徳丸無明のブログ

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フェミニズムの正しい復権のために――男と女のアレやコレ②

2018-03-20 21:24:48 | 雑文
(①からの続き)

フェミニズム。父権社会、男性優位の社会において、女性が不当な扱いを受けている、二等市民として遇され、多くの社会的権利を剥奪されているとして、その地位向上・権利拡大の運動を担ってきた思想。日本でもウーマンリブ運動など、一時期隆盛を誇っていたが、2000年頃には下火となり、今では完全に没落したとされている。
フェミニズムの没落には様々な理由が語られているが、一番もっともらしいのが「すでにその役割を終えた」というもの。
男女雇用機会均等法の制定などによって女性の社会進出もある程度進み、セクシャルハラスメントという概念によってあからさまな女性蔑視が許されなくなる。それらの達成のあと、フェミニズムにできることはなくなってしまった。フェミニズムは歴史的使命を果たし終え、眠りについたのだ・・・という説明。
部分的にはそれもあるかもしれない。だが他に、もっと注視すべきフェミニズム没落の原因があるのではないかと思う。
フェミニストといえば、有名どころは田嶋陽子。田嶋は、まるで口癖のように二言目には「男が悪い」と言っていた。男女間の問題ではすべて男のほうに非があるとしていたし、男女、もしくはジェンダーとは無関係にしか思えないような事柄に関しても、牽強付会な論法で「悪いのは男」(もしくは家父長制の弊害)という結論に帰着させていた。
田嶋が、フェミニズム浸透のために、つまりは戦術として意図的にこの論法を採用していたというなら、理解できなくはない。個別の主張の適否はともかくとして、大筋において家父長制に問題があるということ、女が不当な扱いを受けてきたということ、男女の間には権利の不平等が横たわっていることなどをひろく印象付けるために、敢えてやや大袈裟な、単純化された訴えを反復してきたというのなら、それはそれで理解できる。それが女性の権利拡大に繋がるのであれば、結果オーライで構わないとも思う。
しかし、あまりにも「そればっかり」になってしまったのではないだろうか。あまりに現実が単純化されすぎ、あまりに同じ言い分の反復されすぎになってしまったのではないだろうか。
人は、狼少年よろしく繰り返しがしつこいと、次第に耳を貸さなくなるものだ。同時に、その主張者の知能の程度を疑い出す。
女性の権利拡大を念頭に置きすぎているのは、上野千鶴子も同様である。小生は上野の著作の熱心な読者ではないのだが、目についた範囲で疑問を感じた発言を引用する。
「本と新聞の大学」の第四期に、上野は「戦後日本の下半身 そして子どもが生まれなくなった」と題された講義を行っている。その中でミシェル・フーコーの『性の歴史』を参照しながら、近代になって作られた性の装置に言及したのち、上野は次のように述べている。


刑法には明治期にできた堕胎罪が今日まで残っておりまして、いまだに廃止されていません。私はよく女子学生に言うんですが、「あんたの子宮、誰のものだと思ってる?あんたのものじゃないよ、お国のものなんだよ、勝手に胎児を処分したら処罰されるんだから」と。その法律が今日でも生きているのですから、不思議なものですね。
(一色清・他『「戦後80年」はあるのか――「本と新聞の大学」講義録』集英社新書)


いや、違うでしょ、上野さん。子宮じゃないでしょ、胎児でしょ。好き勝手してはいけない、つまり、刑法で規制されているのは、子宮じゃなくて胎児の取り扱いでしょ。「胎児」を「子宮」にすり替えることで、まるで肉体の一部を剥奪されているかのような、もしくは否応なく性行為に制限を掛けられているかのような話にしているが、これはとんでもない暴論である。
ひょっとして、胎児は子宮の一部、もしくは母親の所有物だから自由に処分して構わないとでも?まさか。胎児といえど、一己の独立した命でしょ。ひとつの命、ひとりの人間として尊重しなきゃいけないからこそその殺害は罪になるんだよ。そんなこともわからないの?(男の身勝手な性行為によって中絶を余儀なくされたにもかかわらず、その責任を相手の男に取らせることができない、という社会的・法的問題はあるにせよだが)
「よく女子学生に言う」ってことは、これがおかしな考えであることにずっと気づいていない、ってことだよね。女子学生から突っ込まれたことはないのかな。それとも、あまりに出鱈目な言い分だからみんな絶句しちゃうのかな。
ちなみに、上野の支離滅裂な言説はともかくとして、国家が性を囲い込んでいる、というのは事実としてある。建築家の山本理顕は『権力の空間/空間の権力』の中で、フーコーの『知への意志』、ルイス・マンフォードの『歴史の都市 明日の都市』、ハンナ・アレントの『人間の条件』などを引きながら、近代化の過程で労働者のために供給されだした労働者住宅が、性現象を夫婦単位に限定し、両親の寝室に押し込めてしまったことを指摘している(労働者とは産業革命以降に誕生した人々であり、それ以前には存在していなかった)。それまでは、「卑俗なもの、猥褻なもの、淫らなものの基準はずっと緩やか」であり、たとえばフランスでは、「妻と夫は別々に性の冒険を追いもとめ」ていたという。
日本では若衆宿や夜這いがこれに当たる。夜這いは、ひとつの共同体(おもに村)の中で、一定の年齢に達した成員同士であれば、誰とでも関係を持っていいとされていた。未婚・既婚に関わらず、である。もともと結婚というのは労働力の確保を目的としており、夫と妻が互いに貞操を立てることを条件とはしていなかったのだ。そのため、産まれてきた子供が隣のおじさんにそっくり、ということがままあったのだが、子供は家族に帰属するのものではなく、村全体に帰属すると考えられていたので、誰もそんなことを気にとめたりしなかった。
なぜ性現象は夫婦間に限定され、しかも寝室の中に閉じ込められねばならなかったのか。それは、労働力――つまり子供――の効率的な再生産のためである。近代化以降、国民は国家にとって、「労働をもって奉仕する労働力」と認識されるようになった。国家が力を蓄えるのに、労働力は多ければ多いほどいい。一人でも多くの子供を産み育てるというのは、国家に対し、より多くの労働力を還元する、ということを意味する。より多くの労働力を得るため、国家は、性現象を両親の寝室に閉じ込めたのである。
現代の日本では、著名人の不倫報道があるたびに皆こぞって非難の声を上げる。不倫の当事者と何の関係もないのに、その倫理を咎めたてる。誰も意識してはいないだろうが、それはつまり、国家の命令に盲目的に従っているということに他ならない。不倫に非難の声を上げるとき、我々は国家の忠実な番犬として吠えているのである。
話を戻す。
上に見たように、上野の発言は明らかにピントがずれている。これが女性の権利拡大ばかり念頭に置いてきたことの帰結である。そして、その逆面として、田嶋に関して述べたように、責任はひたすら男の側にだけ押し付ける、という態度がある。もうひとつ、今度は上野が、やはりフェミニストの小倉千加子と行った対談を引用する。


