徳丸無明のブログ

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政治家と国民、どちらが先か・前編

2016-01-11 19:02:17 | 雑文
内閣ごとの、辞任した大臣数の比較、というのを見たことがある。
組閣前に、いわゆる“身体検査”が不足していたために、閣僚の触法行為が発覚したり、物議を醸す発言を行ったために責任を問われ、辞任に追い込まれる事例が、一時期頻発したためだ。
内閣発足後、最速で辞任したのは誰か、という話題も、テレビで出ていた。
これらは、いかに政治家が劣化しているか、の指標であるらしい。(最近では政治家の方でも警戒するようになったのか、あまり聞かなくなった)
政治家にろくな人材がいない、とは、昔からずっと言われていることで、それはもはや疑う余地のない国民的常識とされている。
だが、今に時代にこんな主張をすると、訝しがられるかもしれないが、小生は、結構政治家に同情的なのである。
違法行為においては、その責を問われるのは当然だと思う。言及したいのは、失言問題に関してだ。
政治家が、差別的発言、自らの立場を軽んじる発言、国民感情を逆撫でする発言を行う。すると、間髪入れずに「辞任すべきだ」という声が上がる。
「こんな発言をする人物は、不適格だ」と。
しかし、政治家が問われるべきポイントは、ひとつひとつの発言に留まらない。
これまでどのような活動をしてきたか、未来に対し、どのような展望を抱いているか、思想信条は何か、人柄は信頼できるか、政界全体、あるいは政党の中で、どのような位置にいるのか、等々。吟味すべき点は、多岐に渡る。進退の判断は、それら全てをひっくるめて検討すべきだろう。
しかし、昨今の失言問題では、それら諸々の要素を一切無視し、たったひとつの発言だけをもって「不適格だから辞めろ」と言い募る。
これはちょっとおかしいのではないだろうか。
ひとつの失言というのは、枝葉末節に過ぎない。これまでどんな活動をし、何を成し遂げてきたか、如何な主義主張を掲げ、どんな政策を提言してきたか…。政治家を「木」に喩えると、それらが幹や根っ子に当たる。重要なのはそちらの方であって、失言は、「樹木全体」のごく一部である。部分が全体を表している可能性もゼロではないのだが、必ずしも部分を見れば全体がわかるというものではない。
「幹」や「根っ子」、あるいは「第一、第二の枝」を見ずして、末節のただ一箇所を捕まえて、そこだけで政治家の全体を理解したつもりになって、辞任を迫る。
なぜこのような言動をとるのか。
一つは、わかり易くて面白いからだろう。
政治というのは、そもそもが、わかりにくくてつまらないものだ。特に、世の中の仕組みが複雑化した現代において、「これしかない」という、明快な政治的正解などありえない。〇か×か、白か黒か、ゼロか百かといった、単純な二元論では対処しえず、あちらもこちらも同時に立てること、清濁併せ呑むことが求められる。
そんな政治を把握するには、国民にもそれなりの知的負荷が不可欠だ。日々政治情報を収集して体系づけを行い、それに基づいて政治家や政策の適否を判断せねばならないだろう。
でも、そんなめんどくさいことをしたい人は、あまりいない。だから、話を単純化したがる。
「面白味はないけど重要性は高い」事柄からは目を背け、「面白いけど、それだけで政治家の全てがわかるわけではない」失言に飛びつく。
このような国民の態度が、今や常識と化したのはなぜなのか。ワイドショーが、芸能人を論じる手法で、政治家も批評するようになったからだ、という指摘がある。確かに、それも一理あるだろう。
もう一つ小生が思うのは、とにかく高い地位にある人物を引きずり降ろしたい、という願望があるせいではないか、ということ。
マスコミの定番アンケートで、「今の政治に求めるものは何ですか」というのがある。
これに対する答えは、ここ最近はずっと「経済政策」が一番になっている。そのあとに続くのが、年金、介護、子育て政策になるだろう。
しかし、語られざる願望が存在するのである。
それは、「自分たち有権者の慰みものになる」こと。
けして誰も口にすることはない。あるいは、無意識の領域に属する願望なので、自分にそれがあるとは認識できないのかもしれないが、それこそが国民の本音なのである。
政治家が失言を行う。するとマスコミがすぐさま取り上げ、無神経さ・非常識さ・傲慢さを強調した報道を流す。国民もまたすぐに反応し、マスコミと声を合わせて「辞任しろ」と詰め寄る。結果、当該政治家は辞任に至る。
「自分よりも社会的地位の高い人間が、自分よりも豊かな暮らしをしている人間が、自分よりも既得権益を享受している人間が、自分よりもチヤホヤされている人間が、その座から引きずり降ろされた。ざまあみろ」
国民は、そんな形で満足を得る。
本当に経済を最優先すべきと考えているなら、軽々しく辞任を求めることなどできないはずである。
辞任するとなれば、当然代わりの誰かをポストに就けねばならないが、それに伴い一定の手続きが必要となり、様々な人の労力と時間、それらにまつわるお金がかかる。それに、その手続きの間、政治の流れは停止し、本来ならばとっくに片付いているはずの事柄が、おあずけにされてしまう。
また、代わりとなる人物が、必ずしも辞任した者よりも優れているとは限らない。能力の劣る者が後釜についた場合、長い目で見れば、その部門が被る損害は、辞任がなされなかった場合よりも大きくなるかもしれないのだ。
だから、「辞任した場合の利益と不利益」と「辞任しなかった場合の利益と不利益」を天秤にかけて、辞任が本当に理に適っているかどうかを勘案しなくてはならない。
だが、国民はそれをしていない。
ほとんど条件反射のように、感情のみで「辞任しろ」と言う。
このことは、取りも直さず、政治に求めているものが、本当は経済政策ではなく、むしろ、経済をないがしろにしてでも手に入れたいものがある、ということではないだろうか。
小生が、政治家に対して同情的だというのは、以上の理由による。

(後編に続く)


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