東浩紀編著の『日本的想像力の未来――クール・ジャパノロジーの可能性』(NHK出版)を読んだ。
これは2010年の3月5日と6日に、東京工業大学世界文明センターで開催された、クール・ジャパンに関する国際シンポジウムの記録を収録した本である。この中で行われた討議で、「グローバル」が話題になった際に、社会学者の宮台真司が次のように発言している。
秋葉原事件の加藤智弘問題も関連しますが、フリーターや非正規雇用で困窮しているとされる人々が、どんな意味で困窮しているのかは、自明じゃありません。実は先ほど、学園闘争時代の爆弾事件で懲役二〇年の刑期を過ごして一九九〇年代半ばに出獄した知人からメールをもらったところです。メールにこうあります。自分は六五歳だが、単純労働を厭わなければ、時給一二〇〇円程度の深夜労働が多数ある。自分は仕事探しにまったく困ったことがない。若い人たちが「仕事がない」と言うのは変だ。母親から「そんなのはあなたがやる仕事じゃないわ」と言われて育ってきただけじゃないか、と。
彼は少し前に見たNHK「クローズアップ現代」に言及しています。僕も見たのですが、番組には、面接を三〇社も受けてすべて落ちた三〇歳前後の若者が登場していました。若者は「ワーキングプアで苦しい生活をしているけど、いい歳をして助けてくれと両親には言えない」と語ります。メールをくれた彼は「若者が受けて落ちた三〇社のリストを見せてみろ。どのみち『両親に顔向けできる』会社だらけさ」と言います。
『自動車絶望工場』(一九七三)で有名になった鎌田慧さんは、四〇年前の季節工よりも現在の非正規雇用のほうが物質的には圧倒的に豊かだが、ホームベースと絆がないので心理的にキツイのだと僕におっしゃいました。ホームベースとは出奔してきた故郷であり、仕送りの宛先であり、辛い仕事に意味を与えるもの。それが欠落した現在、非正規雇用労働者の困窮は単に経済的なものに還元することはムリだと。こうしたものが昨今の日本的非正規雇用をめぐる困窮の実態なのに、日本のフリーター問題が単純に外国の不安定雇用と同列に並べられて「グローバル化が非正規雇用の困窮をもたらした」などと論じられるのは、日本的文脈を無視した暴論です。
この前の雑考「左は何をする人ぞ」(1・28)ともつながってくる話だが、これを読んだときに、ロスジェネに対して抱いていた疑問を思い出した。
ロストジェネレーション、通称ロスジェネと呼ばれる人たちは、一般的には「時代の犠牲者」だと理解されている。高校や大学を卒業し、ちょうど社会に出るときに就職氷河期に襲われ、多くがフリーターや非正規雇用にならざるを得なかった。結婚もできず、貧しい暮らしを強いられ、将来の展望を持つことができずにいる、と。
典型は「丸山眞男をひっぱたきたい」で有名になった赤木智弘だ。赤木は、『若者殺しの時代』の中で、自分は長年フリーターとして不遇をかこっているが、それはバブル経済が崩壊したとき、当時の社会人が身を守るために団塊ジュニア、およびその下の世代に不利益を押しつけたせいだとしている。
しかし、僕は疑問だった。社会に出るときに正社員の口がなかったとして、フリーターになって以降はどうだったのか?アルバイトとして働きながら就職活動を続けることはしなかったのか?「親に顔向けできる」ところ以外の会社にも面接を申し込んだのか?たとえば、建設作業員などの肉体労働で正社員になろうとはしなかったのか?
結局、学校を卒業するときに「親に顔向けできる会社」のみ受けただけで、それ以外の会社は、卒業時もフリーターになって以降も、申し込もうとしなかったのではないか?
