ミュージシャンで俳優のピエール瀧が麻薬取締法違反の容疑で逮捕されたとの一報に触れたのは、2019年3月12日の「FNN プライムニュース α」の速報においてだった。
その時、小生はまず「なんでよ、いらねーじゃん!」と思った。電気グルーヴはほとんど自分たちのやりたいことだけをやり、なおかつ大きな社会的成功を収めてきたユニットという印象だったからだ。それに曲作りや演奏はほぼ石野卓球ひとりが負っているため、ミュージシャンとしての苦しみから逃れるために薬物に頼る、という図式は瀧には当てはまらない。その意味でも「なぜ?」と思ったのだ。
まあ、人の頭の中はわからない。赤の他人にはあずかり知らぬ苦悩が、瀧にはあったのかもしれない(のちの初公判で「役者の仕事が増えてきたことでストレスがあった」と供述している)。また、ここで小生は瀧の行為を道徳的に非難しようとしているのではない。善良な一般市民ヅラをするような趣味はないし、薬物使用者を声高に非難する良い子ブリッコごっこにも興味がない。赤の他人が薬物を使用したからといって、自分とは何の関係もない話としか思えない。ただ、瀧の心身の健康と、彼の今後の人生が少しでも幸多からんことを願うばかりである。
そもそも、薬物の使用はなぜ犯罪行為に該当するのであろうか。薬物は、基本的に自分自身を傷付けるものである。錯乱状態に陥ったり、幻覚に捕らわれたりすることで、他人に危害を及ぼすことも稀にはあるし、自分を傷付けることによって、間接的に家族や友人知人を(精神的に)傷付けることもあるにせよ、通常は己の心身を蝕むだけのもののはずだ。
だから、薬物の使用は、悪しき見本とされるのはやむを得ないとしても、権力の取り締まりの対象となるのは不自然なように思える。「自分を傷付けるのはよくないですよ」と慰撫するならともかく、「何やってんだバカ」と罵倒するのは筋違いではないか。この点を全く考慮せずに薬物使用者を人道的に批判したり、偉そうに愚か者呼ばわりしたりしている人達は、じつに安易である。単に犯罪に当たるというだけで、殺人や強盗と同等だと安直に思い込んでいるのだろう。
なぜ薬物は法律で禁止されているのだろうか。この疑問に答えを出すために、無関係に思われるかもしれないが、まず政治家の失言問題に検証を加えてみたい。
2007年1月27日、柳澤伯夫厚生労働大臣(当時)は、島根県松江市で開かれた自民党県議の集会で「これからの年金・福祉・医療の展望について」を議題に講演した際、少子化対策について、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と発言した。
この通称「産む機械」発言には当時、大きな非難の嵐が沸き起こった。メディアはここぞとばかり大々的に取り上げ、格好の攻撃材料を手に入れた野党は、政権批判を強めるとともに、柳澤に大臣辞任を迫った。市民団体も抗議活動や大臣辞任を求める署名活動などを行い、騒ぎはしばらく収まらなかった。
当然ながらそれらの非難の主意は、「女性差別は許さない」というものであった。確かに差別的な発言ではあったが、小生は当時、批判すべきポイントはそこではないのではないか、と思っていた。というのも、彼の発言は、出産適齢期の女性に向けられたものではあったのだが、その背後には、老若男女を問わずすべての国民を対象とした、あるひとつの含意が潜んでいるように感じられたからだ。
国家にとって国民とは、「生産」と「再生産」の手段である。ここで言う生産とは労働のことで、再生産とは出産のことである。国家とは、己の維持存続を第一義とする政治運動体である。そして、維持存続には国民の存在が欠かせない。国家の動力・エネルギーは経済であり、経済力は労働によって備給される。今現在働いている人達もいつかは働けなくなるし、労働力は多ければ多いほどいい。そのため、生産(労働)の次に再生産(出産)が重要となる。
ゆえに、国家は国民を管理しようと、知力を尽くす。そこには、良いも悪いもない。ミシェル・フーコーがつとに指摘しているように、近代の権力とは、その成員を「殺す」のではなく、「生かす」方向で管理しようとする「生権力」である。自らの動力とするために、国民が適切に生き続けるよう管理するのだ。
ただし、その管理体制があまりに非人間的で冷酷な制度であった場合、おもにリベラルの立場からの「もっと血のかよった扱いをしろ」という異議申し立てがなされるわけで、利害の調節はつねに図られねばならないのだが、それはそれとして、国家がそのような主体であるということは、いかんともしがたい厳然たる現実である。
むろん国家に人格などないのだが、あたかも人格があるかのように幻視してしまうのが人間の社会的意識である。そして、幻視した国家の願望を代行するのが司法・立法・行政に携わる人々である。であるならば、国家権力の中枢、もしくはその近傍にいる者が、国家の意志を自分自身の意志と混同したり、国家と自分の区別がつかなくなったりするなどの錯誤は、大いに起こり得ることである。だから、55年体制以降、ごく一部の期間を除いて政権与党であり続けてきた自民党の、しかもそのベテラン議員の幹部の口から、「今国家が一番求めているもの」が漏れ出たとしても、何ら不思議ではないだろう。念のため断っておくが、小生はここで柳澤を擁護しようとしているのではない。客観的な考察を加えているのである。
