酒井順子の『男尊女子』を読んだ。これは酒井が、「あからさまな男尊女卑発言&行為は、年配者にしかできない」今の時代に、「水面下に潜った男尊女卑意識」を「ほじくりだして顕在化させようと」試みたエッセイである。
書名の「男尊女子」とは酒井の造語で、「「女は男を立てるもの。女は男を助けるもの」という感覚を持ち、そこに生きがいを感じる女子」のことを指す。つまり、男尊女卑意識は男の側のみならず、女にも備わっている、という指摘を含んでいるのだ。
いや、これはなかなか考えさせられる内容だった。酒井といえば、『負け犬の遠吠え』である。同書はベストセラー、「負け犬」は流行語になり、世間の話題の的となった。当時小生は、この負け犬ブームを冷ややかな目で見ていた。「これはなんの中身もない空虚な流行に過ぎず、少し時間が経てば誰もこの言葉を使わなくなるだろう」と思っていた。まあなにがしかの社会的意味はあったのかもしれないが、言葉自体は再び元の「敗北者」という意味で使われるようになったし、「30代以上・未婚・子なし」が負け犬と呼ばれていたことすら既に忘れ去られようとしている。
しかし、この『男尊女子』は一時的に消費されるようなものではなく、日本の男女問題、ジェンダー問題を考えるうえで長い射程を持った、多くの参照点を含む耐久度を備えているように思う。男尊女卑は、男側の一方的な身勝手さからくる社会制度というのが一般的な通念だったが、女の方も程度の差こそあれそれを望んでおり、つまりは男尊女卑というのは男女の協同によって維持されてきた形態なのではないのか、という疑義を含んでいるのだ。一般的な通念に異議申し立てをしているという点で、まず参照に値する。またこの本は、小生の近年の関心事とも符合しているのだ。
「日本の男は弱くなった」というのは、もはや疑う余地のない社会的常識となっている。いつ頃から言われるようになったのか定かではないのだが、グローバルスタンダード・新自由主義の進行によって、真面目に働いても社会的上昇が見込めなくなったり、そもそも仕事にありつくことが困難になる中で、専ら労働によって支えられていた「男のプライド」を保てなくなったことがひとつの大きな要因ではないかと思われる。日本経済の失墜の過程は、男の弱体化の過程とイコールと捉えていいだろう。
で、小生はこれをいい傾向だと思っていた。男が強い社会というのは、競争原理や暴力が支配的な社会であり、極端に言えば戦争する社会だと考えているからだ。なので、男が威張っている社会よりも、女が男を尻に敷いている社会のほうが平和でいい、というのが持論なのである。
しかし、と言うべきか、にもかかわらず、と言うべきか、女性の側にこの傾向を厭っている者が少なからずいるのである。男が恋愛に消極的になっているのが事実だとして、それならば女の方から積極的に仕掛ければいいだけではないのか。いっそ女が男を押し倒すぐらいの勢いで迫ればいいのではないか。個人的にはそう思うのだが、女の人達はどうしてもそうはなれないらしい。あくまで男が主導権を握り、リードする、というのを恋愛の基本形として崩すことができないようなのだ。
女性にだけ姦通を罰する法律があったり、男性にしか参政権がなかった時代があり、女性の権利向上のための数多くの戦いを経て、今がある。完全にとまではいかないが、露骨な不平等を感じない程度には男女平等は達成されたといっていいだろう。
男の弱体化を嘆く女性や「男尊女子」は、この歴史の流れを逆行させようとしているように見える。先人が苦労して手に入れた女性の権利を、自ら手放そうとしているように見えるのだ。
一体なぜだろう。酒井は同書の中で、「女には男に従属したい本能がある」という三島由紀夫の発言を引いているが、まさかそれこそが真理だというのだろうか。
本当に男が強くて威張っている社会のほうが理想社会なのだろうか。そのほうが、男にとっても女にとっても幸せな社会と言えるのだろうか。
