徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

フェミニズムの正しい復権のために――男と女のアレやコレ③

2018-03-21 22:06:34 | 雑文
(②からの続き)

男の側に一方的に責任を押し付ける、その典型的な例というか、個人的に印象深いのが「シングルマザーの子殺し」である。日々の家事と育児に追われて心身ともに疲弊し、経済的に困窮し、子守りを頼れる家族も相談できる友達もいない。そんなシングルマザーが我が子を殺めた場合、フェミニストはその事件を「男性優位の社会の中で弱い立場に追い込まれた故の犯行」であるとし、「彼女(母親)のほうこそが被害者」だと指摘していた。
確かに、同一の労働量であっても男女間には賃金差があったりなど、女が、ただ女であるというだけで社会的に不利な立場に立たされがちというのは、厳然たる事実である。それら格差は出来るだけ是正されねばならないし、可能な限りの支援・扶助を施していかねばならないだろう。シングルマザーの場合、子供の父親から適切に養育費を取り立てる法制度があってもいいかもしれない。
しかし、犯した罪は罪として、きちんと償ってもらわねばならないはずだ。女というのは、自らの罪も償えないような主体なのだろうか。それが事実だとすれば、弱い立場に追いやられれば、自分の意思とは無関係に犯罪を犯してしまう・・・いや、意思など最初から存在しない操り人形のようなもの、ということになってしまうのではないだろうか。
「加害者なのに被害者」、「罪を犯してはいるけど責任はない」という主張を聞く限り、そうとしか思えない。刑法においては心神喪失者と14歳未満が責任能力なしとされている。
通常、権利には責任が伴うものである。権利を行使するなら責任を負わねばならないし、責任を負うてこそ権利の行使が許される。しかし、フェミニストは「女の権利」はひたすら要求するのに、その「責任」は能う限り回避しようとしてきた。権利は求めるのに、責任は取ろうとしない。これが大人として、あるいは社会人として、独立した一己の人間の在り様と言えるだろうか。まるで自己中心的な幼児のごとき理論ではないか。「弱い立場に置かれた女の犯行」を責任なしとするフェミニストの主張は、本人達の狙いとは裏腹に、女を弱い立場に留めおき、かつ、女は男よりも劣っていると喧伝するも同然なのではないだろうか。
これらの主張を鑑みるに、フェミニズムが退潮するのは理の当然であったと断じていいだろう。権利は求めるのに、責任は取ろうとしない。ひたすら繰り返されるこの論法は、男をうんざりさせるばかりでなく、女にも愛想をつかされるはずだ。だって、責任を取らない(取れない)未熟な立場に、女を留めおこうとするのだから。自らの行為であるにもかかわらず「女は悪くない」とするのは、「女は(責任を負えないほど)未熟だ」と言っているのと同然である。
「女はそんなに未熟でもなければ愚かでもない」。まともな女であればそう思うだろう。フェミニストは、明らかに戦術を誤ったのだ。権利ばかりを求めるべきではなかった。権利の獲得と同時に、責任を積極的に背負っていくべきだったのだ。
内省的になることのない田嶋や上野は、これから先も自分達の過ちに気付くことはないだろう。今後も今まで以上にフェミニズムは省みられなくなっていくかもしれないが、それも結局は「男が悪いから」だと言い続けるだろう。すべては男の責任とする主張自体がフェミニズム没落の原因であることに思い至ることなく、なおもその主張を繰り返し、ますます自らの手でフェミニズムを貶めていくだろう。
これはもはや自業自得というほかない。おそらく「男尊女子」や、男の草食化を嘆く女性は、このフェミニズムの反動、もしくは揺り戻しではないかと思う。だとすれば、それはある程度は仕方ない現象であるだろう。しかし、幼児のごときフェミニストには同情の余地などないとしても、いまだ未解決の問題として社会的に弱い立場に立たされている女性が少なからずいるのだ。男尊女子は、この問題解決を阻む要因になりかねない。一体、どうすればいいのだろう。