男はおもに生産(労働)のための手段で、女はおもに再生産(出産)のための手段。そんなシステマティックな国家の国民観がはしなくも露呈してしまったのが、あの「産む機械」発言だったのではないか、と思う。だから、この発言に対するピンポイントな反論は、「女性差別は許さない」ではなく、「私たちは(男も女もともに)国家に奉仕するためだけに生きているのではない」ではなかったろうかと思うのだ。
最近も桜田義孝前五輪相が「結婚しなくていいという女の人が増えている。お子さん、お孫さんには子供を最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」と発言していたし、この手の失言は定期的に世間を騒がせている。
小西英男「子供を産まないとダメだぞ」(14・4)
山東昭子「子供を4人以上産んだ女性を厚生労働省で表彰することを検討してはどうか」(17・11)
加藤寛治「新郎新婦には必ず3人以上の子供を産み育てていただきたい」(18・5)
二階俊博「この頃、子供を産まないほうが幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」(18・6)
麻生太郎「いかにも年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、間違っていますよ。子供を産まなかった方が問題なんだから」(19・2)
彼等がみな自民党員であることに注目しよう。これはもちろん、自民党という政党が旧態依然とした家父長制で運営されていることの表れでもあるのだが、政権与党であるということも大きい。つまり、彼等が自分の意志で自らの主義主張を語っているのではなく、「国家が彼等の口を借りてその願望を語らせている」というふうに捉えることもできるのだ(杉田水脈の「LGBTは生産性がない」発言も同様の文脈に位置付けられる)。繰り返し強調しておくが、だからといって小生は彼等を弁護するつもりは微塵もない。
さて、国家は男女問わず国民を維持存続の手段と見做す、と書いた。しかし、彼等自民党員がモノ扱いするのは女性だけに限られている。これはもちろん、彼等が古臭い父権主義にとりつかれているせいでもあるのだが、次のような歴史的経緯も影響している。
一九世紀の人形愛から二〇世紀のロボット技術へといった潮流には、およそリプロダクションreproductionにまつわる次のような観念史があった。リプロダクションという単語には「出産」という意味合いと「工業的な生産」と二つの意味がある。もともととかげなどの尻尾が再生されることを指していた生物学的再生産/出産という意味合いに、産業革命後は工業的な意味が付与されたのである。この単語の意味の拡張の背景には、人間の再生産(すなわち出産)が限りなく女性性と連関して捉えられる一方、その女性的特質として認知されてきた再生産技術を、男性が奪還し工業システムとして作り上げるという視点があり、工業化社会の到来とともに、むしろ出産のほうが工業システムのレトリックで語られる傾向が強くなった。
(小谷真理『聖母エヴァンゲリオン――A New Millennialist Perspective on the Daughters of Eve』マガジンハウス)
70年代のフェミニズムSFでしばしば家父長制的ディストピア像の典型として登場する家畜小屋的収容所的抑圧装置は、多くの場合、この「化学工場/ドイツ強制収容所」をモデルにしていると思われるが、いまだに現実が幻想を凌駕するその倒錯システムぶりは、類をみない。もちろん、アメリカの家父長制の象徴とドイツの強制収容所がダブル・イメージを成す歴史において、急速に発展を遂げる「工業」を背景とした産業構造のなかで搾取される女性は、かつて抑圧された少数民族と類推可能だし、そこからフェミニズム的思弁が花開いていくだろう。が、ここで興味深いのは、とにかくそうした抑圧装置の典型が「工場」の意匠として表象されている点だ。そこには、アウシュヴィッツやダッハウなど、もともと工場が収容所として再利用された事情に加え、女性/ユダヤ人をどう使うか、どう産業に組みこむかといった意味あいが内包されている。
たとえば70年代の代表的ディストピアSFであるスージー・マッキー・チャーナスの『マザーライン』では、女性家畜フェムが再生産装置・出産機械として描かれていたが、じじつ当のドイツ強制収容所内部において、「工場」内部のユダヤ人の立場は、当初は「労働力」、次に「家畜」、さらには「材料」へと意味あいを変えている。「生産」の名のもとに展開された「悪夢のかたち」がそこにある。
(同上『おこげノススメ――カルト的男性論』青土社)
彼等の「産めよ増やせよ」思考は、過去の一時期においては有効であったかもしれない。実際自民党は、戦後復興や高度経済成長を主導してきた政党である。しかし、日本社会が停滞期に入った今、耐用期限が過ぎた思考に未だ執着している自民党は、半ばその歴史的役目を終えつつあるのではないだろうか。
以上を補助線として考えると、なぜ麻薬が国家によって規制されているのかを整合的に説明できる。麻薬を使用すると、労働意欲を失ったり、心身を損なってしまうおそれがある。国家は、そのような事態を避けたいのだ。「お前たち国民は国のために働かなければならない。労働の妨げとなる薬物使用は認めない」というわけだ。そしてこのことは――よく言及されていることだが――、国は国民の身体をも所有しようと志向している、ということでもある。麻薬が禁止されているということは、自分の身体が(限定的にであれ)自分自身のものではなく、国家の所有物であるということだ。
ところで、欧米の一部の国では、マリファナなどのソフトドラッグが解禁される傾向にある。ヨーロッパではオランダとスペイン。北米ではカナダとアメリカのアラスカ、オレゴン、コロラド、コロンビア、ワシントン、メイン、カリフォルニア、マサチューセッツ、ネバダなどの州。これらの地で、医療用ではない、嗜好品としてのマリファナが合法化されている。この先進国にみられる「流れ」はどう理解したらいいのだろう。
あらかじめ断っておくと、小生はここで日本もこれらの国々に倣ってソフトドラッグを解禁すべきだ、と主張したいのではない。ソフトドラッグを解禁したほうがいいのかどうかは、正直よくわからない。
肯定派の代表的な意見には、「酒やタバコよりも害が少ない」というのがあるが、それが本当かどうかもわからない。対して、否定派の代表的な意見には、「マリファナはコカインやヘロインなどのハードドラッグへの入り口、ゲートウェイドラッグになりがちだからよくない」というのがある。しかし、入り口になるというのなら、マリファナに限らず、酒やタバコだって入り口になりうるのではないか。マリファナを封じこめればそれだけでハードドラッグへの入り口がなくなるというものでもないはずだ。それに、ソフトドラッグがあるからハードドラッグに手を出さずに済むという、逆向きの効果が起きる可能性もある。その場合には、ソフトドラッグのおかげでハードドラッグ使用者が抑制されているという肯定的評価を下さねばなるまい。
「善良な一般市民」は、薬物使用者を、単に「クズ」というレッテルを貼って片付けようとする。しかし、彼等を「薬物に頼らざるを得ないほど高ストレスに覆われた日々を生きている」人達と見做すことだってできる。また、「日本の高度経済成長はヒロポンが支えた」という説を聞いたこともある。高度経済成長の担い手となった人達の多くが、ヒロポン中毒者であった、という説だ。本当かどうかはわからない。だが、事実だとすれば、現代社会というのは、薬物の助けなしには遂行することができないほど過重な労働を要求される社会ということになるだろう。
現代を生きる我々は、法律で禁止されているというだけで麻薬をとんでもないものだと思い込んでいるが、何を禁止し、何を合法とするかは時代や地域や文化によって大きく左右される。つまり、恣意的に決められることでしかないのだ。近代以前には麻薬はご法度ではなく、むしろ宗教儀式などの場において、積極的に用いられる秘薬であった。文化的に不可欠なもののひとつとされていたのだ。
それに、禁止されていない酒にもタバコにも害はある。特に酒はアルコール中毒という深刻な症状をもたらしかねない。民間のカジノが解禁されようとしている近年の流れに対しては、ギャンブル中毒者が増えるという反対意見があるが、パチンコや競馬などの公営ギャンブルなら良しとされている現状においてすら、相当数の中毒者がいる。ではこれらも禁止すべきなのか。
それに関しては、アメリカがピューリタンの禁欲精神を大いに発露させた禁酒法の時代が参考になる。禁止されてもなお、人々のアルコールを希求する熱望はやむことなく、密造酒が闇取引され、マフィアが暗躍する契機となった。この時代に名を馳せたのがアル・カポネであることはご案内の通り。
おそらくは、そういうことなのだと思う。ある種の嗜好品は、一定の割合で人に害を及ぼしてしまう。だから、その嗜好品を無くしてしまえば害も一掃できるのだが、そうすると、人の暮らしは砂を噛むような、味気ないものへと変貌してしまう。社会に一定の割合で害を生み出してでも、人は嗜好品を求めずにはいられないのだ。その意味で、「どうせ人間誰もがなんらか漬けで生きてんだ」と歌った竹原ピストルは、正しすぎるほど正しい(「LIVE IN 和歌山」)。
そして、禁止された嗜好品は闇取引されるようになり、形成されたブラックマーケットは税金に還元されないアングラマネーの水脈を生み、反社会勢力の温床となる。
