(前編からの続き)
「今の政治家にはろくなのがいない」とは、何十年も前、ひょっとしたら何百年も前から言われてきたことで、それはまあ確かにその通りなのかもしれないけど、かといって、その政治家を監視する立場にある国民が、一定の批評力を有しているかと言えば、甚だ疑問に思わざるを得ないのである。
卵とニワトリは、どちらが先なのだろうか。
政治家に能力が失くなったから、国民の批評力が低下したのか。それとも、国民が堕落したから、政治家が研鑽されなくなったのか。
小生にはよくわからない。
ひょっとしたら、卵とニワトリは、同時に誕生したのかもしれないし、前後関係を明らかにすることに、意味なんかないのかもしれない。
社会問題は、いかに議論されようとも、最終的には「政治家の責任」に帰着しがちだ。「なんだかんだ言っても、結局悪いのは政治だ。この世の有り様は皆、政治家に責任がある」そう結論づけて、話を終わらせる。
悪いのは政治家なんだから、国民の側に努力義務はない。
「お前らの問題点を指摘しといてやったんだから、あとはちゃんとやっとけよ」
ってわけだ。
あとはもう、思い通りに政治が動かなくても、世の中が望ましい方に向かわなくても、国民は何ら自責の念に囚われることはない。悪いのはみんな政治家なんだから。
政治家に責任をすべて丸投げし、その帰趨による罪を背負わせ、国民は、安楽な位置を得る。
それは、一切責任を問われない立ち位置。そして、一方的に政治家を非難できる立ち位置。
そりゃまあラクだし、心理的には気持ちいいだろう。でも、社会的には良きものをもたらすだろうか。
あるいは、こんな指摘もある。
今の政治家は、議会の答弁で、まともに応答しようとしない。相手の質問をことごとくはぐらかし、論点からズレた答えを返すか、あるいは、無内容な文言を並べ立てるばかりだ、と。
これもまた、疑いようのない事実ではあるのだが、しかし、国民の側が、たったひとつの失言だけをもって「辞任しろ」と迫る習性を有しているとき、無難な発言を行いたい、と考えてしまうのは、自然なことではないかとも思うのである。
とにかく揚げ足を取られないこと。差別的なニュアンスを、一切含まないこと。牽強付会な解釈を許さない、玉虫色の言葉であること。
一にも二にも、そのような発言が選択されるようになるのは、避けられないのではないか。
それから、政治家の水準は、国民の政治的成熟度の反映である、とも言われる。
「ダメな奴だらけだ」と批判を行う国民が、仮に政治家に取って代わったとして、批判された当の政治家よりも優れた祭り事を実現できるか、と言えば、そうはならない、ということ。
多分それも、間違ってないと思う。
これまでくだくだ書いてきたことをまとめると、盲目的に政治家批判を行っても、政治は良くならない、ということになる。
「今の社会が悪いのは、ろくな政治家がいないせいだ」という主張は、ずっと前からなされている。しかし、その指摘によって、政治は改善されたか。むしろ、たったひとつの失言で「辞任しろ」と迫る、近視眼的批判を繰り返してきた結果として、無内容な発言しか行わない政治家を増やしてしまっただけではないのか。
ただ批判するばかりでは何も変わらないのなら、まず自分が変わってみてはどうだろうか。
これはもちろん、批判をするなということではない。まともな批判を行うための作法を身につけるべきではないか、ということだ。
軽々しく辞任要求をしないこと。ワイドショー的視点で政治を眺めないこと。難しくてつまらなくても、重要性が高い論件に、きちんと目を向けること。政治家批判を、劣等感やルサンチマンを回復するための手段にしないこと。
そして、それらを通じて、政治批判の質を高めること。
そうすれば、政治家も正しく研ぎ澄まされ、適切に淘汰されるようになるだろう。
相手が変わらないのなら、まず自分から。
それをもって、はじめの一歩としてみてはどうだろうか。
少なくとも、鬱憤晴らしの政治批判を延々繰り返すよりは建設的だと思うのだが。
オススメ関連本・森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書
