2016年12月27日、安倍首相がハワイの真珠湾を訪問し、慰霊を行った。
同年5月25日にオバマ大統領が広島を訪問したことへの返礼とみられている。
オバマ大統領に対しては、原爆投下を公式に謝罪すべきではないか、という意見があった。安倍首相に対しても同じことが言われている。
小生は、真珠湾攻撃も、広島・長崎の原爆投下も、どちらも誤りであったと考えている。なので、理想を言えば、日米両国の首脳が、真珠湾と原爆に対して、それぞれ謝罪するのが一番いい、とは思う。しかし、これまで訪問すらしてこなかったのに、いきなり謝罪までというのは求めすぎだろう。とりあえず、訪問達成が始めの一歩、として、肯定的に捉えたい。
前々からアメリカ人の中には、「日本が先に真珠湾奇襲を仕掛けたのであって、原爆投下はその報復として行なわれた。原爆は日本人自らが導いたものだ」とする意見が根強い。
だが、この見方には問題がある。
B君がA君の肩を突きました。A君は仕返しとして、B君とその家族・親戚全員を皆殺しにしました。先に手を出したのはB君なので、悪いのはB君です。A君に非はありません。
この喩えは不適切かもしれない。だが、日本が先に攻撃を仕掛けたことをもって、アメリカがどんな応報手段を用いてもよくなる、というのはどう考えてもおかしい。それだと、無限の暴力を容認することになってしまう。
同じ問題点は、日本人にもみられる。
太平洋戦争を語るに際し、広島・長崎ばかりに焦点を当て、逆に真珠湾(及び、加害行為全般)については言及しようとしないのである。
また、日本人はよく「広島・長崎と真珠湾とでは、被害の規模が全然違う」という言い方をする。被害規模の比較によって差異を強調し、真珠湾攻撃の非を無効化しようとしているわけだが、こちらもまたおかしな理屈である。
100人の死者は弔わねばならないが、1人の死者であれば弔う必要はないのか。
原爆被害を悼む日本人は、よく「真の平和・真の友好」を口にする。だが、相手に一方的に謝罪を迫り、自らは謝意を表明しようとしない態度は、真の平和からも、真の友好からも程遠いものである。
アメリカ人の目が、真珠湾攻撃によって曇っているのと同様、日本人の目も広島・長崎によって曇らされている。
ただし、原爆投下がなければ、日本人はこのような偏執に陥ることはなかったか、というと、恐らくそうではない。原爆被害がなかった場合には、東京大空襲が太平洋戦争の象徴となっていたのではないかと思う。そして、東京大空襲の被害ばかりを強調し、語り継ぐことによって、どのみち真珠湾からはできるだけ目を逸らそうとしてきたのではないだろうか。
自国が蒙った被害のうちで最大の出来事に焦点を当て、それをその戦争のアイコンとし、逆に加害に対してはもっともらしい理屈をつけて正当化しようとする。日本もアメリカも、そしておそらくは世界中のどの国においても、それが習い性であるらしい。
このことを一般論で考えれば、人は自分の被害については大きく見積もり、逆に加害は小さく見積もろうとするという、心理学的見地に行き着く。
この手の心理学的メカニズムは、巷間広く膾炙しており、今更口にするまでもなく誰しもが常識としていることである。にもかかわらず、アメリカ人は相も変わらず真珠湾だけに哀悼を奉げようとするし、日本人は広島・長崎だけを語り続けて倦むことを知らない。いかに自己中心的思考が強固に我々の心理を捕らえているかの証左と言えよう。(日本のメディアで、オバマ大統領の広島訪問が大々的に報じられたのに比して、安倍首相の真珠湾訪問の扱いは小さかったのもその表れだろう)
日本人であるあなたは、真珠湾攻撃を理由にして、原爆に罪なしとするアメリカ人を不愉快に感じているかもしれない。ならば、原爆被害ばかりに目を向け、真珠湾攻撃を謝罪しようとしない日本人の態度が、アメリカ人をどれだけ不愉快にさせているか、を想像してみればいい。
真珠湾と広島・長崎とでは被害の規模が違いすぎる、というのは、確かに疑う余地のない客観的事実ではある。しかし、だからといって、それが真珠湾攻撃を謝罪しなくていい理由になるのか。
現に、真珠湾攻撃によって、心身ともに傷つけられたアメリカ人がいるのである。原爆によって日本人の心身が傷つけられたのと同様に。
戦争の被害者を悼み、過ちを繰り返さないことを誓うという態度において、真珠湾と広島・長崎の間には、何の違いもないはずだ。