つまり、「禁止するのが100%良いこと」なのでも、「合法化するのが100%良いこと」なのでもなく、禁止にも合法化にもそれぞれ良い面と悪い面があり、それらの良い悪いの度合いを比較考量したうえで禁止と合法のどちらが「よりマシなのか」を決するしかないのだ。だから、何を禁止し、何を合法とするかは非常に恣意的で曖昧なものとなりがちだ。それでも、社会を営むためには線引きを行わねばならず、その規定がいくらか不合理に感じられようとも、その共同体の成員である限りは同意してもらうしかない。
マリファナ解禁の目的は、禁止することでアングラマネーを生み出すくらいなら、合法化して税収を上げたほうがいいとか、ハードドラッグにまで至らないようにソフトドラッグで満足してもらおうなどといった判断が介在しているのだろう。
しかし、それらとは別に、もっと大きな理由があるのではないか。それは、国家の、国民に対する態度の変容、国家が対峙する対象の変更であり、そこからさらに視点を拡げれば、国民国家という共同体の変質という問題にまで繋がってくるのではないかと思う。どういうことか。
鍵となるのは「グローバル化」という趨勢である。グローバル化が進行する現在において、国家の収入源となる対象は、国内から国外にシフトしつつある(この場合の国外というのは、地理だけでなく、制度も含む)。本社とオフィスと製造工場をそれぞれ違う国に置き、しかも絶えず移転を繰り返すグローバル企業は、国家が一対一対応で管理できる代物ではない。国家と企業、あるいは国家と国民がほぼ一対一対応で把握することができるのであれば、話は簡単である。国民を適切に囲い込んでいれば、国民と、国民が帰属する企業が税収をもたらしてくれる。しかし、グローバル化によって囲い込みが成り立たなくなってくると、真剣に国民を管理する必要性は減じる。
ひとつの国家の中に留まらず、流動的に活動するグローバル企業。先般福岡で開催されたG20財務相会議でも、「GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)から如何にして課税するか」が議題となっていたようだが(余談だけど、開催期間の2日間はずっとヘリが飛んでてうるさかったよ)、そのグローバル企業が莫大なマネーを生み出し続けているというのであれば、国家が真剣に対峙すべき相手は、グローバル企業であって、国民ではない。
また、グローバル企業からどのようにして課税するかという問題は、どうやってほかの国家より1円でも多く課税するか、という問題でもある。よって、国家同士の、グローバル企業をめぐる縄張り争いという構図も浮上してくる。「国家対グローバル企業」という対立構図のみならず、グローバル企業の版図を背景とした「国家対国家」の対立も前景化してくるということである。もちろん国家は縄張り争いに熱を入れるので、そのぶん国民に対する管理意識は低くなる。(仮想通貨のような、国家をバックボーンとしない通貨の台頭も関係しているのかもしれない)
マリファナのようなソフトドラッグが解禁されるということは、国家が最重要視する対象が、国民からグローバル企業へと移行しつつあることの表れなのではないだろうか。国家の注意がグローバル企業へと向かい、そのぶん国民に対する意識は緩くなる。その管理意識のゆるみがドラッグ解禁のきっかけとなったのではないか。「国家の管理意識が緩くなる」というのは、換言すれば「納税を求める対象を変更する」、および「納税のしかたを変える」ということである。
「これからはグローバル企業から税金ふんだくっていくから、たいして稼ぎもないお前ら国民は、せいぜいドラッグでもやっててくれ。ドラッグもそれなりに税収源になるから、稼ぎ(納税)の少なさをドラッグで補ってもらうとしよう」、というわけだ。
そして、国際的状況を鑑みるに、グローバル化の趨勢は今後も進展こそすれ、後退することはまずありえないだろう。だとすると、国家の国民に対する監視の目、手綱を緩める傾向もまた、強まっていくのではないかと推測される。欧米のいくつかの国で同性婚が認められるようになってきているのも、単に人道的配慮、あるいは法の下の平等の追求というよりは、国家が手綱を緩めつつあることの反映なのではないか。これまでは公営のギャンブルだけが合法だった日本で、民間のカジノが解禁されようとしているのもその流れに位置付けられる出来事だろうが、そのようにして、これまではご法度とされてきたことが次々に認められるようになる可能性は高い。(個人的には、民間のカジノを解禁するのであれば、税金をたっぷり吸い上げてギャンブル中毒者の治療費に充てるべきだし、公営ギャンブルの収益からももっとそっちに回していくべきだと思う)
それらの変化の中で、社会はどのような変貌を遂げるのか。また、このことは「国家の国民に対する姿勢」の変質だけでなく、国民国家という枠組みが解体しつつある表れでもあるのかもしれない。さて・・・。
