テレビの影響だろうか、若年層の間で「性癖はSかMか?」という話題が上がることが珍しくなくなった。
それは単なるおしゃべりのネタであることもあれば、合コンなどで、意中の相手を品定めする手段として用いられることもある。
いずれにせよ嘆かわしいことだと思う。
いや、小生はなにも性的な事柄をおおっぴらに取り交わすのが下品でよくない、ということが言いたいのではない。
自分の性癖を規定することを問題視しているのである。
Sはサディストで加虐性愛、Mはマゾヒストで被虐性愛であり、S同士、M同士は相性が悪く、SとMの組み合わせが望ましい、とされている。とすると、大雑把に考えて、SとMの人口比率は半々程であろうから、パートナー候補となる異性は、総数の半分、ということになる。異性の半分を切り捨てているのだ。
これは、すごくもったいない。
もちろん、半分「もある」と考えるか、半分「しかない」と考えるか、の違いはある。「男(女)なんかゴマンといるんだから、そのうちの半分だけで充分、むしろ多すぎるくらいだ」という意見も当然あるだろう。(このような書き方をしているのは、話を判り易くするためであって、同性愛者など、ヘテロ以外の人々を無視しているわけではない)
でも、やっぱりパートナー候補の数は、多いに越したことはないと思う。SかMかを議論していると、自分はS(もしくはM)であり、具体的にはこのような好み、クセ、偏向があり…と自己供述、言語化することにより、自らの性癖を規定してしまう。規定された性癖は固定化され、それに合致した異性しかパートナー候補に挙がらなくなってしまう。
だから、SかMかを決めてはいけない。
どちらもアリ、にしておき、相手によってどう出るかを決める。SにもMにもなれる柔軟性を身に付けるべきではないだろうか。そうすることで、より多くの異性とパートナーになれる可能性が開けてくるはずだ。
そして、これは恋愛、性愛関係のみならず、人付き合い全般に応用できる理論だと思う。
持って産まれた性格、性癖というのはどうしてもあって、それを柔軟に変えろと言われても、そう簡単には行かないよ…と思われるだろうか。
いや、そう言われたら返す言葉がないんだけどね…。
オススメ関連本・鹿島茂『SとM』幻冬舎新書
それは単なるおしゃべりのネタであることもあれば、合コンなどで、意中の相手を品定めする手段として用いられることもある。
いずれにせよ嘆かわしいことだと思う。
いや、小生はなにも性的な事柄をおおっぴらに取り交わすのが下品でよくない、ということが言いたいのではない。
自分の性癖を規定することを問題視しているのである。
Sはサディストで加虐性愛、Mはマゾヒストで被虐性愛であり、S同士、M同士は相性が悪く、SとMの組み合わせが望ましい、とされている。とすると、大雑把に考えて、SとMの人口比率は半々程であろうから、パートナー候補となる異性は、総数の半分、ということになる。異性の半分を切り捨てているのだ。
これは、すごくもったいない。
もちろん、半分「もある」と考えるか、半分「しかない」と考えるか、の違いはある。「男(女)なんかゴマンといるんだから、そのうちの半分だけで充分、むしろ多すぎるくらいだ」という意見も当然あるだろう。(このような書き方をしているのは、話を判り易くするためであって、同性愛者など、ヘテロ以外の人々を無視しているわけではない)
でも、やっぱりパートナー候補の数は、多いに越したことはないと思う。SかMかを議論していると、自分はS(もしくはM)であり、具体的にはこのような好み、クセ、偏向があり…と自己供述、言語化することにより、自らの性癖を規定してしまう。規定された性癖は固定化され、それに合致した異性しかパートナー候補に挙がらなくなってしまう。
だから、SかMかを決めてはいけない。
どちらもアリ、にしておき、相手によってどう出るかを決める。SにもMにもなれる柔軟性を身に付けるべきではないだろうか。そうすることで、より多くの異性とパートナーになれる可能性が開けてくるはずだ。
そして、これは恋愛、性愛関係のみならず、人付き合い全般に応用できる理論だと思う。
持って産まれた性格、性癖というのはどうしてもあって、それを柔軟に変えろと言われても、そう簡単には行かないよ…と思われるだろうか。
いや、そう言われたら返す言葉がないんだけどね…。
オススメ関連本・鹿島茂『SとM』幻冬舎新書
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます