徳丸無明のブログ

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フェミニズムの正しい復権のために――男と女のアレやコレ⑥

2018-03-24 21:54:32 | 雑文
(⑤からの続き)

男言葉を話す女もいれば、女言葉を話す男もいる。これが今の時代的趨勢だとすれば、おそらく言語のみならず、様々な趣味嗜好やファッションなども性別において固定化されることなく、各個人が任意に選び取れるようになってきているのではないだろうか。ファンシーな小物を身に付ける男の子もいれば、バイオレンスなフィクションに嗜癖する女の子もいる、といったふうに。
少し前にファミレスに行った時のことだが、その日はたまたま近くの小学校でお祭りが開かれており、店内は若い子で賑わっていた。その中に女3、男1の中学生グループがいたのだが、男が一人混じっているという違和感を感じさせることなく、楽しげにキャイキャイお喋りをしていた。雰囲気だけなら女の子4人組のようであった。
小生が子供の頃(つまり、80~90年代ね)は、男女の間に壁があった。男子の中には、女子と仲良くするのは恥ずかしいこと、という空気が共通認識としてあった。たぶん女子の側にも同じ空気があったはずである。今の若い子にはその壁はなく、男であるか女であるかとは無関係に、純粋に気が合うもの同士で仲良くしているようだ。先程女子の中に男子が一人混じっている状態を「違和感」と表現したが、これはあくまで小生の感じ方であって、今の若い子にはそのような感覚はないのだろう。
男女間に気兼ねがいらないのは羨ましい限りである。ただ、壁があるからこそ恋愛や性愛がその乗り越えの動力となるのであって、現在は壁がないので恋愛や性愛が駆動しにくい、という一面もあるのかもしれない。よく「今の若い子は恋愛に消極的」と言われるが、それは若い子の意識の問題ではなく、恋愛が芽生える条件自体がなくなりつつあるということなのかもしれない。
いずれにせよ、これらの変化を通覧するに、女の子が(男言葉を話すなどによって)男っぽくなるだけでなく、男の子も女っぽくなり、次第に「男らしさ/女らしさ」という区分自体が曖昧になり、それによって、元々「らしさ」の指標としてあったそれぞれの事物は、男か女かに関係なく、個人の好みに応じて選び取られるようになった・・・という経緯が確認できる。

だいぶ長文になってしまった。「男と女」に関して、言いたいことが溜まっていたようである。しかし、これでもまだ言い足りない感が残る。もっと丁寧に腑分けする必要があるのではないかと思うのだ。だがこれ以上は知識と能力が及ばない。とりあえず、現時点での結論を出す。
男の弱体化を嘆く女達がいる。特に恋愛に消極的な点に批判的な態度をとっている。かといって、それなら自分から積極的に男に迫る、というわけでもない。行動を起こすのは男のほうから、という前提を崩そうとはしないのだ。
男が恋愛に消極的なのは、かつて自分に自信をつける場としてあった「経済=労働」が低迷したことと、個性の尊重や全体主義的な教育の批判などによって「男らしさ/女らしさ」が言挙げされなくなり、その影響で男女の間の壁がなくなって、恋愛が発動する基盤も希薄になった、というのが理由として考えられる。
そして、二足歩行を始めてからこっち、男に主導権を担ってもらうのが習い性であった女は、「男がダメなら自分達が主導権を」と考えることができない。あくまで男の強化を待ち望むのみである。
しかし、先に確認したように、男が強い社会というのは「ビビったらおしまい」という男性原理が支配する、弱肉強食の世界である。男は強さを証明せねばならないので、至る所で争いが起き、競争に次ぐ競争で弱者は切り捨てられる。そして、その延長線上に、究極的な諍いとしての戦争が起こる。
また、男が強くなれば恋愛の積極性は回復されるだろうが、それと同時にDVや性犯罪も増加するはずである。それらを、やむを得ない代償として許容するわけにはいかない。
酒井は、『男尊女子』のあとがきで次のように述べている。


私の中にも、男尊女子成分は確実に存在しています。本書を書く中でしみじみ感じたのは、自分内男尊女子を完全に消す勇気を私は持っていない、ということ。男尊女卑にプンスカしながらも、何かというと男尊女子の陰に逃げ込もうとする自分もいるのです。
私は一生、この矛盾を抱えて生きていくのだと思います。そしてこの矛盾は、昭和に生まれて平成を生きる女性の多くに、存在しているものなのではないか。
これからも、日本に生きる男女の感覚は変化を続けることでしょう。未来の女性がこの本を読んだなら、
「男尊女卑も男尊女子も、どうもよくわからないんだけど?」
と、ポカンとするに違いありません。


酒井は同書の中で、過去の経緯の記述と現状の分析を行っているが、未来の提言を発してはいない。上の引用に見られるように、あくまで現在は男尊女卑がなくなりつつある過程と見做しており、放っておいてもいずれそれは消滅する、と考えているようだ。
だが、本当にそうだろうか。一方に「男を立てることに喜びを見出す女」がいて、他方に、その対としての「女に立ててもらいたがる男」がいる限り、男尊女卑と男尊女子は、今後も温存され続けるのではないだろうか。男の弱体化を嘆く女がいるのを見ていると、そうとしか思えない。だとすると、男尊女卑は消滅に向かうどころか、歴史に逆行して甦ってくるかもしれない。そうなれば、力の理論が支配する男性原理も本格的に復活してしまう。
だから、男が弱っている今は、チャンスなのである。再び男に強くなってもらうのではなく、女が男性原理に拠らずに主導権を握る。そうしてこそ、弱肉強食の冷酷な力の理論ではなく、より手触りの温かい、共存の度合いが高い社会を構築できるのではないか。
つまり、今こそフェミニズムを蘇らせるべきなのである。それは、かつて権勢を誇っていた上野千鶴子や田嶋陽子を引き継ぐ形での復権ではない。彼女達をアンチテーゼとして正しく乗り越える形での復権でなくてはならない。過去のものとされたフェミニズムを、止揚するのだ。
男に一方的に責任を押し付けず、女も権利の及ぶ範囲で責任を負うフェミニズム。自分の都合だけ、あるいは女の都合だけを考えるのではなく、男の側の都合も考え、そして男と女、並びに性的マイノリティも含めた社会全体のことも考えるフェミニズム。女が主導権を握ったとして、「ビビらない」ことを旨とする男性原理では運営しない、それとは一線を画するフェミニズム・・・。
今のところ小生が構想できるのはここまでである。来たるべきフェミニズムについては、これからも考えていきたい。


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