オススメ関連本 アダム・グラント『GIVE & TAKE――「与える人」こそ成功する時代』三笠書房
その時、小生はまず「なんでよ、いらねーじゃん!」と思った。電気グルーヴはほとんど自分たちのやりたいことだけをやり、なおかつ大きな社会的成功を収めてきたユニットという印象だったからだ。それに曲作りや演奏はほぼ石野卓球ひとりが負っているため、ミュージシャンとしての苦しみから逃れるために薬物に頼る、という図式は瀧には当てはまらない。その意味でも「なぜ?」と思ったのだ。
まあ、人の頭の中はわからない。赤の他人にはあずかり知らぬ苦悩が、瀧にはあったのかもしれない(のちの初公判で「役者の仕事が増えてきたことでストレスがあった」と供述している)。また、ここで小生は瀧の行為を道徳的に非難しようとしているのではない。善良な一般市民ヅラをするような趣味はないし、薬物使用者を声高に非難する良い子ブリッコごっこにも興味がない。赤の他人が薬物を使用したからといって、自分とは何の関係もない話としか思えない。ただ、瀧の心身の健康と、彼の今後の人生が少しでも幸多からんことを願うばかりである。
そもそも、薬物の使用はなぜ犯罪行為に該当するのであろうか。薬物は、基本的に自分自身を傷付けるものである。錯乱状態に陥ったり、幻覚に捕らわれたりすることで、他人に危害を及ぼすことも稀にはあるし、自分を傷付けることによって、間接的に家族や友人知人を(精神的に)傷付けることもあるにせよ、通常は己の心身を蝕むだけのもののはずだ。
だから、薬物の使用は、悪しき見本とされるのはやむを得ないとしても、権力の取り締まりの対象となるのは不自然なように思える。「自分を傷付けるのはよくないですよ」と慰撫するならともかく、「何やってんだバカ」と罵倒するのは筋違いではないか。この点を全く考慮せずに薬物使用者を人道的に批判したり、偉そうに愚か者呼ばわりしたりしている人達は、じつに安易である。単に犯罪に当たるというだけで、殺人や強盗と同等だと安直に思い込んでいるのだろう。
なぜ薬物は法律で禁止されているのだろうか。この疑問に答えを出すために、無関係に思われるかもしれないが、まず政治家の失言問題に検証を加えてみたい。
2007年1月27日、柳澤伯夫厚生労働大臣(当時)は、島根県松江市で開かれた自民党県議の集会で「これからの年金・福祉・医療の展望について」を議題に講演した際、少子化対策について、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と発言した。
この通称「産む機械」発言には当時、大きな非難の嵐が沸き起こった。メディアはここぞとばかり大々的に取り上げ、格好の攻撃材料を手に入れた野党は、政権批判を強めるとともに、柳澤に大臣辞任を迫った。市民団体も抗議活動や大臣辞任を求める署名活動などを行い、騒ぎはしばらく収まらなかった。
当然ながらそれらの非難の主意は、「女性差別は許さない」というものであった。確かに差別的な発言ではあったが、小生は当時、批判すべきポイントはそこではないのではないか、と思っていた。というのも、彼の発言は、出産適齢期の女性に向けられたものではあったのだが、その背後には、老若男女を問わずすべての国民を対象とした、あるひとつの含意が潜んでいるように感じられたからだ。
国家にとって国民とは、「生産」と「再生産」の手段である。ここで言う生産とは労働のことで、再生産とは出産のことである。国家とは、己の維持存続を第一義とする政治運動体である。そして、維持存続には国民の存在が欠かせない。国家の動力・エネルギーは経済であり、経済力は労働によって備給される。今現在働いている人達もいつかは働けなくなるし、労働力は多ければ多いほどいい。そのため、生産(労働)の次に再生産(出産)が重要となる。
ゆえに、国家は国民を管理しようと、知力を尽くす。そこには、良いも悪いもない。ミシェル・フーコーがつとに指摘しているように、近代の権力とは、その成員を「殺す」のではなく、「生かす」方向で管理しようとする「生権力」である。自らの動力とするために、国民が適切に生き続けるよう管理するのだ。
ただし、その管理体制があまりに非人間的で冷酷な制度であった場合、おもにリベラルの立場からの「もっと血のかよった扱いをしろ」という異議申し立てがなされるわけで、利害の調節はつねに図られねばならないのだが、それはそれとして、国家がそのような主体であるということは、いかんともしがたい厳然たる現実である。
むろん国家に人格などないのだが、あたかも人格があるかのように幻視してしまうのが人間の社会的意識である。そして、幻視した国家の願望を代行するのが司法・立法・行政に携わる人々である。であるならば、国家権力の中枢、もしくはその近傍にいる者が、国家の意志を自分自身の意志と混同したり、国家と自分の区別がつかなくなったりするなどの錯誤は、大いに起こり得ることである。だから、55年体制以降、ごく一部の期間を除いて政権与党であり続けてきた自民党の、しかもそのベテラン議員の幹部の口から、「今国家が一番求めているもの」が漏れ出たとしても、何ら不思議ではないだろう。念のため断っておくが、小生はここで柳澤を擁護しようとしているのではない。客観的な考察を加えているのである。
