みたび、金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)から。
この中の一章「十六島名称考」で、島根県の、十六島と書いて「ウップルイ」と読む地名の由来が考察されている。金関はその語源を朝鮮のほうに求めているのだが、話はほかの地名にも及んでおり、かつて壱岐に「於路布留」という地名があったが、読みは「オロプル」だったという推論を述べたあと、話題は蛇に転じる。
壱岐の於路布留はオロプルだったとわかりましたが、このオロはまた、出雲に現われたヤマタのヲロチのヲロと共通かも知れません。
いったい蛇には「ヘビ」「ハミ」「ハブ」の系統の名称の他に「チ」という名があり、水に住むものが「ミヅチ」(水の蛇、竜)、野にいるものが、「ノヅチ」(野の蛇、野槌)などといわれています。(中略)
蛇の一名であるこの「チ」は、アルタイ語系の語であることが近ごろの国語学者のあいだでは通説になっているようです。例えば土井忠生氏の『日本語の歴史』(一九五九)という概説書には、朝鮮語と日本語のあいだにおいても、t音とl・r音とが対応することの一例として日本語の「ミヅチ」(竜)と、朝鮮語の竜「ミリ」とを同語として挙げています。これは同じアルタイ語系の満州語(ツングース語)では「ムゾリ」であり、これらの語の最後の「リ」が、日本の蛇の「チ」に対応するのであります。水の「ミヅ」も同様の操作で比較すると、朝鮮語の「ミリ」と一致してきます。
すると、当然、ヲロチのチも、朝鮮語と共通のチだということになり、したがってヲロチのヲロのほうも、その対応語を朝鮮に求むべきだということになります。私はこの「ヲロ」も、やはりさきのウルに対応するのではないか、と考えるのです。日本語のワレ(我)はオレ(俺)でもあり、オラからウラでもありますが、朝鮮のウリ(我)と対応することが、さきの土井氏の書物に挙げられています。ヲロがオロ、ウルに対応することはきわめて可能です。
ところが、朝鮮語のほうでは、この地名や人名の頭のウルの語の意味が、まだよくわかっていないそうです。もしこのヲロチのヲロが、朝鮮のウルと同様だとしますと、このヲロは「巨大な」という意味らしいので――というのは、『古事記』の「遠呂智」は、『日本書紀』では「大蛇」と書いて、ヲロチと読ませているところから考えて、ヲロは大きい意があると思われるのですが――したがって古代朝鮮のウルも、やはり「大きい」という意味をもっていたのではないか、と考えられるのです。
日本の古語において、「チ」は、生命、及びそれに付随するものを指していた。生命、つまり命(イノチ)のチ。パワー、力のチ。植物を芽吹かせる大地、土地のチ。人の体を流れ、その動力となる血液のチ。人が誕生してまず最初に栄養源とする母乳、乳(チチ)のチ。このように、「チ」を含む古語は、直接的にせよ間接的にせよ命を指し示す言葉である。
少し話がそれるが、「血」と「乳」の言葉の上でのつながりは大変面白い。現代の我々は、母乳が血液から出来ているという生理学的事実を知っている。血液を薄めて作られるのが母乳。しかし解剖学が確立していない古代日本で、そんなことがわかるはずがない。
なのに、わかっていた。血液と母乳が同じ「チ」で表されていたということは、母乳の元が血液であることを、古代の日本人が見抜いていたということである。この洞察力は素晴らしいと言うほかない。ひょっとしたら、残虐な権力者が、産婦を生きたまま解剖させた、といった血生臭い出来事があったのかもしれないが。
話を戻す。言葉とは、なんとなくの音の響きで決められてきたと思われているかもしれない。たしかにそのような言葉もあるし、現代では「音の響きのカッコよさ」だけで作られている言葉も数限りなく存在する。しかし、元々はそうではなかった。言葉は、一音一音に意味があり、それらの意味を有機的に組み合わせることによって言葉(=単語)は作られていたのだ。
この歴史言語学の知見と、金関の考察を合わせて考えると、「ヲロチ」とは「大きな命」という意味になる。
蛇は、交尾が長時間に及ぶことから、繁殖力が強いとされ、豊饒の象徴であった。蛇の頭部がペニスに似ていることも繁殖のイメージを強くした。神社のしめ縄は、交尾中の蛇を模したものであるという。
蛇に大いなる生命を、あるいはその源を見出していた古代の日本人。だとすれば、「チ」を含む古語には、命だけでなく、蛇の意も込められているのかもしれない。もしくは、命と蛇は古語の中で二重写しになっている、という見方もできるだろう。
現代の日本人がその起源を忘却してしまっていても、まさに大地に潜むかのごとく、蛇は古語に伏在し、変わらずこちらのほうを見つめているのではないか・・・と言ったら妄想に過ぎるだろうか。
