(②からの続き)
「叩かなければわからない子供もいる」とか「(学校現場などで、他の子供のことを考えて)やむを得ず叩かなければならない場合もある」などの意見もある。だが、本当にそうだろうか。
大人と子供には、それでなくても大きな力の差(ここで言う力とは、腕力のことだけではない。衣食住を構成する力――つまり経済力――や、社会的権力も含まれる)がある。本当に体罰しか手段がないのだろうか。
ここで先程の「口で言って聞かせることもできるのに、叩いたほうが手っ取り早いから叩いた体罰」を見てみたい。
小生が子供の頃、公教育の現場ではまだ体罰がまかり通っていた。自分自身殴られたこともあるし、他の生徒が殴られているのも何度となく目撃している。その経験から言うと、ほとんどの教師は、まず言葉による説得を行い、それが聞き入れられなかった場合に初めて殴る、というプロセスを経ることなく、最初からいきなり殴っていた。
大人になった今振り返ってみて、体罰以外の手段を模索しようとしなかった彼等は、やはり無能であったと思う。無能という言葉が強すぎると言うなら、「安易」や「怠惰」に言い換えてもいい。いずれにせよ、尊敬に値しない点において変わりはない。
敬意も信頼も生み出さず、逆に軽蔑や恨みをもたらす体罰とは、一体何なのか。体罰を肯定する者は、「子供に言うことをきかせる」という、その場限りでの効用のみ考えているようだが、その後の子供との信頼関係に与える影響だってあるし、むしろ諸々の影響を総合すると、体罰はマイナス面のほうが大きいかもしれないのだ。
もちろんこれは個人的体験に基づいた個人的意見でしかない。ただ、体罰を許容していると、このような考えを抱く人間を生み出してしまうわけで、小生は、決して自身が少数派ではないと信じている。
体罰が禁止されているのをいいことに、生徒が教師に暴力を振るう、という事例があり、それを根拠に体罰の復活を訴える人もいる。
ならば、正当防衛のための体罰ならギリギリ認めてもいいと思う。実際に手を出さなくても、「これ以上言うことを聞かないなら殴るぞ。その気になれば手を出せるんだぞ」と脅しをかければ、それだけで統御することができるからだ。つまり、「体罰そのもの」ではなく「体罰というカード」を利用する、ということだ。
だが、そんな繊細な使い方ができる人がいるだろうか。体罰について突き詰めて考えられていない状態で解禁してしまえば、不必要な体罰を横行させてしまうのではないだろうか。
「叩かなければわからない子供もいる」というのも、確かに(部分的に)事実ではある。小生の同級生の中にも何人か、いわゆる「ワル」がいた。彼らは、実際よく大人に殴られていた。そして、ずーっとワルだった。
ならば、彼らはいつ、どのようにして更生したのか。
それは、就職の時だ。「もういいかげんバカやってられない。社会人にならなくちゃいけない」
彼らは、体罰によってではなく、必要に迫られて更生したのだ。
体罰は、その場限りの反省、もしくは反省したフリを引き出すことはできる。だが、その場限りのものでしかないのなら、使わないほうがいいのではないだろうか。
そもそも、いついかなる場面でも、子供は大人に従わねばならないのだろうか。「言うことを聞かないなら、放っておく」という選択肢があってもいいのではないだろうか。日本の公教育の管理体制の過剰さは、よく指摘されている。外国からは、日本の学校は、軍隊や監獄、あるいは奴隷制に見えるらしい。外からは異常にしか見えない体制を懸命に維持しようと努め、そのためには体罰すらためらうべきではないとするならば、それは有害なものを有害な行為で塗り固めていることにならないだろうか。
さて、以上の議論をよく読んで頂ければ、小生が「体罰を振るうことによる問題」に対してはきちんと反証を加えているものの、「体罰を禁じることによる問題」は完全には解決できていないことがおわかり頂けると思う。
体罰肯定論者が、体罰を復活させる根拠としている点に対して、小生は、具体的な解決策を部分的にしか提示しきれていない。だが、開き直りではないが、小生はそれで構わないと思っている。
体罰を解放するにせよ、禁じるにせよ、問題が付きまとうことに変わりはない。しかし、問題を抱える主体は違ってくる。
体罰を解放すると、子供の側が問題を負わねばならず、その逆だと大人の側が負わねばならない。
負担は、大人が負うべきだと思う。そもそも、「解決できない問題を抱えつつも、なんとかそれと折り合いをつけていく者」のことを大人と呼ぶのである。
「体罰を容認しろ」という訴えは、小生には「ラクをさせろ」と聞こえる。子供に負担を押し付けて、自分達はラクをしたい、と主張している様に聞こえる。
大人は、ラクをしてはならない。
体罰に依らずに教育を施すこと。子供のことも、それ以外のことも、思い通りにならない面を受け入れること。いじめや虐待をなくすために、ます自分が暴力の種を蒔かないこと。
それらの困難を抱えてこそ、大人は大人として成熟するのではないだろうか。
大人自身が成熟しようとしていないのに、今の子供を「幼稚だ」と揶揄することはできない。
オススメ関連本・大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』朝日出版社
