欧米の、英語話者の間では、赤ん坊のことを「It」と呼ぶらしい。HeやSheではなく、It。で、ある程度赤ん坊が成長すると、HeやSheに変わるそうだ。(「It」は通常「それ」と訳される。だが、厳密には「It」は「それ」ではない。「それ」という意味もあるが、もっと広いニュアンスを含んでいる。だが、本筋とは違うので、この論考ではその話はしない。便宜上、「It」は「それ」のことだと思ってもらいたい。)
「なんかひどいな、モノ扱いかよ」と思われるかもしれない。
「欧米では、子供は半人前とされており、大人にならないとひとりの人間として見てもらえないのだ」と言う方もおられるかも知れない(実際、よく聞く)。
確かにまあ、そうなのかもしれないけど、でも、それだけだろうか。そう呼ぶ習慣が生まれたのには、もっとそれなりの理由があるのではないだろうか。
日本には「子供は七つまでは神のうち」という言い伝えがある。これは、子供というのは、神様が人間の形をとって、人の世界に遊びに来ているのだ、という教えである。そしてこれには「だから子どもが死んでしまったとしても、それは神様の世界に戻っただけなんだ」という説明が加えられる。
これを聞いて、「なんか尤もらしい話だけど、死ぬ、というなら、大人だって死ぬ時は死ぬんだし、どうして子供だけこんな言い方するんだろ」と思われるかもしれない。現代社会を生きる我々は、そう考えがちだ。これには、昔の日本は、乳幼児死亡率が高かった、という理由がある。
現在では医学の発展により、様々な疫病、伝染病の罹患を防止できている。幼い頃からポリオ、破傷風、結核などの予防接種を受け、また、何らかの病気にかかった時にも、それに対する医療制度は――完璧ではないにしても――整っている。食糧事情が良くなったことや、公衆衛生の改善なども、死亡率を下げているだろう。
この、今では当たり前のように受けられる予防接種は、ついこの間までなかった(今でも、世界の多くの国々にはない)。それらが存在しない社会は、子供がすぐに病気にかかって、あっさり死んでしまう社会――つまり、乳幼児死亡率が高い社会だ。
それは、子供の死という悲劇に、しょっちゅう直面しなくてはならない社会だともいえる。子供を失えば、親は当然悲しい。しかし、悲しんでばかりもいられない。日々の仕事もあるし、ほかの子供の世話もある。場合によっては、新たにまた子供を設けることも考えねばならないだろう。なにより、悲しんでばかりいては、心身が参ってしまう。
つまり「子供は七つまでは神のうち」というのは、乳幼児死亡率が高い社会、子供の死という悲劇に何度も見舞われる社会において、悲しみを和らげるための工夫として考え出された教えであった。もちろん、悲しみを完全に打ち消すことはできないが、神様のもとに帰っていったのだ、と言い聞かせることで、いくらか気持ちを和らげることができる。
で、この「七つ」というのは(昔の日本は数えだったので、実質六歳くらい)、子供もそれくらいまで育てば、免疫力も体力もついてきて、病気にかかりにくくなるという、事例に基づく、先人の知恵の表れではなかろうか。
フランスでは、七歳の子供が受ける、聖体拝領という儀式がある。子供の成長を祝して教会で行われるこの儀式、宗教離れが著しい現代フランスでも、皆必ず行うという。教会に行ったのは聖体拝領の時の一度きり、という人も珍しくないそうだが、ともかくこの社会でも、七歳が転換点として捉えられている。
フランス以外のことはよく分からないが、多分キリスト教圏(カトリックだけかもしれない)では共通しているのではなかろうか。
また日本に話を戻すと、日本での子供の成長を祝う儀式は、七五三である。これは、読んで字のごとく三歳と五歳と七歳の時に行われる。七歳でアガリである。七歳は、子供が義務教育を迎える、という転換点でもある。
乳幼児死亡率が低い現代において、「子供は七つまでは神のうち」とは誰も言わなくなり、七五三もだいぶ廃れてきている。この傾向の原因は、よく言われるように、日本人の信心が弱まっているから、だけではない。
小生は浅学にして、日本と欧米の事例しか知らないが、調べてみれば、七歳を転換点とする文化は、世界中至る所で見つかるのではないだろうか。
それと、子供が英語圏ではItになり、日本では神になる、という違いについてだが、これは、子供を亡くした時の悲しみを緩和させるのが目的であることに、変わりはないと思う。
欧米はキリスト教――一神教――社会であり、神は絶対である。絶対的な存在である神の側に、人間が近づくことは許されない。子供の死の悲しみを和らげるには、子供を人間の位置からズラしてやらねばならないが、神の側――つまり、上に向かって――にはズラせない。なので、下にズラしてItとした。
それに対し、日本の神様は八百万で、さほど畏れ多くない。で、子供を上に(神の側に)ズラした。