男はおもに生産(労働)のための手段で、女はおもに再生産(出産)のための手段。そんなシステマティックな国家の国民観がはしなくも露呈してしまったのが、あの「産む機械」発言だったのではないか、と思う。だから、この発言に対するピンポイントな反論は、「女性差別は許さない」ではなく、「私たちは(男も女もともに)国家に奉仕するためだけに生きているのではない」ではなかったろうかと思うのだ。
最近も桜田義孝前五輪相が「結婚しなくていいという女の人が増えている。お子さん、お孫さんには子供を最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」と発言していたし、この手の失言は定期的に世間を騒がせている。
小西英男「子供を産まないとダメだぞ」(14・4)
山東昭子「子供を4人以上産んだ女性を厚生労働省で表彰することを検討してはどうか」(17・11)
加藤寛治「新郎新婦には必ず3人以上の子供を産み育てていただきたい」(18・5)
二階俊博「この頃、子供を産まないほうが幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」(18・6)
麻生太郎「いかにも年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、間違っていますよ。子供を産まなかった方が問題なんだから」(19・2)
彼等がみな自民党員であることに注目しよう。これはもちろん、自民党という政党が旧態依然とした家父長制で運営されていることの表れでもあるのだが、政権与党であるということも大きい。つまり、彼等が自分の意志で自らの主義主張を語っているのではなく、「国家が彼等の口を借りてその願望を語らせている」というふうに捉えることもできるのだ(杉田水脈の「LGBTは生産性がない」発言も同様の文脈に位置付けられる)。繰り返し強調しておくが、だからといって小生は彼等を弁護するつもりは微塵もない。
さて、国家は男女問わず国民を維持存続の手段と見做す、と書いた。しかし、彼等自民党員がモノ扱いするのは女性だけに限られている。これはもちろん、彼等が古臭い父権主義にとりつかれているせいでもあるのだが、次のような歴史的経緯も影響している。
一九世紀の人形愛から二〇世紀のロボット技術へといった潮流には、およそリプロダクションreproductionにまつわる次のような観念史があった。リプロダクションという単語には「出産」という意味合いと「工業的な生産」と二つの意味がある。もともととかげなどの尻尾が再生されることを指していた生物学的再生産/出産という意味合いに、産業革命後は工業的な意味が付与されたのである。この単語の意味の拡張の背景には、人間の再生産(すなわち出産)が限りなく女性性と連関して捉えられる一方、その女性的特質として認知されてきた再生産技術を、男性が奪還し工業システムとして作り上げるという視点があり、工業化社会の到来とともに、むしろ出産のほうが工業システムのレトリックで語られる傾向が強くなった。
(小谷真理『聖母エヴァンゲリオン――A New Millennialist Perspective on the Daughters of Eve』マガジンハウス)
70年代のフェミニズムSFでしばしば家父長制的ディストピア像の典型として登場する家畜小屋的収容所的抑圧装置は、多くの場合、この「化学工場/ドイツ強制収容所」をモデルにしていると思われるが、いまだに現実が幻想を凌駕するその倒錯システムぶりは、類をみない。もちろん、アメリカの家父長制の象徴とドイツの強制収容所がダブル・イメージを成す歴史において、急速に発展を遂げる「工業」を背景とした産業構造のなかで搾取される女性は、かつて抑圧された少数民族と類推可能だし、そこからフェミニズム的思弁が花開いていくだろう。が、ここで興味深いのは、とにかくそうした抑圧装置の典型が「工場」の意匠として表象されている点だ。そこには、アウシュヴィッツやダッハウなど、もともと工場が収容所として再利用された事情に加え、女性/ユダヤ人をどう使うか、どう産業に組みこむかといった意味あいが内包されている。
たとえば70年代の代表的ディストピアSFであるスージー・マッキー・チャーナスの『マザーライン』では、女性家畜フェムが再生産装置・出産機械として描かれていたが、じじつ当のドイツ強制収容所内部において、「工場」内部のユダヤ人の立場は、当初は「労働力」、次に「家畜」、さらには「材料」へと意味あいを変えている。「生産」の名のもとに展開された「悪夢のかたち」がそこにある。
(同上『おこげノススメ――カルト的男性論』青土社)
