幼少の頃、病弱であった。
そのため、体を鍛える名目で、保育園の年長から、水泳教室に通わされていた。通わされている、というのは、イヤな所もあったが、おかげで唯一得意なスポーツができた。
で、その経験で得た知識を基にして、理屈だけで泳ぎ方を披瀝したいと思う。
日本の体育教育の現場では、長らく精神主義が幅をきかせてきた。欧米列強の侵略に抗するため、富国強兵を掲げて始まった我が国の近代化は、急速に軍隊を配備する必要性に迫られていた。教育の現場においてもしかり、である。教育現場は、子供達に、次の世代の兵隊になってもらう為のものとしてあった。
そのことの是非は、如何とも言い難いのだが、結果として、気合いと根性理論に基づく、「体で覚えろ」「出来るようになるまで、何回でもやれ」式の教え方――個人的には、そんなのはただやらせているだけで、教えているとは言えないと思うのだが――が主流になった。
近年その傾向はだいぶ薄まってきてはいるが、まだまだ根強くはびこっており、「こうやったら泳げるよ」とか「ここをこうか変えた方がいい」といった、技術を伝えることによる教え方は少数派だと思われる。少なからず存在するカナヅチは、そんな体育教育の産物、やや大げさな言い方をすれば被害者だと思う。
小生は今、文章で泳ぎ方を伝えようとしている。
そういうのは相手と対面して、体を使ってやることだ、と思われる向きもあるだろうが、そうしないのは、上に述べたことが理由でもあるし、言葉だけでも教えられることが充分にある、と考えているからでもある。
特に教わらなくても自然に泳ぐことが出来る人、これは“体でわかっている”人である。この人達には理屈はいらない。それに対し、泳げない人は“体がわかってない”人である。この人達は、繰り返し何度もやってみろ式の練習では、なかなか上達しない。そこで理屈が必要になる。頭でわかることによって体を変え、体がわかっている状態に持っていく、ということだ。
前口上終わり。
それでは、理屈で学ぶ水泳教室、開講である。
まずは、「泳ぐために一番大切なことは何か」を考えることから始めたい。
泳ぐために一番大切なこと。さて、何だろうか。みなさん考えてください。
バタ足?手を掻くこと?
うん、もちろんそれらも大切です。でも、それよりももっと大切なことがある。
それは何か。答えは、「死なないこと」です。死んでしまっては、飛び込むこともバタ足も出来ませんからね。
呆れただろうか。当たり前のことを言うな、死んだら水泳に限らず、何も出来なくなるんだから、そんなことは言うまでもない大前提だ、と思われたであろうか。
確かに、おっしゃるとおり。しかし、水泳は他のスポーツと違って、危険性が高い、という特徴があるのですよ。泳ぐとは、水の中に入るということ。水中とは、息ができない空間であること。水泳とは、息ができない場において行われるスポーツであること。
この点をきちんと踏まえておくことが、泳ぐためには必要となる。
それでは、死なないためにはどうしたらいいか。
呼吸をしなくてはならない。
それでは、呼吸をするためにはどうしたらいいか。
適切に息継ぎをしなくてはならない。
それでは、適切に息継ぎをするためにはどうしたらいいか。
水面に浮かんでいなくてはならない。
はい、きました。
この教室における中心キーワード、「浮かぶ」
泳げる人にせよ、泳げない人にせよ、多くの人達は、泳ぐというのは、手を掻いたり、バタ足したりの形が重要だと思い込んでるフシがある。だが、ハッキリ言ってそのような体の動き、形というのは、枝葉末節に過ぎない。
よくよく考えてもらいたい。たとえ一メートル進むのに一分かかったとしても、もしくは、前でなく後ろに進んだとしても、息継ぎができて、苦しくならなければ、泳ぎ続けることができるはずだ。泳げない、とはどういう状態のことか。手と足の動きが悪いから泳げない、ということではなく、息継ぎがうまくいかなくて、「ああ苦しい、もうダメだ」となり、途中で立ってしまう。そのような事態を“泳げない”と呼んでいるわけでしょ。
だから、息継ぎ。水泳において、一番大切なのは、息継ぎ。息継ぎができない人は、体がちゃんと浮かんでいない人。浮かんでいないから、息継ぎができない。
はっきり言って、水泳の要素は9割方浮かぶことだと思っている。それ以外の体の動きは、ほんの付け足しに過ぎず、泳ぐことと浮かぶことは、ほぼイコールと言っていい。カナヅチの人が、いくら練習してもなかなか泳げるようにならないのは、浮かぶことにさほど力点を置かず、体の形ばかりに気を取られているせいだと思う。
さて、それでは浮かぶためにはどうしたらいいか。
これは、とにかく体の力を抜くことなんですね。
よく言われるように、人の体は水に浮くようにできているのだが、それは力を抜いていればこそ、であって、力が入っていれば、たちどころに沈んでしまう。
もう一度カナヅチの人を見てみよう。泳げない、だから水が怖い。溺れたらどうしようとか、みんなの前で恥をかいてしまうとか、考える。緊張する。体に力が入る。力が入ったまま、いざチャレンジ。力が入っているので、沈む。沈むから息ができない。苦しくて立ち止まる。ああ、また泳げなかった。水泳に関するイヤな記憶が、また一つ蓄積される。その記憶が、次に挑戦するときに、ますます体をこわばらせる。結果として、体はどんどん体はこわばっていき、いつまで経っても泳げないまま…。
こんな悪循環に陥っているのがカナヅチだと思う。
なので、体の力を抜いてあげないといけない。
(後編に続く)
オススメ関連本・本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫
そのため、体を鍛える名目で、保育園の年長から、水泳教室に通わされていた。通わされている、というのは、イヤな所もあったが、おかげで唯一得意なスポーツができた。
で、その経験で得た知識を基にして、理屈だけで泳ぎ方を披瀝したいと思う。
日本の体育教育の現場では、長らく精神主義が幅をきかせてきた。欧米列強の侵略に抗するため、富国強兵を掲げて始まった我が国の近代化は、急速に軍隊を配備する必要性に迫られていた。教育の現場においてもしかり、である。教育現場は、子供達に、次の世代の兵隊になってもらう為のものとしてあった。
そのことの是非は、如何とも言い難いのだが、結果として、気合いと根性理論に基づく、「体で覚えろ」「出来るようになるまで、何回でもやれ」式の教え方――個人的には、そんなのはただやらせているだけで、教えているとは言えないと思うのだが――が主流になった。
近年その傾向はだいぶ薄まってきてはいるが、まだまだ根強くはびこっており、「こうやったら泳げるよ」とか「ここをこうか変えた方がいい」といった、技術を伝えることによる教え方は少数派だと思われる。少なからず存在するカナヅチは、そんな体育教育の産物、やや大げさな言い方をすれば被害者だと思う。
小生は今、文章で泳ぎ方を伝えようとしている。
そういうのは相手と対面して、体を使ってやることだ、と思われる向きもあるだろうが、そうしないのは、上に述べたことが理由でもあるし、言葉だけでも教えられることが充分にある、と考えているからでもある。
特に教わらなくても自然に泳ぐことが出来る人、これは“体でわかっている”人である。この人達には理屈はいらない。それに対し、泳げない人は“体がわかってない”人である。この人達は、繰り返し何度もやってみろ式の練習では、なかなか上達しない。そこで理屈が必要になる。頭でわかることによって体を変え、体がわかっている状態に持っていく、ということだ。
前口上終わり。
それでは、理屈で学ぶ水泳教室、開講である。
まずは、「泳ぐために一番大切なことは何か」を考えることから始めたい。
泳ぐために一番大切なこと。さて、何だろうか。みなさん考えてください。
バタ足?手を掻くこと?
うん、もちろんそれらも大切です。でも、それよりももっと大切なことがある。
それは何か。答えは、「死なないこと」です。死んでしまっては、飛び込むこともバタ足も出来ませんからね。
呆れただろうか。当たり前のことを言うな、死んだら水泳に限らず、何も出来なくなるんだから、そんなことは言うまでもない大前提だ、と思われたであろうか。
確かに、おっしゃるとおり。しかし、水泳は他のスポーツと違って、危険性が高い、という特徴があるのですよ。泳ぐとは、水の中に入るということ。水中とは、息ができない空間であること。水泳とは、息ができない場において行われるスポーツであること。
この点をきちんと踏まえておくことが、泳ぐためには必要となる。
それでは、死なないためにはどうしたらいいか。
呼吸をしなくてはならない。
それでは、呼吸をするためにはどうしたらいいか。
適切に息継ぎをしなくてはならない。
それでは、適切に息継ぎをするためにはどうしたらいいか。
水面に浮かんでいなくてはならない。
はい、きました。
この教室における中心キーワード、「浮かぶ」
泳げる人にせよ、泳げない人にせよ、多くの人達は、泳ぐというのは、手を掻いたり、バタ足したりの形が重要だと思い込んでるフシがある。だが、ハッキリ言ってそのような体の動き、形というのは、枝葉末節に過ぎない。
よくよく考えてもらいたい。たとえ一メートル進むのに一分かかったとしても、もしくは、前でなく後ろに進んだとしても、息継ぎができて、苦しくならなければ、泳ぎ続けることができるはずだ。泳げない、とはどういう状態のことか。手と足の動きが悪いから泳げない、ということではなく、息継ぎがうまくいかなくて、「ああ苦しい、もうダメだ」となり、途中で立ってしまう。そのような事態を“泳げない”と呼んでいるわけでしょ。
だから、息継ぎ。水泳において、一番大切なのは、息継ぎ。息継ぎができない人は、体がちゃんと浮かんでいない人。浮かんでいないから、息継ぎができない。
はっきり言って、水泳の要素は9割方浮かぶことだと思っている。それ以外の体の動きは、ほんの付け足しに過ぎず、泳ぐことと浮かぶことは、ほぼイコールと言っていい。カナヅチの人が、いくら練習してもなかなか泳げるようにならないのは、浮かぶことにさほど力点を置かず、体の形ばかりに気を取られているせいだと思う。
さて、それでは浮かぶためにはどうしたらいいか。
これは、とにかく体の力を抜くことなんですね。
よく言われるように、人の体は水に浮くようにできているのだが、それは力を抜いていればこそ、であって、力が入っていれば、たちどころに沈んでしまう。
もう一度カナヅチの人を見てみよう。泳げない、だから水が怖い。溺れたらどうしようとか、みんなの前で恥をかいてしまうとか、考える。緊張する。体に力が入る。力が入ったまま、いざチャレンジ。力が入っているので、沈む。沈むから息ができない。苦しくて立ち止まる。ああ、また泳げなかった。水泳に関するイヤな記憶が、また一つ蓄積される。その記憶が、次に挑戦するときに、ますます体をこわばらせる。結果として、体はどんどん体はこわばっていき、いつまで経っても泳げないまま…。
こんな悪循環に陥っているのがカナヅチだと思う。
なので、体の力を抜いてあげないといけない。
(後編に続く)
オススメ関連本・本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫
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