「叩かなければわからない子供もいる」とか「(学校現場などで、他の子供のことを考えて)やむを得ず叩かなければならない場合もある」などの意見もある。だが、本当にそうだろうか。
大人と子供には、それでなくても大きな力の差(ここで言う力とは、腕力のことだけではない。衣食住を構成する力――つまり経済力――や、社会的権力も含まれる)がある。本当に体罰しか手段がないのだろうか。
ここで先程の「口で言って聞かせることもできるのに、叩いたほうが手っ取り早いから叩いた体罰」を見てみたい。
小生が子供の頃、公教育の現場ではまだ体罰がまかり通っていた。自分自身殴られたこともあるし、他の生徒が殴られているのも何度となく目撃している。その経験から言うと、ほとんどの教師は、まず言葉による説得を行い、それが聞き入れられなかった場合に初めて殴る、というプロセスを経ることなく、最初からいきなり殴っていた。
大人になった今振り返ってみて、体罰以外の手段を模索しようとしなかった彼等は、やはり無能であったと思う。無能という言葉が強すぎると言うなら、「安易」や「怠惰」に言い換えてもいい。いずれにせよ、尊敬に値しない点において変わりはない。
敬意も信頼も生み出さず、逆に軽蔑や恨みをもたらす体罰とは、一体何なのか。体罰を肯定する者は、「子供に言うことをきかせる」という、その場限りでの効用のみ考えているようだが、その後の子供との信頼関係に与える影響だってあるし、むしろ諸々の影響を総合すると、体罰はマイナス面のほうが大きいかもしれないのだ。
もちろんこれは個人的体験に基づいた個人的意見でしかない。ただ、体罰を許容していると、このような考えを抱く人間を生み出してしまうわけで、小生は、決して自身が少数派ではないと信じている。
体罰が禁止されているのをいいことに、生徒が教師に暴力を振るう、という事例があり、それを根拠に体罰の復活を訴える人もいる。
ならば、正当防衛のための体罰ならギリギリ認めてもいいと思う。実際に手を出さなくても、「これ以上言うことを聞かないなら殴るぞ。その気になれば手を出せるんだぞ」と脅しをかければ、それだけで統御することができるからだ。つまり、「体罰そのもの」ではなく「体罰というカード」を利用する、ということだ。
だが、そんな繊細な使い方ができる人がいるだろうか。体罰について突き詰めて考えられていない状態で解禁してしまえば、不必要な体罰を横行させてしまうのではないだろうか。
「叩かなければわからない子供もいる」というのも、確かに(部分的に)事実ではある。小生の同級生の中にも何人か、いわゆる「ワル」がいた。彼らは、実際よく大人に殴られていた。そして、ずーっとワルだった。
ならば、彼らはいつ、どのようにして更生したのか。
それは、就職の時だ。「もういいかげんバカやってられない。社会人にならなくちゃいけない」
彼らは、体罰によってではなく、必要に迫られて更生したのだ。
体罰は、その場限りの反省、もしくは反省したフリを引き出すことはできる。だが、その場限りのものでしかないのなら、使わないほうがいいのではないだろうか。
そもそも、いついかなる場面でも、子供は大人に従わねばならないのだろうか。「言うことを聞かないなら、放っておく」という選択肢があってもいいのではないだろうか。日本の公教育の管理体制の過剰さは、よく指摘されている。外国からは、日本の学校は、軍隊や監獄、あるいは奴隷制に見えるらしい。外からは異常にしか見えない体制を懸命に維持しようと努め、そのためには体罰すらためらうべきではないとするならば、それは有害なものを有害な行為で塗り固めていることにならないだろうか。
さて、以上の議論をよく読んで頂ければ、小生が「体罰を振るうことによる問題」に対してはきちんと反証を加えているものの、「体罰を禁じることによる問題」は完全には解決できていないことがおわかり頂けると思う。
体罰肯定論者が、体罰を復活させる根拠としている点に対して、小生は、具体的な解決策を部分的にしか提示しきれていない。だが、開き直りではないが、小生はそれで構わないと思っている。
体罰を解放するにせよ、禁じるにせよ、問題が付きまとうことに変わりはない。しかし、問題を抱える主体は違ってくる。
体罰を解放すると、子供の側が問題を負わねばならず、その逆だと大人の側が負わねばならない。
負担は、大人が負うべきだと思う。そもそも、「解決できない問題を抱えつつも、なんとかそれと折り合いをつけていく者」のことを大人と呼ぶのである。
「体罰を容認しろ」という訴えは、小生には「ラクをさせろ」と聞こえる。子供に負担を押し付けて、自分達はラクをしたい、と主張している様に聞こえる。
大人は、ラクをしてはならない。
体罰に依らずに教育を施すこと。子供のことも、それ以外のことも、思い通りにならない面を受け入れること。いじめや虐待をなくすために、ます自分が暴力の種を蒔かないこと。
それらの困難を抱えてこそ、大人は大人として成熟するのではないだろうか。
大人自身が成熟しようとしていないのに、今の子供を「幼稚だ」と揶揄することはできない。
オススメ関連本・大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』朝日出版社
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