(①からの続き)
そもそも、体罰は純粋に躾のためだけに行われている、と断言できるだろうか。
小生の考えでは、体罰は次の3つに分類できる。
〈A〉子供のためにやむを得ず行われた体罰
〈B〉口で言って聞かせることもできるのに、叩いたほうが手っ取り早いから叩いた体罰
〈C〉ただ単に、怒りをぶつけただけの体罰
この分類は、あくまで便宜的なものである。実際に行われる体罰は、これら3種の混合体として現れるだろう。体罰を振るう親(大人)は、少なからずイライラしているはずなので、〈A〉にも〈B〉にも、いくらか〈C〉の要素が混じってくるはずだ。
さて、この3分類の中で問題視すべきは、〈B〉と〈C〉に思えるだろう。
〈C〉に検討を加えてみたい。「イライラをぶつけただけ」の体罰は、客観的には有害な暴力である。積極的な教育効果をもたらさず、親(大人)との間の人間関係に亀裂を生じさせ、先に述べた暴力の有効性を教えてしまう。
このように解説すると、体罰肯定論者は、「だから〈A〉と〈C〉(及び〈B〉)を峻別し、〈C〉(及び〈B〉)の体罰を行う親(大人)を教え諭せば、体罰の問題は解決されるではないか」と考えるかもしれないが、ことはそう簡単にはいかない。
〈C〉の体罰を〈A〉と〈B〉から区別するには、どうすればいいだろうか。「イライラ」というのは、本人の中にのみ存在する感情である。傍からは怒っているように見えても、実際は平静だったり、あるいはその逆であったりすることはザラにある。感情は、本人にしかわからない。もっと言えば、人間に無意識の領域がある以上、本人であっても100%把握できるわけではない。
つまり、〈C〉の体罰を〈A〉と〈B〉から厳密に区別することは不可能なのである。第三者の目には、どう見ても〈C〉にしか思えない体罰であっても、本人が「これはやむを得ず躾としてやっているんです(この体罰は〈A〉です)」と強弁すれば、それを反証するのは難しい。出来ることといったら、明らかに行き過ぎた体罰が行われていた場合に、それを虐待として通報することぐらいだろう。(虐待には性的虐待と心理的虐待とネグレクトもあるが、ここでは身体的虐待のみに話を絞る)
もし、親(大人)が自省的な人間で、〈C〉の体罰を行使した後に、「ああ、私はイライラをぶつけてしまった。子供に申し訳ない」と冷静に自己分析できるのであれば、さほど問題はない。だが、「〈C〉なのに〈A〉だと思い込んでいる場合」、そして「〈C〉である自覚がありながら、保身のために〈A〉だと言い張る場合」はどうだろう。いずれにせよ、イライラが内面の現象でしかない以上、これらを区別することは第三者には(そして、おそらく本人にも)できない。
つまり、体罰を容認するのは、イライラをぶつけただけの行為を許容することに繋がり、それは究極的には虐待へと結びついてしまうのである。
虐待を働いた親が逮捕される事件が、よく報道されている。逮捕された親は、必ずと言っていいほど「躾のためにやった」と証言する。罪の軽減を狙って発言している者もいるだろう。だがおそらく、多くの場合、本人は本気でそう思い込んでいるのである。純粋に子供のためを思って、善意で苛烈な体罰を振るっていたのだ。
周囲からは良い父(母)親だと評価され、子供とも良好な関係を築いている親の体罰と、虐待で逮捕されるに至る親の体罰は、その意味で、実質的な違いはない。
体罰を開放すると、イライラをぶつけただけの行為を野放しにしてしまう。
ここまでに述べた理由から、小生は、体罰を肯定する者に、いじめや虐待を非難する資格はないと思っている。
小生はあらかじめ「体罰」と「暴力」の二語を定義しておいた。しかし、これまでの議論を踏まえると、この弁別自体が極めて曖昧なものであったことがおわかりいただけるだろう。この定義は、主観に基づく分類でしかないのだ。主観が恣意的に働くものである以上、「体罰」か、ただの「虐待」かの解釈は、それを行使する本人によってしか規定し得ない。
(③に続く)
オススメ関連本・内田樹『武道的思考』筑摩選書
そもそも、体罰は純粋に躾のためだけに行われている、と断言できるだろうか。