この中の一章「十六島名称考」で、島根県の、十六島と書いて「ウップルイ」と読む地名の由来が考察されている。金関はその語源を朝鮮のほうに求めているのだが、話はほかの地名にも及んでおり、かつて壱岐に「於路布留」という地名があったが、読みは「オロプル」だったという推論を述べたあと、話題は蛇に転じる。
壱岐の於路布留はオロプルだったとわかりましたが、このオロはまた、出雲に現われたヤマタのヲロチのヲロと共通かも知れません。
いったい蛇には「ヘビ」「ハミ」「ハブ」の系統の名称の他に「チ」という名があり、水に住むものが「ミヅチ」(水の蛇、竜)、野にいるものが、「ノヅチ」(野の蛇、野槌)などといわれています。(中略)
蛇の一名であるこの「チ」は、アルタイ語系の語であることが近ごろの国語学者のあいだでは通説になっているようです。例えば土井忠生氏の『日本語の歴史』(一九五九)という概説書には、朝鮮語と日本語のあいだにおいても、t音とl・r音とが対応することの一例として日本語の「ミヅチ」(竜)と、朝鮮語の竜「ミリ」とを同語として挙げています。これは同じアルタイ語系の満州語(ツングース語)では「ムゾリ」であり、これらの語の最後の「リ」が、日本の蛇の「チ」に対応するのであります。水の「ミヅ」も同様の操作で比較すると、朝鮮語の「ミリ」と一致してきます。
すると、当然、ヲロチのチも、朝鮮語と共通のチだということになり、したがってヲロチのヲロのほうも、その対応語を朝鮮に求むべきだということになります。私はこの「ヲロ」も、やはりさきのウルに対応するのではないか、と考えるのです。日本語のワレ(我)はオレ(俺)でもあり、オラからウラでもありますが、朝鮮のウリ(我)と対応することが、さきの土井氏の書物に挙げられています。ヲロがオロ、ウルに対応することはきわめて可能です。
ところが、朝鮮語のほうでは、この地名や人名の頭のウルの語の意味が、まだよくわかっていないそうです。もしこのヲロチのヲロが、朝鮮のウルと同様だとしますと、このヲロは「巨大な」という意味らしいので――というのは、『古事記』の「遠呂智」は、『日本書紀』では「大蛇」と書いて、ヲロチと読ませているところから考えて、ヲロは大きい意があると思われるのですが――したがって古代朝鮮のウルも、やはり「大きい」という意味をもっていたのではないか、と考えられるのです。
日本の古語において、「チ」は、生命、及びそれに付随するものを指していた。生命、つまり命(イノチ)のチ。パワー、力のチ。植物を芽吹かせる大地、土地のチ。人の体を流れ、その動力となる血液のチ。人が誕生してまず最初に栄養源とする母乳、乳(チチ)のチ。このように、「チ」を含む古語は、直接的にせよ間接的にせよ命を指し示す言葉である。
少し話がそれるが、「血」と「乳」の言葉の上でのつながりは大変面白い。現代の我々は、母乳が血液から出来ているという生理学的事実を知っている。血液を薄めて作られるのが母乳。しかし解剖学が確立していない古代日本で、そんなことがわかるはずがない。
なのに、わかっていた。血液と母乳が同じ「チ」で表されていたということは、母乳の元が血液であることを、古代の日本人が見抜いていたということである。この洞察力は素晴らしいと言うほかない。ひょっとしたら、残虐な権力者が、産婦を生きたまま解剖させた、といった血生臭い出来事があったのかもしれないが。
話を戻す。言葉とは、なんとなくの音の響きで決められてきたと思われているかもしれない。たしかにそのような言葉もあるし、現代では「音の響きのカッコよさ」だけで作られている言葉も数限りなく存在する。しかし、元々はそうではなかった。言葉は、一音一音に意味があり、それらの意味を有機的に組み合わせることによって言葉(=単語)は作られていたのだ。
この歴史言語学の知見と、金関の考察を合わせて考えると、「ヲロチ」とは「大きな命」という意味になる。
蛇は、交尾が長時間に及ぶことから、繁殖力が強いとされ、豊饒の象徴であった。蛇の頭部がペニスに似ていることも繁殖のイメージを強くした。神社のしめ縄は、交尾中の蛇を模したものであるという。
蛇に大いなる生命を、あるいはその源を見出していた古代の日本人。だとすれば、「チ」を含む古語には、命だけでなく、蛇の意も込められているのかもしれない。もしくは、命と蛇は古語の中で二重写しになっている、という見方もできるだろう。
現代の日本人がその起源を忘却してしまっていても、まさに大地に潜むかのごとく、蛇は古語に伏在し、変わらずこちらのほうを見つめているのではないか・・・と言ったら妄想に過ぎるだろうか。
大丈夫です
鶴の恩がいしのように、人間の姿をしたヲロチですね
言ってるヤバいやつになります!