それはつまり、「やりたくない仕事で正社員になる」よりは「やってもいい仕事でフリーターであり続ける」ほうを選んだということではないのか。
だとすると、卒業時に正社員になれなかったのは時代のせいだとしても、それ以降ずっとフリーターであるのは自身の選択の結果でしかないのではないか。それをすべて時代のせい、もしくは上の世代のせいだとして、自分が100パーセント被害者であるかのように言いつのるのは欺瞞ではないのか。
赤木の同書を読んでも、彼がどのような就職活動をしてきたのか、判然としない。自信の来歴を紹介した箇所で、専門学校に進学したあと、「社会は不況で就職もうまくいく気がせず、アルバイトなどで糊口をしのぐ」と記されているので、ひょっとしたら最初から就職活動を放棄していたのかもしれない。
赤木は、「大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのようにいわれる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した職業とはほど遠いものばかりだ。」とも述べているが、とても信用できない。特定の職種をあらかじめスクリーニングしているだけではないのか。また、いきなり正社員登用という口は少ないにしても、アルバイトや非正規から初めて、のちに認められれば正社員に格上げしてもらえる、という職場ならそれなりにあるはずだ。
特に昨今では、職種によっては慢性的な人手不足が叫ばれている。「単純労働を厭わなければ」、もしくは肉体労働を厭わなければ、正社員の口などいくらでもあるのではないか。
赤木の主張は、自分の都合の悪いところに目を瞑ったうえに成立する、ゆがんだ理論としか思えない。
ワーキングプアに対するもうひとつの疑問もある。ワーキングプアとは、年収300万円未満の人のことを指す。
僕は長らくフリーター生活をしていたのだが、年収はずっと100万円弱であった。我慢しなくてはならないことも多かったが、まあなんとか暮らしていけた。そんな僕からしたら、年収300万程度というのは、すごいお金持ちに見えたのだ。「300万ももらえるってすごくうらやましいな。それなのにプアって言うんだな」と思っていた。
ここで注意しなくてはならないのは、「だからワーキングプアなど問題ではない」と解釈してはならない、ということである(なにせ年収100万ではいろいろ諦めねばならないし、独り身ならなんとかやっていけるという水準の額なのだ)。そのように理解してしまうと、酷薄な人間が好んで使う「自己責任論」に容易に頽落してしまう。自己責任論は、その対象にかんして思考を放棄する、安易な思考停止の手段である。それは看過してはならない知的怠慢である。
ただ、貧困について考える場合には、「絶対的貧困」と「相対的貧困」をきちんと峻別しなくてはならない。
絶対的貧困とは、日々の食料に事欠いていたり、重篤な病にあってもお金のために病院にかかることができないような、生死にかかわる貧困のことである。対して、相対的貧困とは、国内のお金持ちとの比較において、年収や貯蓄が少ないことを指す。相対的貧困は、必ずしも生死にかかわってくるとは限らない。(むろん絶対的貧困と相対的貧困はきれいに2分できるものではなく、「絶対的かつ相対的貧困」もある)
貧困を主題としたドキュメンタリーが、相対的貧困をあたかも絶対的貧困であるかのように装って報じることがある。こういった事実の捻じ曲げにより、真に問題視すべき対象を見誤らせてしまう。
日本の貧困は、そのほとんどが相対的貧困であり、絶対的貧困はごく少数である。絶対的貧困にしたところで、大半が生活保護や児童手当などの公的扶助制度の不徹底、もしくは瑕疵によるもので、これら公的保障に充てる資金を拡充し、行政の怠慢や法制度の見直しによって、被対象者を取りこぼさないように徹底していけば、ほぼ解消しうる問題のはずだ。日本のようなGDPが世界3位の国で、絶対的貧困が存在しているというのは、どう考えてもおかしい。
ここでもうひとつ明言しておく。僕は必ずしも格差を否定しない。格差を「あってはならないもの」だとは考えていない。そもそも資本主義である以上、格差の成立は免れ得ない。資本主義以外の経済体制を選択せずに格差を否定するのは矛盾している。
稼ぐ能力のある人は、思う存分その才を発揮して、稼げるだけ稼いでもらったらいい。それは社会全体の活力にもなるだろう。