他にも、真珠湾攻撃を正当化する向きには、「本当は直前に宣戦布告をするはずだったのに、いくつかの偶然が重なって攻撃のほうが先になってしまった」とか、「原爆は一般市民を含む無差別攻撃であったのに対し、真珠湾攻撃は軍事施設だけを対象として行われた」などの言説が根強くある。確かに、それらもまた客観的事実ではあるのだが、こちらもまた真珠湾攻撃を謝罪しなくていい根拠にはならない。
日本人であるあなたは、アメリカ人の「原爆投下は戦争を終わらせるためのやむを得ない手段であった。だからアメリカに非はないし、謝罪する必要もない」という意見を容認できるだろうか?それと同じことである。(ついでに言えば、小生は原爆投下の動機は、「ソ連に対する牽制」及び「人体実験」であったと考えている。「戦争終結のため」、もしくは「ソ連に対する牽制」のみでは、原爆が2発投下されたことの説明がつかない。一口に原爆と言っても、広島に投下されたのはウラン型、長崎のはプルトニウム型で、タイプが違う。アメリカは、ウラン型もプルトニウム型も、両方試してみたかったのだ。だから2発なのである)
政治というのは、一朝一夕で物事が進展するものではない。国際間のそれであれば尚更だ。ある日急に大きな展開を見せることも稀にあるが、基本的には緩やかにしか進捗しない。
そう遠くない未来に、アメリカ国の代表が原爆投下を謝罪し、日本国の代表が真珠湾攻撃を謝罪する日が来るだろう。だが、それにはまだしばらく時間がかかるはずだ。ならば、それまでは民間のレベルで出来ることをしよう。
日本人は、原爆の被害者に対してするのと同じように、真珠湾攻撃の被害者にこうべを垂れなければならない。真の平和という仮面を被った自国中心主義者として振る舞いたいのでなければ、是非ともそうすべきである。
幸いなことに、アメリカ人の若い世代の間では、原爆投下は誤りであったと考える者が増えてきているという。我々日本人も、彼等に倣うことができるはずだ。
もっともらしい理屈で自国の非人道的軍事行為を正当化しないこと。傷つけられた他国民の声に耳を傾けること。自国も他国も分け隔てなく、戦争被害者を追悼すること。
それこそが、本当に、言葉の本来の意味での、真の平和と真の友好に適う行為ではないだろうか。
同年5月25日にオバマ大統領が広島を訪問したことへの返礼とみられている。
オバマ大統領に対しては、原爆投下を公式に謝罪すべきではないか、という意見があった。安倍首相に対しても同じことが言われている。
小生は、真珠湾攻撃も、広島・長崎の原爆投下も、どちらも誤りであったと考えている。なので、理想を言えば、日米両国の首脳が、真珠湾と原爆に対して、それぞれ謝罪するのが一番いい、とは思う。しかし、これまで訪問すらしてこなかったのに、いきなり謝罪までというのは求めすぎだろう。とりあえず、訪問達成が始めの一歩、として、肯定的に捉えたい。
前々からアメリカ人の中には、「日本が先に真珠湾奇襲を仕掛けたのであって、原爆投下はその報復として行なわれた。原爆は日本人自らが導いたものだ」とする意見が根強い。
だが、この見方には問題がある。
B君がA君の肩を突きました。A君は仕返しとして、B君とその家族・親戚全員を皆殺しにしました。先に手を出したのはB君なので、悪いのはB君です。A君に非はありません。
この喩えは不適切かもしれない。だが、日本が先に攻撃を仕掛けたことをもって、アメリカがどんな応報手段を用いてもよくなる、というのはどう考えてもおかしい。それだと、無限の暴力を容認することになってしまう。
同じ問題点は、日本人にもみられる。
太平洋戦争を語るに際し、広島・長崎ばかりに焦点を当て、逆に真珠湾(及び、加害行為全般)については言及しようとしないのである。
また、日本人はよく「広島・長崎と真珠湾とでは、被害の規模が全然違う」という言い方をする。被害規模の比較によって差異を強調し、真珠湾攻撃の非を無効化しようとしているわけだが、こちらもまたおかしな理屈である。
100人の死者は弔わねばならないが、1人の死者であれば弔う必要はないのか。
原爆被害を悼む日本人は、よく「真の平和・真の友好」を口にする。だが、相手に一方的に謝罪を迫り、自らは謝意を表明しようとしない態度は、真の平和からも、真の友好からも程遠いものである。
アメリカ人の目が、真珠湾攻撃によって曇っているのと同様、日本人の目も広島・長崎によって曇らされている。