彼等の「産めよ増やせよ」思考は、過去の一時期においては有効であったかもしれない。実際自民党は、戦後復興や高度経済成長を主導してきた政党である。しかし、日本社会が停滞期に入った今、耐用期限が過ぎた思考に未だ執着している自民党は、半ばその歴史的役目を終えつつあるのではないだろうか。
以上を補助線として考えると、なぜ麻薬が国家によって規制されているのかを整合的に説明できる。麻薬を使用すると、労働意欲を失ったり、心身を損なってしまうおそれがある。国家は、そのような事態を避けたいのだ。「お前たち国民は国のために働かなければならない。労働の妨げとなる薬物使用は認めない」というわけだ。そしてこのことは――よく言及されていることだが――、国は国民の身体をも所有しようと志向している、ということでもある。麻薬が禁止されているということは、自分の身体が(限定的にであれ)自分自身のものではなく、国家の所有物であるということだ。
ところで、欧米の一部の国では、マリファナなどのソフトドラッグが解禁される傾向にある。ヨーロッパではオランダとスペイン。北米ではカナダとアメリカのアラスカ、オレゴン、コロラド、コロンビア、ワシントン、メイン、カリフォルニア、マサチューセッツ、ネバダなどの州。これらの地で、医療用ではない、嗜好品としてのマリファナが合法化されている。この先進国にみられる「流れ」はどう理解したらいいのだろう。
あらかじめ断っておくと、小生はここで日本もこれらの国々に倣ってソフトドラッグを解禁すべきだ、と主張したいのではない。ソフトドラッグを解禁したほうがいいのかどうかは、正直よくわからない。
肯定派の代表的な意見には、「酒やタバコよりも害が少ない」というのがあるが、それが本当かどうかもわからない。対して、否定派の代表的な意見には、「マリファナはコカインやヘロインなどのハードドラッグへの入り口、ゲートウェイドラッグになりがちだからよくない」というのがある。しかし、入り口になるというのなら、マリファナに限らず、酒やタバコだって入り口になりうるのではないか。マリファナを封じこめればそれだけでハードドラッグへの入り口がなくなるというものでもないはずだ。それに、ソフトドラッグがあるからハードドラッグに手を出さずに済むという、逆向きの効果が起きる可能性もある。その場合には、ソフトドラッグのおかげでハードドラッグ使用者が抑制されているという肯定的評価を下さねばなるまい。
「善良な一般市民」は、薬物使用者を、単に「クズ」というレッテルを貼って片付けようとする。しかし、彼等を「薬物に頼らざるを得ないほど高ストレスに覆われた日々を生きている」人達と見做すことだってできる。また、「日本の高度経済成長はヒロポンが支えた」という説を聞いたこともある。高度経済成長の担い手となった人達の多くが、ヒロポン中毒者であった、という説だ。本当かどうかはわからない。だが、事実だとすれば、現代社会というのは、薬物の助けなしには遂行することができないほど過重な労働を要求される社会ということになるだろう。
現代を生きる我々は、法律で禁止されているというだけで麻薬をとんでもないものだと思い込んでいるが、何を禁止し、何を合法とするかは時代や地域や文化によって大きく左右される。つまり、恣意的に決められることでしかないのだ。近代以前には麻薬はご法度ではなく、むしろ宗教儀式などの場において、積極的に用いられる秘薬であった。文化的に不可欠なもののひとつとされていたのだ。
それに、禁止されていない酒にもタバコにも害はある。特に酒はアルコール中毒という深刻な症状をもたらしかねない。民間のカジノが解禁されようとしている近年の流れに対しては、ギャンブル中毒者が増えるという反対意見があるが、パチンコや競馬などの公営ギャンブルなら良しとされている現状においてすら、相当数の中毒者がいる。ではこれらも禁止すべきなのか。
それに関しては、アメリカがピューリタンの禁欲精神を大いに発露させた禁酒法の時代が参考になる。禁止されてもなお、人々のアルコールを希求する熱望はやむことなく、密造酒が闇取引され、マフィアが暗躍する契機となった。この時代に名を馳せたのがアル・カポネであることはご案内の通り。
おそらくは、そういうことなのだと思う。ある種の嗜好品は、一定の割合で人に害を及ぼしてしまう。だから、その嗜好品を無くしてしまえば害も一掃できるのだが、そうすると、人の暮らしは砂を噛むような、味気ないものへと変貌してしまう。社会に一定の割合で害を生み出してでも、人は嗜好品を求めずにはいられないのだ。その意味で、「どうせ人間誰もがなんらか漬けで生きてんだ」と歌った竹原ピストルは、正しすぎるほど正しい(「LIVE IN 和歌山」)。
そして、禁止された嗜好品は闇取引されるようになり、形成されたブラックマーケットは税金に還元されないアングラマネーの水脈を生み、反社会勢力の温床となる。
つまり、「禁止するのが100%良いこと」なのでも、「合法化するのが100%良いこと」なのでもなく、禁止にも合法化にもそれぞれ良い面と悪い面があり、それらの良い悪いの度合いを比較考量したうえで禁止と合法のどちらが「よりマシなのか」を決するしかないのだ。だから、何を禁止し、何を合法とするかは非常に恣意的で曖昧なものとなりがちだ。それでも、社会を営むためには線引きを行わねばならず、その規定がいくらか不合理に感じられようとも、その共同体の成員である限りは同意してもらうしかない。
マリファナ解禁の目的は、禁止することでアングラマネーを生み出すくらいなら、合法化して税収を上げたほうがいいとか、ハードドラッグにまで至らないようにソフトドラッグで満足してもらおうなどといった判断が介在しているのだろう。
しかし、それらとは別に、もっと大きな理由があるのではないか。それは、国家の、国民に対する態度の変容、国家が対峙する対象の変更であり、そこからさらに視点を拡げれば、国民国家という共同体の変質という問題にまで繋がってくるのではないかと思う。どういうことか。
鍵となるのは「グローバル化」という趨勢である。グローバル化が進行する現在において、国家の収入源となる対象は、国内から国外にシフトしつつある(この場合の国外というのは、地理だけでなく、制度も含む)。本社とオフィスと製造工場をそれぞれ違う国に置き、しかも絶えず移転を繰り返すグローバル企業は、国家が一対一対応で管理できる代物ではない。国家と企業、あるいは国家と国民がほぼ一対一対応で把握することができるのであれば、話は簡単である。国民を適切に囲い込んでいれば、国民と、国民が帰属する企業が税収をもたらしてくれる。しかし、グローバル化によって囲い込みが成り立たなくなってくると、真剣に国民を管理する必要性は減じる。
ひとつの国家の中に留まらず、流動的に活動するグローバル企業。先般福岡で開催されたG20財務相会議でも、「GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)から如何にして課税するか」が議題となっていたようだが(余談だけど、開催期間の2日間はずっとヘリが飛んでてうるさかったよ)、そのグローバル企業が莫大なマネーを生み出し続けているというのであれば、国家が真剣に対峙すべき相手は、グローバル企業であって、国民ではない。
また、グローバル企業からどのようにして課税するかという問題は、どうやってほかの国家より1円でも多く課税するか、という問題でもある。よって、国家同士の、グローバル企業をめぐる縄張り争いという構図も浮上してくる。「国家対グローバル企業」という対立構図のみならず、グローバル企業の版図を背景とした「国家対国家」の対立も前景化してくるということである。もちろん国家は縄張り争いに熱を入れるので、そのぶん国民に対する管理意識は低くなる。(仮想通貨のような、国家をバックボーンとしない通貨の台頭も関係しているのかもしれない)
マリファナのようなソフトドラッグが解禁されるということは、国家が最重要視する対象が、国民からグローバル企業へと移行しつつあることの表れなのではないだろうか。国家の注意がグローバル企業へと向かい、そのぶん国民に対する意識は緩くなる。その管理意識のゆるみがドラッグ解禁のきっかけとなったのではないか。「国家の管理意識が緩くなる」というのは、換言すれば「納税を求める対象を変更する」、および「納税のしかたを変える」ということである。
「これからはグローバル企業から税金ふんだくっていくから、たいして稼ぎもないお前ら国民は、せいぜいドラッグでもやっててくれ。ドラッグもそれなりに税収源になるから、稼ぎ(納税)の少なさをドラッグで補ってもらうとしよう」、というわけだ。
そして、国際的状況を鑑みるに、グローバル化の趨勢は今後も進展こそすれ、後退することはまずありえないだろう。だとすると、国家の国民に対する監視の目、手綱を緩める傾向もまた、強まっていくのではないかと推測される。欧米のいくつかの国で同性婚が認められるようになってきているのも、単に人道的配慮、あるいは法の下の平等の追求というよりは、国家が手綱を緩めつつあることの反映なのではないか。これまでは公営のギャンブルだけが合法だった日本で、民間のカジノが解禁されようとしているのもその流れに位置付けられる出来事だろうが、そのようにして、これまではご法度とされてきたことが次々に認められるようになる可能性は高い。(個人的には、民間のカジノを解禁するのであれば、税金をたっぷり吸い上げてギャンブル中毒者の治療費に充てるべきだし、公営ギャンブルの収益からももっとそっちに回していくべきだと思う)
それらの変化の中で、社会はどのような変貌を遂げるのか。また、このことは「国家の国民に対する姿勢」の変質だけでなく、国民国家という枠組みが解体しつつある表れでもあるのかもしれない。さて・・・。
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