問題は、「稼ぎが上の人たち」からいくら取って、どれだけ「下の人たち」に還流するか、である。「上の人たち」からの補填で「下の人たち」が絶対的貧困に陥らない仕組みになっているならば、格差など問題ではない。いや、むしろ格差こそが絶対的貧困を消滅させる要因となりえる。「金持ち=悪」という単純な図式で思考する左側の人たちからは、このような「上と下の共存」という発想は出てこない。
格差を批判している(おもに左の)人たちは、「下を引き上げる」だけでなく「上を引きずり下ろす」ことも望んでいるふしがある。愚かなことだと思う。「上の人たち」が生み出す経済的豊かさを社会全体に回してこそ貧困が解消されうるというのに。「上による下の底上げ」こそが必要不可欠なのだ。言い換えるならば、絶対的貧困が存在している限りにおいて格差は批判されねばならない、ということだ。
「上の人たち」は、雇用もまた大量に創出しうる。「上の人たち」を引きずり下ろせば、就労も狭き門となりかねない。みんな仲良く貧乏であればそれでいいとでもいうのだろうか。
自己責任論に話を戻す。
ようは、「社会の責任」と「個人の責任」のバランスをどうとるか、である。「社会の責任が100パーセント」(赤木智弘らロスジェネの言い分)なのでもなく、「個人の責任が100パーセント」(自己責任論)なのでもなく、それぞれの立場・来歴に応じて、「社会の責任」と「個人の責任」の配分を勘案する手続きが求められる、ということである。
最近では就職氷河期世代を正社員として迎え入れようとする動きが起き始めている。これはこれで歓迎すべき流れだろう。
だが、リベラルなメディアが就職氷河期世代やワーキングプアを単純に100パーセント被害者として報じるのは端的に誤っている。少なくとも、単純化された「100パーセント被害者」というアングルは、何かを覆い隠してしまう恐れがある。留意すべきはそこである。それは、安易な自己責任論を振りかざす輩につけ入る隙を与えてしまいかねない急所でもある。
もちろん「個人の責任100パーセント」にも問題がある。「自己の責任として引き受けてなんとかしろ。他人や社会に頼るな」という言い分は、経済的弱者から繋がりを切り離し、ルサンチマンを抱えた孤独な核に還元してしまう。孤独な核は、怨嗟を溜めこむ。
「殺すのはだれでもよかった」「人を殺して刑務所に入りたかった」という無差別殺人事件のたぐいは、自己責任論によって切り捨てられ続けてきた者の中からの噴出であることは間違いない。安易に自己責任論を口にする人々には、これらの事件を招聘した責任が少なからずある。
世の中はそう単純にはできていない。真実は「社会の責任が100パーセント」でも「個人の責任が100パーセント」でもなく、両者の中間の位置にあるはずだ。
これは2010年の3月5日と6日に、東京工業大学世界文明センターで開催された、クール・ジャパンに関する国際シンポジウムの記録を収録した本である。この中で行われた討議で、「グローバル」が話題になった際に、社会学者の宮台真司が次のように発言している。
秋葉原事件の加藤智弘問題も関連しますが、フリーターや非正規雇用で困窮しているとされる人々が、どんな意味で困窮しているのかは、自明じゃありません。実は先ほど、学園闘争時代の爆弾事件で懲役二〇年の刑期を過ごして一九九〇年代半ばに出獄した知人からメールをもらったところです。メールにこうあります。自分は六五歳だが、単純労働を厭わなければ、時給一二〇〇円程度の深夜労働が多数ある。自分は仕事探しにまったく困ったことがない。若い人たちが「仕事がない」と言うのは変だ。母親から「そんなのはあなたがやる仕事じゃないわ」と言われて育ってきただけじゃないか、と。
彼は少し前に見たNHK「クローズアップ現代」に言及しています。僕も見たのですが、番組には、面接を三〇社も受けてすべて落ちた三〇歳前後の若者が登場していました。若者は「ワーキングプアで苦しい生活をしているけど、いい歳をして助けてくれと両親には言えない」と語ります。メールをくれた彼は「若者が受けて落ちた三〇社のリストを見せてみろ。どのみち『両親に顔向けできる』会社だらけさ」と言います。
『自動車絶望工場』(一九七三)で有名になった鎌田慧さんは、四〇年前の季節工よりも現在の非正規雇用のほうが物質的には圧倒的に豊かだが、ホームベースと絆がないので心理的にキツイのだと僕におっしゃいました。ホームベースとは出奔してきた故郷であり、仕送りの宛先であり、辛い仕事に意味を与えるもの。それが欠落した現在、非正規雇用労働者の困窮は単に経済的なものに還元することはムリだと。こうしたものが昨今の日本的非正規雇用をめぐる困窮の実態なのに、日本のフリーター問題が単純に外国の不安定雇用と同列に並べられて「グローバル化が非正規雇用の困窮をもたらした」などと論じられるのは、日本的文脈を無視した暴論です。