…と、こういう事ではないだろうか。
文化人類学に詳しい人の意見を請う。
オススメ関連本・村上陽一郎『科学と日常性の文脈』海鳴社
「なんかひどいな、モノ扱いかよ」と思われるかもしれない。
「欧米では、子供は半人前とされており、大人にならないとひとりの人間として見てもらえないのだ」と言う方もおられるかも知れない(実際、よく聞く)。
確かにまあ、そうなのかもしれないけど、でも、それだけだろうか。そう呼ぶ習慣が生まれたのには、もっとそれなりの理由があるのではないだろうか。
日本には「子供は七つまでは神のうち」という言い伝えがある。これは、子供というのは、神様が人間の形をとって、人の世界に遊びに来ているのだ、という教えである。そしてこれには「だから子どもが死んでしまったとしても、それは神様の世界に戻っただけなんだ」という説明が加えられる。
これを聞いて、「なんか尤もらしい話だけど、死ぬ、というなら、大人だって死ぬ時は死ぬんだし、どうして子供だけこんな言い方するんだろ」と思われるかもしれない。現代社会を生きる我々は、そう考えがちだ。これには、昔の日本は、乳幼児死亡率が高かった、という理由がある。
現在では医学の発展により、様々な疫病、伝染病の罹患を防止できている。幼い頃からポリオ、破傷風、結核などの予防接種を受け、また、何らかの病気にかかった時にも、それに対する医療制度は――完璧ではないにしても――整っている。食糧事情が良くなったことや、公衆衛生の改善なども、死亡率を下げているだろう。
この、今では当たり前のように受けられる予防接種は、ついこの間までなかった(今でも、世界の多くの国々にはない)。それらが存在しない社会は、子供がすぐに病気にかかって、あっさり死んでしまう社会――つまり、乳幼児死亡率が高い社会だ。
それは、子供の死という悲劇に、しょっちゅう直面しなくてはならない社会だともいえる。子供を失えば、親は当然悲しい。しかし、悲しんでばかりもいられない。日々の仕事もあるし、ほかの子供の世話もある。場合によっては、新たにまた子供を設けることも考えねばならないだろう。なにより、悲しんでばかりいては、心身が参ってしまう。
つまり「子供は七つまでは神のうち」というのは、乳幼児死亡率が高い社会、子供の死という悲劇に何度も見舞われる社会において、悲しみを和らげるための工夫として考え出された教えであった。もちろん、悲しみを完全に打ち消すことはできないが、神様のもとに帰っていったのだ、と言い聞かせることで、いくらか気持ちを和らげることができる。
で、この「七つ」というのは(昔の日本は数えだったので、実質六歳くらい)、子供もそれくらいまで育てば、免疫力も体力もついてきて、病気にかかりにくくなるという、事例に基づく、先人の知恵の表れではなかろうか。
フランスでは、七歳の子供が受ける、聖体拝領という儀式がある。子供の成長を祝して教会で行われるこの儀式、宗教離れが著しい現代フランスでも、皆必ず行うという。教会に行ったのは聖体拝領の時の一度きり、という人も珍しくないそうだが、ともかくこの社会でも、七歳が転換点として捉えられている。
フランス以外のことはよく分からないが、多分キリスト教圏(カトリックだけかもしれない)では共通しているのではなかろうか。
また日本に話を戻すと、日本での子供の成長を祝う儀式は、七五三である。これは、読んで字のごとく三歳と五歳と七歳の時に行われる。七歳でアガリである。七歳は、子供が義務教育を迎える、という転換点でもある。
乳幼児死亡率が低い現代において、「子供は七つまでは神のうち」とは誰も言わなくなり、七五三もだいぶ廃れてきている。この傾向の原因は、よく言われるように、日本人の信心が弱まっているから、だけではない。
小生は浅学にして、日本と欧米の事例しか知らないが、調べてみれば、七歳を転換点とする文化は、世界中至る所で見つかるのではないだろうか。
それと、子供が英語圏ではItになり、日本では神になる、という違いについてだが、これは、子供を亡くした時の悲しみを緩和させるのが目的であることに、変わりはないと思う。
欧米はキリスト教――一神教――社会であり、神は絶対である。絶対的な存在である神の側に、人間が近づくことは許されない。子供の死の悲しみを和らげるには、子供を人間の位置からズラしてやらねばならないが、神の側――つまり、上に向かって――にはズラせない。なので、下にズラしてItとした。
それに対し、日本の神様は八百万で、さほど畏れ多くない。で、子供を上に(神の側に)ズラした。
…と、こういう事ではないだろうか。
文化人類学に詳しい人の意見を請う。
オススメ関連本・村上陽一郎『科学と日常性の文脈』海鳴社
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