徳丸無明のブログ

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フェミニズムの正しい復権のために――男と女のアレやコレ④

2018-03-22 21:16:37 | 雑文
(③からの続き)

つまりは、マッチポンプなのである。女は、文化を格段必要としていなかった。男のほうが、自分達の都合でそれを創りあげ、女達もそれに依存しないとやっていけないような世界に変えていったのだ。自分達(男)のためのシステムならば、自分達が優先的に活躍できるのは当たり前である。
ふたつほど例を挙げてみる。まず、英語の「MAN」という言葉。この言葉には、「男」という意味と、「人間」という意味がある。そして、「女」は「MAN」に「WO」を付けてあらわされ、まるで「男こそが人間であり、女は人間ではない」と言わんばかりだ。
しかし、言語もまた「男の不安」の産物である。不安を打ち消すために構築した体系の中に、「男が人間の基本形であり、女はその亜種である」というメッセージを意図的に込めたのだろう。
もうひとつは、旧約聖書の中の創世記。神は泥をこねてアダムを作り、アダムのあばら骨を一本取ってイブを作った、と記されている。これをもって、「男こそが先に産まれた原初の人間であり、女は男の一部分程度の存在でしかない」と判断する男もいるだろう。
残念ながら、と言うべきか、宗教と、それに付随する経典もまた「男の不安」が生み出したものである(アミニズムのような素朴な生活実感から滲み出てくる信仰形態のものはともかく、一神教のような人工的なものは間違いなくこれに該当する)。つまり、創世記も男が紡いだ物語なのである。不安を打ち消すために創りあげた物語の中で、その不安そのものを否定するような人類誕生の経緯を描いてみせたのだ。
男は、おそらくみな自分達の存在意義が種付けだけであることに薄々気づいている。そして、その事実に耐えられないから、懸命に否定しようとしてきた。「人間の基本形は男だ。男のほうが女より先に産まれた。男は女より優れているし、女は男を頼らないと生きていけない」。そういうふうに、事実とは違うことをひたすら言い続けてきた。ここに「弱い犬ほどよく吠える」という図式を見て取ることができる。
してみると、女より男のほうが歴史に多くの名を遺していることの説明もつく。生きているだけで自分の存在価値を実感できる女は、歴史に名を遺すこと、何かしらの偉業を達成することに、価値を見出さない。生きているだけでは不安な男が、已むに已まれずジタバタし、その人生の中で何かしらの達成を果たした者が結果的に歴史に名を刻むのである。
そもそも、なぜ歴史が存在するかというと、共同体が変容するからである。今日も昨日と変わりなく、100年前から何も変わっていないような共同体には、「歴史」はない。「進歩」と言っても「発展」と言ってもいいが、変化こそが歴史なのである。手掴みで食事をしていたのが、縄文土器を使うようになり、その後は弥生土器にとって代わられる。「男の不安」が人類の共同体に変化をもたらした。歴史とはその変化を指している。男が、ひたすら「女より男のほうが偉いんだ」と言い続けてきたのが人類の歴史だと言い換えてもいいかもしれない。
小生自身もまた男である。なので、福岡と岸田の指摘は実感としてよくわかる(このブログも「生きているだけでは不安」な心理の産物なのだろう)。
我々は――つまり、男だけでなく女もまた――、今あるこの社会に慣れきっている。この社会を自明のものとして日々を生きている。だから、最初から男にとって都合よく作られていたこの社会の在り様に、疑問を持つということがない。おそらく、この習い性こそが「男の人は男というだけで威張ってていいと思う」という感覚をもたらしているのだろう。
ちなみに福岡伸一は先に挙げた著作の中で、遺伝子を運ぶ以外にもオスの使い道があると気付いたメスが、様々な仕事をオスに担わせてきたが、メスが欲張りすぎたせいでオスの労働が余剰を生み出すようになり、それが現在のオス(男)の支配的な社会をもたらした、と推察している。だとすれば、男中心のこの社会は、決して女が一方的に虐げられてきたということではなく、男と女の利害の一致によるものということになるだろう。
ならば、その誤りを指摘してやればいいだろうか。男が社会の中でデカい顔をしているのは、そもそも社会というのが男の都合で、男のために創り出されたことの結果であり、男のほうが優れていることの証拠にはならないのだ。そう言えばいいだろうか。

しかし、現実を眺めるとそう一筋縄でいきそうには思えない。
ここでようやく酒井順子の『男尊女子』の中身に触れる。酒井は、九州には「女は男の後ろを歩くべき」といった考えがいまだ根強いことなどを挙げ、そういう地域において特に語られがちな「家庭で実権を握っているのは女なのであり、男は女の手のひらで踊らされているようなものなのだ」という定型句に言及する。


日本の各地を旅していると、男尊女卑傾向が強めの場所はそこここにあるのですが、そういった地域の人達は皆、
「本当は女の方が強いのだ」
とおっしゃるものなのですから。
(中略)
それは、呪文のようなものなのかもしれません。男女に限ったことではなく、身分や経済力などで人間の上下が決まってしまっている社会において、「下」側の人は往々にして、腹の中で相手を憐れみ下に見ることによって、「下」であることのうっぷんを晴らそうとします。
(酒井順子『男尊女子』集英社)


この見立てはおそらく正しい。そして、小生はこの呪文のような定型句は、「下」側だけでなく、「上」にとっても都合がいいのだと思う。つまり、男が「本当は女の方が強いんだ」と言うことで、実質的に男がひたすら威張っているだけの現状を正当化し、女が不当に虐げられている面があったとしても、それを覆い隠してしまう。この言葉には、そんな働きもあるのではないだろうか。
男女ともにこの言葉によって現実から目を逸らし続けているのだとすれば、直視すべきを直視するのはなかなか困難であると言わざるを得ない。
ついでに言うと、ラグビー選手の五郎丸歩の「一歩二歩、後ろを下がって歩く女性が好み」という発言に象徴される九州男児であるが(五郎丸も一頃おおいにもてはやされたが、人気が持続しなかったのはこのあたりに理由があるのかもしれない)、小生はこの九州男児の特質というのは、文化や風土や遺伝子によって形作られている部分もあるだろうけれど、それよりも「九州男児という言葉それ自体」によって強く規定されているのではないかと思っている。
九州男児という言葉がいつできたのか。九州人自らの名乗りによるものなのか、それとも九州外の人達の名指しによるものなのか。その辺はよくわからない。だが、ひとたびその言葉が生まれ、字義が定着すると、「九州の男ならかくあらねばならぬ」という意識が芽生える。その意識が、九州生まれの男達を、典型的な九州男児へと自己造形させる。九州の男を、あるべき九州男児の形質へと向かわせているのは、ほかならぬ「九州男児という言葉それ自体」なのである。九州男児という言葉が九州男児を九州男児たらしめているのだ。言葉によるイメージは、本来あくまでイメージでしかないのだが、それが強固に人々を捉えてしまうと実体を作り出し、蜃気楼でしかなかったイメージが、あたかも最初から具体的な姿形を備えていたかのように事後解釈されてしまうわけだ。

(⑤に続く)