この前の雑考「左は何をする人ぞ」(1・28)ともつながってくる話だが、これを読んだときに、ロスジェネに対して抱いていた疑問を思い出した。
ロストジェネレーション、通称ロスジェネと呼ばれる人たちは、一般的には「時代の犠牲者」だと理解されている。高校や大学を卒業し、ちょうど社会に出るときに就職氷河期に襲われ、多くがフリーターや非正規雇用にならざるを得なかった。結婚もできず、貧しい暮らしを強いられ、将来の展望を持つことができずにいる、と。
典型は「丸山眞男をひっぱたきたい」で有名になった赤木智弘だ。赤木は、『若者殺しの時代』の中で、自分は長年フリーターとして不遇をかこっているが、それはバブル経済が崩壊したとき、当時の社会人が身を守るために団塊ジュニア、およびその下の世代に不利益を押しつけたせいだとしている。
しかし、僕は疑問だった。社会に出るときに正社員の口がなかったとして、フリーターになって以降はどうだったのか?アルバイトとして働きながら就職活動を続けることはしなかったのか?「親に顔向けできる」ところ以外の会社にも面接を申し込んだのか?たとえば、建設作業員などの肉体労働で正社員になろうとはしなかったのか?
結局、学校を卒業するときに「親に顔向けできる会社」のみ受けただけで、それ以外の会社は、卒業時もフリーターになって以降も、申し込もうとしなかったのではないか?
それはつまり、「やりたくない仕事で正社員になる」よりは「やってもいい仕事でフリーターであり続ける」ほうを選んだということではないのか。
だとすると、卒業時に正社員になれなかったのは時代のせいだとしても、それ以降ずっとフリーターであるのは自身の選択の結果でしかないのではないか。それをすべて時代のせい、もしくは上の世代のせいだとして、自分が100パーセント被害者であるかのように言いつのるのは欺瞞ではないのか。
赤木の同書を読んでも、彼がどのような就職活動をしてきたのか、判然としない。自信の来歴を紹介した箇所で、専門学校に進学したあと、「社会は不況で就職もうまくいく気がせず、アルバイトなどで糊口をしのぐ」と記されているので、ひょっとしたら最初から就職活動を放棄していたのかもしれない。
赤木は、「大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのようにいわれる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した職業とはほど遠いものばかりだ。」とも述べているが、とても信用できない。特定の職種をあらかじめスクリーニングしているだけではないのか。また、いきなり正社員登用という口は少ないにしても、アルバイトや非正規から初めて、のちに認められれば正社員に格上げしてもらえる、という職場ならそれなりにあるはずだ。
特に昨今では、職種によっては慢性的な人手不足が叫ばれている。「単純労働を厭わなければ」、もしくは肉体労働を厭わなければ、正社員の口などいくらでもあるのではないか。
赤木の主張は、自分の都合の悪いところに目を瞑ったうえに成立する、ゆがんだ理論としか思えない。
ワーキングプアに対するもうひとつの疑問もある。ワーキングプアとは、年収300万円未満の人のことを指す。
僕は長らくフリーター生活をしていたのだが、年収はずっと100万円弱であった。我慢しなくてはならないことも多かったが、まあなんとか暮らしていけた。そんな僕からしたら、年収300万程度というのは、すごいお金持ちに見えたのだ。「300万ももらえるってすごくうらやましいな。それなのにプアって言うんだな」と思っていた。
ここで注意しなくてはならないのは、「だからワーキングプアなど問題ではない」と解釈してはならない、ということである(なにせ年収100万ではいろいろ諦めねばならないし、独り身ならなんとかやっていけるという水準の額なのだ)。そのように理解してしまうと、酷薄な人間が好んで使う「自己責任論」に容易に頽落してしまう。自己責任論は、その対象にかんして思考を放棄する、安易な思考停止の手段である。それは看過してはならない知的怠慢である。
ただ、貧困について考える場合には、「絶対的貧困」と「相対的貧困」をきちんと峻別しなくてはならない。
