壊するまでの日本は、高い経済成長を続けており、「他がダメでも経済がある」と言えたので、その経済を拠り所とすることで、自虐史観を受け入れる余地があった。だが、経済が低迷し始めると、拠り所を失ってしまい、「自分達日本人と日本文化に誇りを持てないとやりきれない」という願望が芽生えたのではないだろうか。とすると、この先も日本経済が好転する見込みはなさそうなので、「日本を誇ろう」という傾向は続いていくものと推測される。
ま、それが事実かどうかはともかく、誇りを持つこと自体は良いことである。しかし、それも程度問題というか、あまり物事を深く考えずに、自信を持ちたいという気持ちばかりが先行すると、本来なら誇るべきではない部分を誇ったり、事実をねじ曲げて理解するようになってしまう。
小生がひとつ引っかかったのは、「日本人は昔から、争いを好まない平和的な民族だ」というもの。
その根拠というのが、日清戦争までは、日本が外国と戦争をしたのは二度しかない、という点。一度目は白村江の戦、二度目が豊臣秀吉の朝鮮征伐。で、明治以降は、西洋のマネをするようになったので、しょっちゅう戦争をする国になったけれど、それは本来の日本の姿ではない、というのだ。
これは、明治から採用された「国民国家」という枠組みを、それ以前の歴史にも当てはめてしまうことからくる誤解だと思う。
日本は、「国民国家」となってから、「日本列島全部ひっくるめてひとつの国」であり、「列島に住まうものは皆日本人という仲間」という決まりになった。
しかし、それまでは「くに」といえば、「郷里」の字で呼ばれる「くに」であり、江戸時代であれば「藩」が「くに」であった。つまり、同じ日本列島であっても、郷里を一歩出れば、そこは外国だったわけである。
なにより、日本列島をすべて統治するには、その中枢である国家、もしくはそれに準ずる組織が、自らの存在を列島の住民に知らしめる必要があるわけだが、全国一斉に情報を発信するための、新聞やラジオやテレビといった手段――でなければ、役人による徹底した管理――がまだない時代において、それは不可能であった。だから江戸までは、地方の村に行けば、「徳川将軍」とか「江戸幕府」とか「天皇」とか言っても、「なにそれ?」って首を傾げる人が結構いたはずだ。いや、結構いた、というよりも、むしろそっちのほうが多数派であったかもしれない。
音楽評論家の片山杜秀によれば、幕末から明治を生きた人物の自伝の中には、村はずれで、となり村の住人とばったり出食わすことがあれば、いきなり飛びかかって取っ組み合いになるのが普通だった、という記述があるという(『ゴジラと日の丸』)。誇張が含まれている可能性は排除できないものの、となり村に住んでいても、理解も共感も隔絶した異邦人、という認識が、当たり前の時代があったわけだ。
だから、言い換えれば、文明が発展し、列島の隅々まで情報を行き渡らせることができるようになるのを待って、「列島全部ひっくるめて国」と言うことが可能になったわけだ。
蛇足になるけど、「地図」っていうのも、国民国家の成立に、少なからぬ貢献を果たしているのではないだろうか。
我々は、「日本」と言った時に、日本列島の形を思い浮かべる。これは、地図がなければできないことである。
伊能忠敬による日本地図の完成が1821年。完成後も、しばらくの間は、一部の権力者しか目にすることはなかっただろう。日本地図が、一般人にも広く行き渡り、視覚的に日本を捉えることができるようになった、という点が、国民国家形成の一角をなしているのではないかと思う。(ベネディクト・アンダーソンって、国家と地図の関係に言及してたっけ?)
で、話を戦争に戻すけど、「くに」というのを「国民国家」ではなく、「郷里」の単位で考えた場合、必ずしも日本人は好戦的ではない、とは言えなくなる。
壬申の乱、平将門の乱、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、承久の乱、文永の役、応仁の乱、関ヶ原の戦い…。郷里同士の戦い、あるいは郷里の内紛は、結構起こっている。
もっと言えば、上記の戦は、権力者が絡んでいるから記録に残っているわけで、それとは無関係の、例えば、村同士の、村人が竹槍で武装して戦ったりするような、記録には残らない戦いは、数限りなく起こっていた可能性がある。
新しい制度や概念が生まれて、それが定着し、自明のものとして認識されるようになると、あたかもそれが、誕生する以前から存在していたかのように錯覚してしまう。フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』以降、幾度となく繰り返されてきたテーゼである。
そして、「日本人はあまり好戦的ではない」と主張する人は、その同じ口で、日本には、大陸との間に日本海があったおかげで、元寇などの限られたケースを除いて、外からの侵略を受けずに済んできた、とも言っていたりする。
じゃあさ、逆もまた真なり、なんじゃないの?
大陸の人達が、日本列島を侵略したくても、日本海という障壁があったので、思うように行かなかったのであれば、日本列島に住まう人達だって、大陸に攻め入りたくても、日本海があるから、なかなか踏み出せなかった、ってことじゃない?
誇りを持ちたいという気持ちが先走ると、このような矛盾が生じてしまうわけだ。
小生は、平和のために大切なのは、「自分達は好戦的ではない」と思い込むことではなく、自分の中にある、好戦的な感情を直視することではないかと思っている。
ジキル博士は、自らの中にあるネガティブな感情を、認めようとしなかった。怒りや妬み、暴力性や好色性、傲慢や怠惰。それら否定的なものを、自分の中には無きものと思い込むことにより、高潔な人物たろうとした。ジキル博士によって排除されたそれらの感情は、しかし、消えてなくなったわけではない。それらは追い込まれ、行き場をなくした末、別人格の「ハイド氏」として結晶化する。
結果的にジキル博士は、自らが否定したものの手によって、破滅に至ることになる。『ジキル博士とハイド氏』は、そんな教訓譚としても読めるのではないだろうか。
だから小生は、自分が必ずしも平和的な人間である、とは考えない。自身の中にある、好戦的な感情の存在を認め、それを直視する。
「どうやったらコイツを飼い慣らせるだろう?コイツが表に出てこないように、折り合いをつけていくには、どうしたらいいだろう?」
好戦的な感情を見つめながら、そんなことを考える。
「ある」ものを、いくら「ない」と言い張っても、問題を解決したことにはならない。「ある」ものは「ある」と認め、それが厄介で、かつ消すことができないのであれば、害をなさないように、共存していく道を探る。
それもまた、平和のために必要な振る舞いのひとつではないだろうか。


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