上野 フェミニズムが日本を滅ぼすのか。
小倉 フェミニストは滅ぼさへんの。フェミニストを嫌っていた男たちが可愛がっている女たちが日本を滅ぼすんです。滅んだらええやんか。
上野 その点ではみごとに身から出たサビというか、自業自得というか、自分たちが望んだ通りの滅び方ですね。
小倉 「女は仕事をするな。家にいておとなしくしておけ」と言うから、「はい。私は男に嫌われるフェミニストなんかじゃないわ」と言って家に入ります。専業主婦になります。お給料が高くて、ステイタスがあって、家事もやってくれる男の人、そんな人を待っています。でも、「そんな人なぜかいません」「私にふさわしい人がいません」と彼女たちが言ってこの国は滅んでいくんです。
上野 三代かけて思った通りの子どもたちを育てて来たんですから、日本の戦後教育はみごとに成功したんですよ。
小倉 まんまと成功して、国が滅びる。
上野 その通りだと思う。
小倉 もう、国ごと沈没するだけです。しゃあないわね。
(上野千鶴子・小倉千加子『ザ・フェミニズム』筑摩書房)


この対談が行われたのは2001年。上野にせよ小倉にせよ、フェミニストを代表する知識人としてそれなりの社会的影響力を行使してきたはずである。仮に日本が滅びるという予言が正しいとして、自分達がこれまで行ってきたことの反省が一切ないのは何故なのか。家父長制や戦後教育に問題があるとして、彼女達が社会的影響力の高い立場に長年居続けたのならば、それら制度・体制を打破(とまではいかなくても、せめて弱体化)できなかったこと、フェミニズムがその有力な対抗馬になり得なかったことへの自省のひとつもあっていいはずである。しかし、2人の口からはそのような言辞は発せられていない。そして、まるで自分達が死んだ後のことなど知ったことではないとばかりに「滅びればいい」と言う。意図的に反省や悔恨の言葉が含まれない箇所を引用したのではない。引用箇所の前後にも自省はみられないのだ。
同書の中で、小倉の「もし娘がいて、「お母さん、私この人とつきあっているの」「おなか大きくなっちゃったの」と言われたら?」という質問に対し、上野は「「自己責任で産みなさい」「ここは私の家だから出ていって」と言います」と答えている。それ以外にも、上野は個人主義的というか、「他人のことなど知ったこっちゃない」という発言が目立つ。
あとがきで上野本人が「フェミニズムは一人一派」と述べているように(実際そこまでバラバラなのかは定かではないのだが)、一口にフェミニストと言っても主義主張は様々で、目指している理想も違えば、他者への思い遣りの度合いにも温度差があるだろう。しかし、フェミニストの代表格、フェミニストと聞いて一番に名前が浮かぶ人物が、このような冷酷な意識の持ち主であるならば、フェミニスト全員が利己的で没社会的と思われてしまうのは避けられないのではないか。
たとえ本人が望んでいなかったとしても、上野千鶴子はフェミニストの顔と見做されるようになった。ならば、そのことをちゃんと自覚すべきだったのではないだろうか。自覚したうえで、自戒の意識を持つ。自分の言動一つ一つがフェミニズム全体に与える影響を考慮し、自制すべきは自制し、できうる限り他者への温情を見せる。そうしていれば、フェミニズムの没落は避けられたのではないだろうか。

(③に続く)