以前「ダ・ヴィンチ」に掲載されたインタビューで、「私は、男の人は男というだけで威張ってていいと思うんです」という、女性の小説家の発言を読んだことがある。小生としては、頭の中が疑問符だらけにならざるを得ないのだが、このような信条の女性がいる、というのは事実であり、それはそれとして受け入れねばならないのだろう。この種の男尊女子発言は、探そうと思えばいくらでも見つけることができるはずだ。
歴史を振り返ってみれば、人類が二足歩行を始めたのが大きな転換点だった。四足歩行から二足歩行に進化したことで、人類の骨盤の形状は変化を蒙った。そのせいで産道が狭くなり、人類は赤ん坊を未熟な状態のまま産まざるを得なくなってしまった。人間以外の生物の赤ん坊は、産まれてすぐに自力で活動を始めるが、人間の赤ん坊は少なくとも3年はつきっきりで面倒をみないと生きていくことができない。
ここから性的役割分担が生じる。いわゆる「男は外で働き、女は家庭を守る」というやつだ。つきっきりで面倒をみないといけない赤ん坊を女が世話し、そのぶん男が働いて食料(金銭)を調達してくる。
元々は「労働と育児のどちらの担い手が偉いか」という考え方はなかったのではないかと思う。だが、資本主義経済の興隆によって、「金を稼ぐことこそ最も意義のある行為であり、その担い手が一番敬意を表されるべき」という認識が次第と支配的となってゆく。よって、働くのが偉い(あるいは、お金が偉い)から、働いて金を稼いでくる男のほうが偉い、となる。
その経緯を鑑みれば、「人類が二足歩行を続ける限り、女は男に従属的にならざるを得ないのではないか」とも思えてしまう。
しかし、様々な社会制度・社会保障が整備された現代では、男の庇護を受けなくても女は充分生きていくことができる。結婚と出産が年々当たり前ではなくなりつつある時代においてはなおさらだ。それでもなお、弱い男を嘆く女性が少なからずいるのはなぜなのだろう。
これを考えるに、ひとつは、かつてのフェミニズムの失敗が要因なのではないか、と思われるのである。
(②に続く)
書名の「男尊女子」とは酒井の造語で、「「女は男を立てるもの。女は男を助けるもの」という感覚を持ち、そこに生きがいを感じる女子」のことを指す。つまり、男尊女卑意識は男の側のみならず、女にも備わっている、という指摘を含んでいるのだ。
いや、これはなかなか考えさせられる内容だった。酒井といえば、『負け犬の遠吠え』である。同書はベストセラー、「負け犬」は流行語になり、世間の話題の的となった。当時小生は、この負け犬ブームを冷ややかな目で見ていた。「これはなんの中身もない空虚な流行に過ぎず、少し時間が経てば誰もこの言葉を使わなくなるだろう」と思っていた。まあなにがしかの社会的意味はあったのかもしれないが、言葉自体は再び元の「敗北者」という意味で使われるようになったし、「30代以上・未婚・子なし」が負け犬と呼ばれていたことすら既に忘れ去られようとしている。
しかし、この『男尊女子』は一時的に消費されるようなものではなく、日本の男女問題、ジェンダー問題を考えるうえで長い射程を持った、多くの参照点を含む耐久度を備えているように思う。男尊女卑は、男側の一方的な身勝手さからくる社会制度というのが一般的な通念だったが、女の方も程度の差こそあれそれを望んでおり、つまりは男尊女卑というのは男女の協同によって維持されてきた形態なのではないのか、という疑義を含んでいるのだ。一般的な通念に異議申し立てをしているという点で、まず参照に値する。またこの本は、小生の近年の関心事とも符合しているのだ。
「日本の男は弱くなった」というのは、もはや疑う余地のない社会的常識となっている。いつ頃から言われるようになったのか定かではないのだが、グローバルスタンダード・新自由主義の進行によって、真面目に働いても社会的上昇が見込めなくなったり、そもそも仕事にありつくことが困難になる中で、専ら労働によって支えられていた「男のプライド」を保てなくなったことがひとつの大きな要因ではないかと思われる。日本経済の失墜の過程は、男の弱体化の過程とイコールと捉えていいだろう。