「今の政治家にはろくなのがいない」とは、何十年も前、ひょっとしたら何百年も前から言われてきたことで、それはまあ確かにその通りなのかもしれないけど、かといって、その政治家を監視する立場にある国民が、一定の批評力を有しているかと言えば、甚だ疑問に思わざるを得ないのである。
卵とニワトリは、どちらが先なのだろうか。
政治家に能力が失くなったから、国民の批評力が低下したのか。それとも、国民が堕落したから、政治家が研鑽されなくなったのか。
小生にはよくわからない。
ひょっとしたら、卵とニワトリは、同時に誕生したのかもしれないし、前後関係を明らかにすることに、意味なんかないのかもしれない。
社会問題は、いかに議論されようとも、最終的には「政治家の責任」に帰着しがちだ。「なんだかんだ言っても、結局悪いのは政治だ。この世の有り様は皆、政治家に責任がある」そう結論づけて、話を終わらせる。
悪いのは政治家なんだから、国民の側に努力義務はない。
「お前らの問題点を指摘しといてやったんだから、あとはちゃんとやっとけよ」
ってわけだ。
あとはもう、思い通りに政治が動かなくても、世の中が望ましい方に向かわなくても、国民は何ら自責の念に囚われることはない。悪いのはみんな政治家なんだから。
政治家に責任をすべて丸投げし、その帰趨による罪を背負わせ、国民は、安楽な位置を得る。
それは、一切責任を問われない立ち位置。そして、一方的に政治家を非難できる立ち位置。
そりゃまあラクだし、心理的には気持ちいいだろう。でも、社会的には良きものをもたらすだろうか。
あるいは、こんな指摘もある。
今の政治家は、議会の答弁で、まともに応答しようとしない。相手の質問をことごとくはぐらかし、論点からズレた答えを返すか、あるいは、無内容な文言を並べ立てるばかりだ、と。
これもまた、疑いようのない事実ではあるのだが、しかし、国民の側が、たったひとつの失言だけをもって「辞任しろ」と迫る習性を有しているとき、無難な発言を行いたい、と考えてしまうのは、自然なことではないかとも思うのである。
とにかく揚げ足を取られないこと。差別的なニュアンスを、一切含まないこと。牽強付会な解釈を許さない、玉虫色の言葉であること。
一にも二にも、そのような発言が選択されるようになるのは、避けられないのではないか。
それから、政治家の水準は、国民の政治的成熟度の反映である、とも言われる。
「ダメな奴だらけだ」と批判を行う国民が、仮に政治家に取って代わったとして、批判された当の政治家よりも優れた祭り事を実現できるか、と言えば、そうはならない、ということ。
多分それも、間違ってないと思う。
これまでくだくだ書いてきたことをまとめると、盲目的に政治家批判を行っても、政治は良くならない、ということになる。
「今の社会が悪いのは、ろくな政治家がいないせいだ」という主張は、ずっと前からなされている。しかし、その指摘によって、政治は改善されたか。むしろ、たったひとつの失言で「辞任しろ」と迫る、近視眼的批判を繰り返してきた結果として、無内容な発言しか行わない政治家を増やしてしまっただけではないのか。
ただ批判するばかりでは何も変わらないのなら、まず自分が変わってみてはどうだろうか。
これはもちろん、批判をするなということではない。まともな批判を行うための作法を身につけるべきではないか、ということだ。
軽々しく辞任要求をしないこと。ワイドショー的視点で政治を眺めないこと。難しくてつまらなくても、重要性が高い論件に、きちんと目を向けること。政治家批判を、劣等感やルサンチマンを回復するための手段にしないこと。
そして、それらを通じて、政治批判の質を高めること。
そうすれば、政治家も正しく研ぎ澄まされ、適切に淘汰されるようになるだろう。
相手が変わらないのなら、まず自分から。
それをもって、はじめの一歩としてみてはどうだろうか。
少なくとも、鬱憤晴らしの政治批判を延々繰り返すよりは建設的だと思うのだが。
オススメ関連本・森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書