徳丸無明のブログ

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言葉という神が支配する①

2015-11-13 21:03:56 | 雑文
とある落語家が、マクラで話していたのだが、「ヌメヌメ」という言葉を調べようと思って、辞書を索いた。そしたら、「ベトベトしているさま」と書かれており、それじゃあってんで今度は「ベトベト」を索いてみた。するとそこには「ヌメヌメしているさま」と記されていたという。
このような循環論法でなくても、言葉を定義することの困難は他にもある。
なんでもいいのだが、例えば「机」という言葉を調べてみよう。小生の手元にある、講談社の日本語大辞典には「勉強・事務などに使用する家具。木製・鋼製のものがおもで、甲板・幕板・脚などからなる」と書かれている。
実にわかりやすい、これで解決だ。そう思うだろうか。
だが、言葉を厳密に定義するためには、この説明文の中に用いられている「勉強」「事務」「など」「使用」「家具」「木製」「鋼製」「おも」「甲板」「幕板」「脚」という言葉の意味を定義せねばならない。それはそうだろう。説明文の中の単語がどのような意味であるか、がハッキリしなければ、その説明文を正確に理解することはできないのだから。
しかし、そうするとどうなるか。「勉強」を調べると「学問・仕事につとめ、励むこと。勉学」と書かれているし、「事務」を調べると「会社や役所などでおもに机の上でする、計算や書類を扱う仕事・業務」と書かれている。すると今度は「学問」「仕事」「つとめる」「励む」「勉学」「会社」「役所」「上」「する」「計算」「書類」「扱う」「業務」を調べねばならなくなるのである。
調べねばならない言葉は、ネズミ算式に増えてゆく。
つまり、いくら辞書を牽いても、言葉を厳密に理解することはできないのである。
言葉を説明するのに、言葉以外のものを用いればいい、と考えている人もいるかもしれない。
例えばりんご。A君が、「りんご」という言葉を説明するために、実物のりんご、赤くて丸い、甘酸っぱい果実を「はい」と差し出したとする。
これでりんごを説明したことになるのだろうか。
A君が差し出していたりんごが、「ふじ」だったとする。すると「王林」や「ジョナゴールド」や「サン津軽」は、りんごではないのか。A君が差し出した以外の、スーパーに置いてある、あるいは農家が収穫したばかりのふじは、りんごではないのか。また、過去に存在したふじ、未来に生産されるふじは、りんごとは言えないのか?
そして、A君が手にしているそれは、りんごの花が受粉して、実が育って熟したものだ。このまま食べずにおけば、やがて腐りだし、朽ち果てて土へと還るだろう。
さて、りんごは一体いつ、どの時点でりんごになり、どの時点でりんごではなくなるのか。
結局、「りんご」という言葉を説明するために、「りんごと呼ばれている物体」を用いる、というのは、「りんご」という言葉を部分的にしか説明し得ない、ということだ。
それに、言うまでもないことだが、「愛」とか「勇気」といった概念は、モノを使って説明することはできない。
「言葉は、言葉によってしか定義することはできない。ゆえに、言葉を厳密に定義することはできない」
しかし、「言葉を厳密に定義することはできない」にも関わらず、今、当論考を読んでいるあなたは、小生が何を述べているのかを、きちんと理解できていることと思う。主張の内容に首肯してくれるか否かは別として、文意は理解して頂けているはずだ。
普段も、会話したり文章を読んだりするのに、さほど支障は感じていないだろう。
言葉を厳密に定義できないのに?
我々は言葉を理解するのに、幅を持たせている。「ま、こっからここまでくらいがこの言葉の意味だわな」と。これは、言葉を厳密に定義できないことからくる無秩序なのだろうか。それはよくわからないが、この「幅がある」というのが、時代によって言葉の意味が変化したりといった、「言葉の活性化」に関わっている、とは言えるだろう。
で、「だいたいこっからここまで」という言葉の理解が、平均すればだいたい皆同じなので、会話が成立するし、文章も読めるのである。
だが、言葉の理解の仕方が、平均からズレてしまうこともあり、そこから誤解や諍いが生まれてしまうわけだ。あと、政治家がよくやる、揚げ足取りもね。
これは、言葉が不完全なものである、ということ、言葉の能力の限界を示しているのだろうか。おそらくは、そうではない。現実の方が、我々が使っている言葉よりもはるかに複雑で、うまく対応することができない、ということ、言葉それ自体の問題ではなく、我々の言語運営能力の問題なのではないだろうか。

(②に続く)


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