少し回り道をして、男女間に横たわる事案のいくつかを検討してみたい。
過去、何らかの偉業を成し遂げ、歴史に名を刻んできたのは、女よりも男のほうが圧倒的に多い。男性優位主義者はこれを「男のほうが女よりも優れていることの何よりの証拠」と説明する。それに対するフェミニストの反論は、「これまでの歴史の中で、女は男から不当に権利を剥奪されてきたため、活躍する機会を持たなかった。歴史に名を遺した女の数が少ないのは機会の不平等による結果であって、女が男よりも劣っているということではない」というものである。
小生は、どちらにも与しない。
生物学者の福岡伸一は『できそこないの男たち』の中で、生命の基本仕様は女であるが、訳あって女が男を必要とするようになったと述べている。その典型として紹介されているのがアリマキという昆虫である。
アリマキは基本的にメスしかおらず、単為生殖で子供を産むのだが、秋になるとオスが産まれてくる。メスだけで繁殖できるのに、なぜオスが出てくるのか。それは、遺伝子を組み替えるためである。遺伝子が同一だと、環境の変化に適応できない可能性がある。オスとの交配によって新たに組み変わった遺伝子を持つ個体なら、変化に強いかもしれない。異常気象や伝染病の発生の時、遺伝子が同じ個体ばかりだと絶滅する恐れがあるが、遺伝子がばらけていれば、中には異常気象や伝染病に強い個体がいて、絶滅を免れることができるかもしれない。
つまり、適者生存の戦略として、メスの共同体を存続させるためにオスが必要とされたのである。それこそが、そしてただそれだけがオスの役割だったのである。


地球が誕生したのが46億年前。そこから最初の生物が発生するまでにおよそ10億年が経過した。そして生命が現れてからさらに10億年、この間、生物の性は単一で、すべてがメスだった。
メスたちは、オスの手を全く借りることなく、子どもを作ることができた。母は自分にそっくりの美しい娘を産み、やがてその娘は成長すると女の子を産む。生命は上から下へまっすぐに伸びる縦糸のごとく、女性だけによって紡がれていた。(中略)
しかしこの単為生殖のシステムにはひとつだけ問題点があった。自分の子どもが自分と同じ遺伝子を受け継いで増えていくのはよい。しかし、新しいタイプの子ども、つまり自分の美しさと他のメスの美しさをあわせもつような、いっそう美しくて聡明なメスをつくれないという点である。環境の大きな変化が予想されるようなとき、新しい形質を生み出すことができない仕組みは絶滅の危機にさらされることになる。
生命が出現してから10億年、大気には酸素が徐々に増え、反応性に富む酸素は様々な元素を酸化するようになり、地球環境に大きな転機がおとずれた。気候と気温の変化もよりダイナミックなものとなる。多様性と変化が求められた。
メスたちはこのとき初めてオスを必要とすることになったのだ。
つまり、メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているにすぎない。生物界においては普通、メスの数が圧倒的に多く、オスはほんの少しいればよい。アリマキのように必要なときだけ作られることもある。
(中略)
ママの遺伝子を、誰か他の娘のところへ運ぶ「使い走り」。現在、すべての男が行っていることはこういうことなのである。アリマキのオスであっても、ヒトのオスであっても。
(福岡伸一『できそこないの男たち』光文社新書)


男の存在意義は「種付け」すること。ただそれだけなのである。
反論される向きもあるだろうか。「人間以外の生物はいざ知らず、人間の男は社会の様々な場所で活躍し、人間の暮らしを、その社会の全体を支えている。種付けしかしていないなど、とんでもない」。そう論駁されるだろうか。
確かにその通り。「男の存在意義は種付けだけ」。この言葉には“生物学的には”という但し書きをつけねばならない。そして“社会的に”見れば、男達は日々労働に従事し、この世界を、人の暮らしを支えるために汗を流しているわけで、種付け以外にも多くの存在意義を有している。
しかし、社会とは何であろうか。
精神分析学者の岸田秀は、女は子供を産み育てる性なので、生きているだけで自分の存在価値を実感できるが、男のほうはそうではない、と論じている。男は、ただ生きているだけでは自分の存在価値を実感できない。そのため、常に不安に脅かされている。なので、不安を払拭するために男は「文化」を創ったのだ、という(出典を失念してしまった。申し訳ない)。政治・宗教・言語・音楽・祭事・芸術・学問・・・。すべては「生きているだけでは不安」な男達が、その代償として創りあげてきたものだという。
そして、社会とはそれらを統合したものである。「生きているだけでは不安」な男によって創出された仕組みが、その男にこそ都合のいい、男のほうが活躍しやすいシステムになっていたとして、何の不自然があろうか。

(④に続く)