で、小生はこれをいい傾向だと思っていた。男が強い社会というのは、競争原理や暴力が支配的な社会であり、極端に言えば戦争する社会だと考えているからだ。なので、男が威張っている社会よりも、女が男を尻に敷いている社会のほうが平和でいい、というのが持論なのである。
しかし、と言うべきか、にもかかわらず、と言うべきか、女性の側にこの傾向を厭っている者が少なからずいるのである。男が恋愛に消極的になっているのが事実だとして、それならば女の方から積極的に仕掛ければいいだけではないのか。いっそ女が男を押し倒すぐらいの勢いで迫ればいいのではないか。個人的にはそう思うのだが、女の人達はどうしてもそうはなれないらしい。あくまで男が主導権を握り、リードする、というのを恋愛の基本形として崩すことができないようなのだ。
女性にだけ姦通を罰する法律があったり、男性にしか参政権がなかった時代があり、女性の権利向上のための数多くの戦いを経て、今がある。完全にとまではいかないが、露骨な不平等を感じない程度には男女平等は達成されたといっていいだろう。
男の弱体化を嘆く女性や「男尊女子」は、この歴史の流れを逆行させようとしているように見える。先人が苦労して手に入れた女性の権利を、自ら手放そうとしているように見えるのだ。
一体なぜだろう。酒井は同書の中で、「女には男に従属したい本能がある」という三島由紀夫の発言を引いているが、まさかそれこそが真理だというのだろうか。
本当に男が強くて威張っている社会のほうが理想社会なのだろうか。そのほうが、男にとっても女にとっても幸せな社会と言えるのだろうか。
以前「ダ・ヴィンチ」に掲載されたインタビューで、「私は、男の人は男というだけで威張ってていいと思うんです」という、女性の小説家の発言を読んだことがある。小生としては、頭の中が疑問符だらけにならざるを得ないのだが、このような信条の女性がいる、というのは事実であり、それはそれとして受け入れねばならないのだろう。この種の男尊女子発言は、探そうと思えばいくらでも見つけることができるはずだ。
歴史を振り返ってみれば、人類が二足歩行を始めたのが大きな転換点だった。四足歩行から二足歩行に進化したことで、人類の骨盤の形状は変化を蒙った。そのせいで産道が狭くなり、人類は赤ん坊を未熟な状態のまま産まざるを得なくなってしまった。人間以外の生物の赤ん坊は、産まれてすぐに自力で活動を始めるが、人間の赤ん坊は少なくとも3年はつきっきりで面倒をみないと生きていくことができない。
ここから性的役割分担が生じる。いわゆる「男は外で働き、女は家庭を守る」というやつだ。つきっきりで面倒をみないといけない赤ん坊を女が世話し、そのぶん男が働いて食料(金銭)を調達してくる。
元々は「労働と育児のどちらの担い手が偉いか」という考え方はなかったのではないかと思う。だが、資本主義経済の興隆によって、「金を稼ぐことこそ最も意義のある行為であり、その担い手が一番敬意を表されるべき」という認識が次第と支配的となってゆく。よって、働くのが偉い(あるいは、お金が偉い)から、働いて金を稼いでくる男のほうが偉い、となる。
その経緯を鑑みれば、「人類が二足歩行を続ける限り、女は男に従属的にならざるを得ないのではないか」とも思えてしまう。
しかし、様々な社会制度・社会保障が整備された現代では、男の庇護を受けなくても女は充分生きていくことができる。結婚と出産が年々当たり前ではなくなりつつある時代においてはなおさらだ。それでもなお、弱い男を嘆く女性が少なからずいるのはなぜなのだろう。
これを考えるに、ひとつは、かつてのフェミニズムの失敗が要因なのではないか、と思われるのである。
(②に続く)