小生の考えでは、体罰は次の3つに分類できる。
〈A〉子供のためにやむを得ず行われた体罰
〈B〉口で言って聞かせることもできるのに、叩いたほうが手っ取り早いから叩いた体罰
〈C〉ただ単に、怒りをぶつけただけの体罰
この分類は、あくまで便宜的なものである。実際に行われる体罰は、これら3種の混合体として現れるだろう。体罰を振るう親(大人)は、少なからずイライラしているはずなので、〈A〉にも〈B〉にも、いくらか〈C〉の要素が混じってくるはずだ。
さて、この3分類の中で問題視すべきは、〈B〉と〈C〉に思えるだろう。
〈C〉に検討を加えてみたい。「イライラをぶつけただけ」の体罰は、客観的には有害な暴力である。積極的な教育効果をもたらさず、親(大人)との間の人間関係に亀裂を生じさせ、先に述べた暴力の有効性を教えてしまう。
このように解説すると、体罰肯定論者は、「だから〈A〉と〈C〉(及び〈B〉)を峻別し、〈C〉(及び〈B〉)の体罰を行う親(大人)を教え諭せば、体罰の問題は解決されるではないか」と考えるかもしれないが、ことはそう簡単にはいかない。
〈C〉の体罰を〈A〉と〈B〉から区別するには、どうすればいいだろうか。「イライラ」というのは、本人の中にのみ存在する感情である。傍からは怒っているように見えても、実際は平静だったり、あるいはその逆であったりすることはザラにある。感情は、本人にしかわからない。もっと言えば、人間に無意識の領域がある以上、本人であっても100%把握できるわけではない。
つまり、〈C〉の体罰を〈A〉と〈B〉から厳密に区別することは不可能なのである。第三者の目には、どう見ても〈C〉にしか思えない体罰であっても、本人が「これはやむを得ず躾としてやっているんです(この体罰は〈A〉です)」と強弁すれば、それを反証するのは難しい。出来ることといったら、明らかに行き過ぎた体罰が行われていた場合に、それを虐待として通報することぐらいだろう。(虐待には性的虐待と心理的虐待とネグレクトもあるが、ここでは身体的虐待のみに話を絞る)
もし、親(大人)が自省的な人間で、〈C〉の体罰を行使した後に、「ああ、私はイライラをぶつけてしまった。子供に申し訳ない」と冷静に自己分析できるのであれば、さほど問題はない。だが、「〈C〉なのに〈A〉だと思い込んでいる場合」、そして「〈C〉である自覚がありながら、保身のために〈A〉だと言い張る場合」はどうだろう。いずれにせよ、イライラが内面の現象でしかない以上、これらを区別することは第三者には(そして、おそらく本人にも)できない。
つまり、体罰を容認するのは、イライラをぶつけただけの行為を許容することに繋がり、それは究極的には虐待へと結びついてしまうのである。
虐待を働いた親が逮捕される事件が、よく報道されている。逮捕された親は、必ずと言っていいほど「躾のためにやった」と証言する。罪の軽減を狙って発言している者もいるだろう。だがおそらく、多くの場合、本人は本気でそう思い込んでいるのである。純粋に子供のためを思って、善意で苛烈な体罰を振るっていたのだ。
周囲からは良い父(母)親だと評価され、子供とも良好な関係を築いている親の体罰と、虐待で逮捕されるに至る親の体罰は、その意味で、実質的な違いはない。
体罰を開放すると、イライラをぶつけただけの行為を野放しにしてしまう。
ここまでに述べた理由から、小生は、体罰を肯定する者に、いじめや虐待を非難する資格はないと思っている。
小生はあらかじめ「体罰」と「暴力」の二語を定義しておいた。しかし、これまでの議論を踏まえると、この弁別自体が極めて曖昧なものであったことがおわかりいただけるだろう。この定義は、主観に基づく分類でしかないのだ。主観が恣意的に働くものである以上、「体罰」か、ただの「虐待」かの解釈は、それを行使する本人によってしか規定し得ない。
(③に続く)
オススメ関連本・内田樹『武道的思考』筑摩選書
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