徳丸無明のブログ

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体罰を肯定する者は何を生み出しているのか①

2016-03-07 21:25:37 | 雑文
今更ながら、体罰について論じてみたい。
公教育の現場では、体罰が禁止されて久しい。家庭においても、体罰を振るう親の総数、及び振るわれる体罰の度合いは、一貫して減少傾向にあると思われる。
その流れの中にあって、たまに体罰必要論が唱えられる。曰く「叩かなければわからない子供もいる」「痛みを感じるのもひとつの教育効果だ」等。これらの言説は少数派に属するので、大きな潮流を生み出す程の力はない。
だが、僅かにせよ必要論を信奉する人々がいるという点、また、組織によっては、暗黙の了解として体罰が公然とまかり通っている点などを概観すると、日本社会は、「体罰は悪である」との共通認識を持つまでには至っていないようだ。
小生は、原則として体罰に反対である。
その理路を述べる前に、まず言葉の定義をしておく。
本論では「体罰」と「暴力」の二つの言葉を使う。普段、二つの言葉を混同して使っている人もいるだろうし、「体罰は暴力ではない」と主張している人もいるが、ここでは体罰を「行使する側が、必要に迫られてやむを得ず、もしくは何らかの教育的効果を求めて執行する肉体的加害行為」、暴力を「体罰も含む加害行為全般」の意味で使用する。

まず、親が体罰を振るう時、子供の側に何が起きているか、を見てみたい。
子供が親から体罰を受ける。すると子供は、「親(大人)の言うことを聞かないと痛い目に遭う」ことを学ぶ。そこまでは誰にでもわかることだが、ほとんどの人は、子供が学んでいるのはそれだけだと思い込んでいるのではないだろうか。だが、それだけではない。同時に子供は、「他者を従わせるのに、暴力行為は極めて有効だ」という真理をも学んでいるのである。
この学習に基づき、子供がどのような行動を取るかは、想像に難くない。子供は、自分よりも弱い者に狙いを定め、暴力によるコントロールを計るだろう。
一口に子供の暴力と言っても、同い年同士、対等な力関係にある者同士の殴り合い、つまり一般的なケンカもあるが、それはここでは問題としない。該当するのは「年上から年下への暴力」「男から女への暴力」「気の強い者から気の弱い者への暴力」である。この構造が固定化・持続化したのが、いわゆる「いじめ」である。
つまり、親(大人)は体罰を振るうことで、いじめのやり方を子供に教えてもいるのである。
もちろん、体罰を受けた子供の全員が全員、このような行動に走るわけではない。だが、一部の子供がそうなるだけで、充分大きな影響があるのである。
「年上から暴力を振るわれた年下」は、何を思うだろうか。やはり彼も、「他者を従わせる暴力の有効性」を学ぶだろう。そして、その学びを自分よりさらに年下の者に適用するだろう。かくして、暴力は連鎖する。
ここでは肉体的暴力に限って話を進めているが、勘のいい子供ならやり方を応用し、精神的な手段でも他人を支配しようとするはずだ。
いじめも、社会問題として長年議論され、様々な対策が講じられているが、あまり大きな成果は上がっていない。その原因の一つには、親(大人)の子供への体罰があると思う。子供の暴力の連鎖の源は、親(大人)の体罰である。親(大人)がいじめを肯定する行為を行っておきながら、「いじめをやめろ」と言っているのだ。欺瞞を孕んだ者の言説は、説得力を持ち得ない。(先に述べたように、いじめは必ずしも物理的暴力を伴うものではないが、何らかの力による脅迫で抵抗させなくする、という点で、暴力行為と同根である)
これに対しては、「体罰は躾のために許される行為であって、弱い相手に、私的な願望を強いるために行われるそれとは違う」という点を、体罰と同時に子供に言い含めればいいのではないか、という反論が予想される。
しかし、言って聞かせたとして、子供はそれに納得するだろうか。もとより、親(大人)の振る舞いに、いじめを肯定しつつ否定するという矛盾が含まれているのだ。

(②に続く)


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