絶対的貧困とは、日々の食料に事欠いていたり、重篤な病にあってもお金のために病院にかかることができないような、生死にかかわる貧困のことである。対して、相対的貧困とは、国内のお金持ちとの比較において、年収や貯蓄が少ないことを指す。相対的貧困は、必ずしも生死にかかわってくるとは限らない。(むろん絶対的貧困と相対的貧困はきれいに2分できるものではなく、「絶対的かつ相対的貧困」もある)
貧困を主題としたドキュメンタリーが、相対的貧困をあたかも絶対的貧困であるかのように装って報じることがある。こういった事実の捻じ曲げにより、真に問題視すべき対象を見誤らせてしまう。
日本の貧困は、そのほとんどが相対的貧困であり、絶対的貧困はごく少数である。絶対的貧困にしたところで、大半が生活保護や児童手当などの公的扶助制度の不徹底、もしくは瑕疵によるもので、これら公的保障に充てる資金を拡充し、行政の怠慢や法制度の見直しによって、被対象者を取りこぼさないように徹底していけば、ほぼ解消しうる問題のはずだ。日本のようなGDPが世界3位の国で、絶対的貧困が存在しているというのは、どう考えてもおかしい。
ここでもうひとつ明言しておく。僕は必ずしも格差を否定しない。格差を「あってはならないもの」だとは考えていない。そもそも資本主義である以上、格差の成立は免れ得ない。資本主義以外の経済体制を選択せずに格差を否定するのは矛盾している。
稼ぐ能力のある人は、思う存分その才を発揮して、稼げるだけ稼いでもらったらいい。それは社会全体の活力にもなるだろう。
問題は、「稼ぎが上の人たち」からいくら取って、どれだけ「下の人たち」に還流するか、である。「上の人たち」からの補填で「下の人たち」が絶対的貧困に陥らない仕組みになっているならば、格差など問題ではない。いや、むしろ格差こそが絶対的貧困を消滅させる要因となりえる。「金持ち=悪」という単純な図式で思考する左側の人たちからは、このような「上と下の共存」という発想は出てこない。
格差を批判している(おもに左の)人たちは、「下を引き上げる」だけでなく「上を引きずり下ろす」ことも望んでいるふしがある。愚かなことだと思う。「上の人たち」が生み出す経済的豊かさを社会全体に回してこそ貧困が解消されうるというのに。「上による下の底上げ」こそが必要不可欠なのだ。言い換えるならば、絶対的貧困が存在している限りにおいて格差は批判されねばならない、ということだ。
「上の人たち」は、雇用もまた大量に創出しうる。「上の人たち」を引きずり下ろせば、就労も狭き門となりかねない。みんな仲良く貧乏であればそれでいいとでもいうのだろうか。
自己責任論に話を戻す。
ようは、「社会の責任」と「個人の責任」のバランスをどうとるか、である。「社会の責任が100パーセント」(赤木智弘らロスジェネの言い分)なのでもなく、「個人の責任が100パーセント」(自己責任論)なのでもなく、それぞれの立場・来歴に応じて、「社会の責任」と「個人の責任」の配分を勘案する手続きが求められる、ということである。
最近では就職氷河期世代を正社員として迎え入れようとする動きが起き始めている。これはこれで歓迎すべき流れだろう。
だが、リベラルなメディアが就職氷河期世代やワーキングプアを単純に100パーセント被害者として報じるのは端的に誤っている。少なくとも、単純化された「100パーセント被害者」というアングルは、何かを覆い隠してしまう恐れがある。留意すべきはそこである。それは、安易な自己責任論を振りかざす輩につけ入る隙を与えてしまいかねない急所でもある。
もちろん「個人の責任100パーセント」にも問題がある。「自己の責任として引き受けてなんとかしろ。他人や社会に頼るな」という言い分は、経済的弱者から繋がりを切り離し、ルサンチマンを抱えた孤独な核に還元してしまう。孤独な核は、怨嗟を溜めこむ。
「殺すのはだれでもよかった」「人を殺して刑務所に入りたかった」という無差別殺人事件のたぐいは、自己責任論によって切り捨てられ続けてきた者の中からの噴出であることは間違いない。安易に自己責任論を口にする人々には、これらの事件を招聘した責任が少なからずある。
世の中はそう単純にはできていない。真実は「社会の責任が100パーセント」でも「個人の責任が100パーセント」でもなく、両者の中間の位置にあるはずだ。
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