ただし、原爆投下がなければ、日本人はこのような偏執に陥ることはなかったか、というと、恐らくそうではない。原爆被害がなかった場合には、東京大空襲が太平洋戦争の象徴となっていたのではないかと思う。そして、東京大空襲の被害ばかりを強調し、語り継ぐことによって、どのみち真珠湾からはできるだけ目を逸らそうとしてきたのではないだろうか。
自国が蒙った被害のうちで最大の出来事に焦点を当て、それをその戦争のアイコンとし、逆に加害に対してはもっともらしい理屈をつけて正当化しようとする。日本もアメリカも、そしておそらくは世界中のどの国においても、それが習い性であるらしい。
このことを一般論で考えれば、人は自分の被害については大きく見積もり、逆に加害は小さく見積もろうとするという、心理学的見地に行き着く。
この手の心理学的メカニズムは、巷間広く膾炙しており、今更口にするまでもなく誰しもが常識としていることである。にもかかわらず、アメリカ人は相も変わらず真珠湾だけに哀悼を奉げようとするし、日本人は広島・長崎だけを語り続けて倦むことを知らない。いかに自己中心的思考が強固に我々の心理を捕らえているかの証左と言えよう。(日本のメディアで、オバマ大統領の広島訪問が大々的に報じられたのに比して、安倍首相の真珠湾訪問の扱いは小さかったのもその表れだろう)
日本人であるあなたは、真珠湾攻撃を理由にして、原爆に罪なしとするアメリカ人を不愉快に感じているかもしれない。ならば、原爆被害ばかりに目を向け、真珠湾攻撃を謝罪しようとしない日本人の態度が、アメリカ人をどれだけ不愉快にさせているか、を想像してみればいい。
真珠湾と広島・長崎とでは被害の規模が違いすぎる、というのは、確かに疑う余地のない客観的事実ではある。しかし、だからといって、それが真珠湾攻撃を謝罪しなくていい理由になるのか。
現に、真珠湾攻撃によって、心身ともに傷つけられたアメリカ人がいるのである。原爆によって日本人の心身が傷つけられたのと同様に。
戦争の被害者を悼み、過ちを繰り返さないことを誓うという態度において、真珠湾と広島・長崎の間には、何の違いもないはずだ。
他にも、真珠湾攻撃を正当化する向きには、「本当は直前に宣戦布告をするはずだったのに、いくつかの偶然が重なって攻撃のほうが先になってしまった」とか、「原爆は一般市民を含む無差別攻撃であったのに対し、真珠湾攻撃は軍事施設だけを対象として行われた」などの言説が根強くある。確かに、それらもまた客観的事実ではあるのだが、こちらもまた真珠湾攻撃を謝罪しなくていい根拠にはならない。
日本人であるあなたは、アメリカ人の「原爆投下は戦争を終わらせるためのやむを得ない手段であった。だからアメリカに非はないし、謝罪する必要もない」という意見を容認できるだろうか?それと同じことである。(ついでに言えば、小生は原爆投下の動機は、「ソ連に対する牽制」及び「人体実験」であったと考えている。「戦争終結のため」、もしくは「ソ連に対する牽制」のみでは、原爆が2発投下されたことの説明がつかない。一口に原爆と言っても、広島に投下されたのはウラン型、長崎のはプルトニウム型で、タイプが違う。アメリカは、ウラン型もプルトニウム型も、両方試してみたかったのだ。だから2発なのである)
政治というのは、一朝一夕で物事が進展するものではない。国際間のそれであれば尚更だ。ある日急に大きな展開を見せることも稀にあるが、基本的には緩やかにしか進捗しない。
そう遠くない未来に、アメリカ国の代表が原爆投下を謝罪し、日本国の代表が真珠湾攻撃を謝罪する日が来るだろう。だが、それにはまだしばらく時間がかかるはずだ。ならば、それまでは民間のレベルで出来ることをしよう。
日本人は、原爆の被害者に対してするのと同じように、真珠湾攻撃の被害者にこうべを垂れなければならない。真の平和という仮面を被った自国中心主義者として振る舞いたいのでなければ、是非ともそうすべきである。
幸いなことに、アメリカ人の若い世代の間では、原爆投下は誤りであったと考える者が増えてきているという。我々日本人も、彼等に倣うことができるはずだ。
もっともらしい理屈で自国の非人道的軍事行為を正当化しないこと。傷つけられた他国民の声に耳を傾けること。自国も他国も分け隔てなく、戦争被害者を追悼すること。
それこそが、本当に、言葉の本来の意味での、真の平和と真の友好に適う行為ではないだろうか。
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