前回に引き続き、金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)から。
この中の一章「海南島の黎族」で、中国の少数民族、海南島に住む黎族(リー族)の、独特な文化が紹介されている。特に僕の目を引いたのは、靴に関する風習。
女の子が十四歳くらい、つまり見るものを見るころになると、両親は住家をはなれた畑の中に、娘のための小屋をつくってやる。(中略)日がくれると、村の若い衆がこれを訪問する。女よりさきにはいって待っている。一番乗りの男に、その夜の優先権がある。
こうした交際でできた幾人かのボーイフレンドの中から、結婚の相手をきめる方法がおもしろい。娘が下駄の片方をつくる。ボーイたちもそれぞれ片方の下駄をつくる。それを合せてピッタリとサイズの合うものが選ばれる。歌合せでなくて、下駄合せだ。(中略)
この下駄合せの方法は、きわめて賢明な方法で、娘は自分の好きだと思う男と、あらかじめ下駄のサイズをしめし合せておけばいいわけだ。自分のもっている片方の履物にピッタリ合うのが結婚の相手だ、というのは、シンデレラの話をはじめとして、古来いろいろな物語にある。案外こうした原始民族の風習を反映しているのかも知れない。現に唐代の『酉陽雑俎』には南方シナの話としてこの履き合せのシンデレラ譚があった。
実に興味深い。なんとなく、サイズをしめし合わせるのは後代になってから、つまり儀式が形骸化してからで、当初はしめし合わせなしで伴侶を選んでいたのではないか、という気がするのだが、同時に、なぜ合わせるのが靴なのか、という疑問もわく。
衣服にせよ装飾品にせよ、人が身に着ける品は色々ある。なのになぜ、結婚相手選びのサイズ合わせに用いられるのが靴なのか。それは単なる偶然ではなく、何かしらの必然があるように思うのだ。
その理由はなんなのか。僕の知識の範囲で思いつくのは次の説明。
人類は、四足歩行から二足歩行に進化したことで、大きな発展を勝ち取った。前足は手となり、様々な道具を高度に使いこなせるようになった。そのことが現在の人類の繁栄に貢献したわけで、つまり、二足歩行が重大なターニングポイントであった。
文字通り二足歩行を支えるのは、2本の足である。大いなる繁栄を手に入れた人類は、両足に感謝した。足は、己の上体だけでなく、文明をも支えているのだ。
であれば、その足を保護する靴に対しても、特別な意味を付与せずにはいられないだろう。
人の体と文明を共に支える足。その足を守りいたわる靴。
共同体によっては、ほかの衣服や装飾品よりも、靴に重要性を見出した。両足の支えがあって、今の人類がある。その両足を保護する靴は、文明をも保護している、と考えることもできる。
だから、ほかの衣服や装飾品より靴に高い価値を置く共同体も生まれた・・・とまあこういう解釈。
この推測が当たっているかどうかはともかく、靴はなかなか興味深い。オシャレとしてではなく、文化としての靴。人類史の反映としての靴。
そこには、我々が忘れてしまった意味がいくつも込められているのではないか。興味は尽きない。
この中の一章「海南島の黎族」で、中国の少数民族、海南島に住む黎族(リー族)の、独特な文化が紹介されている。特に僕の目を引いたのは、靴に関する風習。
女の子が十四歳くらい、つまり見るものを見るころになると、両親は住家をはなれた畑の中に、娘のための小屋をつくってやる。(中略)日がくれると、村の若い衆がこれを訪問する。女よりさきにはいって待っている。一番乗りの男に、その夜の優先権がある。
こうした交際でできた幾人かのボーイフレンドの中から、結婚の相手をきめる方法がおもしろい。娘が下駄の片方をつくる。ボーイたちもそれぞれ片方の下駄をつくる。それを合せてピッタリとサイズの合うものが選ばれる。歌合せでなくて、下駄合せだ。(中略)
この下駄合せの方法は、きわめて賢明な方法で、娘は自分の好きだと思う男と、あらかじめ下駄のサイズをしめし合せておけばいいわけだ。自分のもっている片方の履物にピッタリ合うのが結婚の相手だ、というのは、シンデレラの話をはじめとして、古来いろいろな物語にある。案外こうした原始民族の風習を反映しているのかも知れない。現に唐代の『酉陽雑俎』には南方シナの話としてこの履き合せのシンデレラ譚があった。
実に興味深い。なんとなく、サイズをしめし合わせるのは後代になってから、つまり儀式が形骸化してからで、当初はしめし合わせなしで伴侶を選んでいたのではないか、という気がするのだが、同時に、なぜ合わせるのが靴なのか、という疑問もわく。
衣服にせよ装飾品にせよ、人が身に着ける品は色々ある。なのになぜ、結婚相手選びのサイズ合わせに用いられるのが靴なのか。それは単なる偶然ではなく、何かしらの必然があるように思うのだ。
その理由はなんなのか。僕の知識の範囲で思いつくのは次の説明。
人類は、四足歩行から二足歩行に進化したことで、大きな発展を勝ち取った。前足は手となり、様々な道具を高度に使いこなせるようになった。そのことが現在の人類の繁栄に貢献したわけで、つまり、二足歩行が重大なターニングポイントであった。
文字通り二足歩行を支えるのは、2本の足である。大いなる繁栄を手に入れた人類は、両足に感謝した。足は、己の上体だけでなく、文明をも支えているのだ。
であれば、その足を保護する靴に対しても、特別な意味を付与せずにはいられないだろう。
人の体と文明を共に支える足。その足を守りいたわる靴。
共同体によっては、ほかの衣服や装飾品よりも、靴に重要性を見出した。両足の支えがあって、今の人類がある。その両足を保護する靴は、文明をも保護している、と考えることもできる。
だから、ほかの衣服や装飾品より靴に高い価値を置く共同体も生まれた・・・とまあこういう解釈。
この推測が当たっているかどうかはともかく、靴はなかなか興味深い。オシャレとしてではなく、文化としての靴。人類史の反映としての靴。
そこには、我々が忘れてしまった意味がいくつも込められているのではないか。興味は尽きない。
足を無理矢理小さくするのが中国文化であった的な話があって
女性ですが、それが美しさといわれていたとかいないとか
ただ、美しいかどうかは後付けで、結局は足が小さければ逃げられないという考えがあって
靴とは、指輪以上に枷という意味があったのかもしれませんね
一度それが美として確立されてからは、女性のほうが率先して行っていたそうですけどね。
めっちゃ足が速くなる代わりに足がちっちゃくなるっていうので、間違えて覚えていました
纏足ねって、字がむずかしい!絶対韋駄天足と覚えてしまう
美という情報・・・昔も今も、物語とかそういうものでも美というものは操作されますからね
上の足枷から派生して、そのまま女性の足を小さくしちまえばいいという発想から派生したのかもしれませんし
歴史的に逆かもしれませんし
ともかく、俺はそういう風に先入観から思います
自らの体を加工するのが人間という種の特徴だということです。
ただ、それは文化文明で解釈も変えていかなければいけないとは思いますよ
本質はそうであっても、本質は文明で変わりますから
そうでなければ、戦争が人類の本質ということにもなりますし、あらゆることが種の特徴という言葉で片付けられ、なにも変わらなくなってしまいますよ
と思う
仮に人間の本質が戦争を望むのだとしても、理想は平和だとすれば、戦争を肯定することにはなりません。
呪縛みたいな感じで嫌じゃないですか
暗示みたいで
すべては考え方次第なんですよ