徳丸無明のブログ

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手段と目的を取り違える人達

2015-09-19 15:01:04 | 雑文
2012年8月、福岡の歓楽街、中洲を主な対象として、「暴力団入店お断り」と書かれた標章が張り出されることとなった。
これは、暴力団対策に取り組む福岡県警が音頭をとったもので、字義通り、暴力団の排除を狙ったものだ。
で、これは一般的に「標章制度」と呼ばれているのだが、この制度導入後、何が起こったかというと、飲食店関係者が暴力団と見られる人物に襲われる、という事件が立て続けに発生した。県警側はこれに対し、防犯カメラの増強、パトロールの強化でもって応じた。
小生は、連日そのニュースを視ながら、
「そうじゃねえだろ」
と思っていた。
手段と目的が逆転しているからだ。
標章制度の開始によって、市民の安全が脅かされるようになったのだ。ならば、制度を即廃止にするべきであった。
そうしなかったのはなぜか。福岡は人口比のヤクザの割合が高く、福岡県警は長年その問題に取り組んできた。だから、県警側の言い分は、おそらく「暴力団対策を後退させるわけには行かない」ということだろう。
しかし、そもそも暴力団対策、ひいては警察組織というのは、何のために存在するのか。市民の安心・安全を守るためだろう。
守るべきものが脅かされたのであれば、その根本の原因を取り除くべきである。しかるに、福岡県警は、防犯カメラやパトロールなどの、弥縫策でお茶を濁しただけだった。
これは「暴力団対策を後退させない」というのは建前に過ぎず、「表彰制度を廃止すれば、警察がヤクザに負けを認めたことになる、警察のメンツに関わる」というのが本音だということだろう。
福岡県警は、自らのプライドを守るために、市民の安全をないがしろにしたのである。
市民の安心・安全を守ることこそが目的であり、警察はその手段に過ぎない。手段が、自己防衛のために、目的を犠牲にした。
手段と目的の逆転とは、そういうことだ。
もちろん一連の事件の中で、襲撃を行ったヤクザ本人が一番悪いのは言うまでもないのだが、福岡県警の対応のまずさも強調しておかねばならない。第一、この制度にどれほどの効果があるというのか。ヤクザは、ヤクザとして存在しているだけで悪なのではない。その活動の中で、違法行為に手を染めることもあるだろうが、それならその部分に関してのみ取り締まればいい話で、表で酒を飲むことまで取り締まられる筋合いはないだろう。
「暴力団対策にはそのような締めつけが必要なのだ」という意見もあるかもしれないが、本当に締め付けが効果的であるという保証はどこにもない。むしろ逆効果となる可能性もある。
飲食店側にしたところで、警察から制度の協力を求められれば、明言されることはないにせよ、「あんたはヤクザの肩を持つのか?善良な市民ならば、まさか断ることはないよな?」という言外の圧力を感じていたはずで、断りたくても断れなかったであろう。
この、手段と目的の逆転――あるいはその混同――というのは、至る所で起きている。
評論家の宮崎哲弥は、ライターの川端幹人との対談の中で、次のように述べている。


でも、報道・表現の自由をめぐる話だったら、タレントの飲酒よりもう少し深刻な問題について語ろうよ。ほら、デンマークの新聞がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を載せてイスラム教徒の抗議を受けている問題。日本のメディアは肝心要がさっぱり理解できていないでしょ。そのくせ「表現の自由は絶対ではない」なんて、言論機関にあるまじきバカ話にすぐ流れる。
(中略)
もちろん、プライバシー権など他人の権利と衝突するときは事後的に調整される場合がある。だけど、宗教に対してだけは一寸も譲ってはならない。なぜなら、そもそも表現の自由というのは宗教権力との闘いの中で形成され、思想信条の自由と表裏一体の関係にある制度だからです。つまり信教の自由が成り立つ最低限の条件こそが表現の自由なんだよ。同一平面上で比較衡量してはならないのです。こんな基本がまるでわかっていない!オウム真理教事件で宗教を腫れ物のように扱ってはならないってことを、日本のジャーナリズムは強か学んだはずなのに、また元の木阿弥かい。
(中略)
それともうひとつ、この騒動で日本のメディアがダメだった最大の点は、問題の風刺漫画を転載できなかったことでしょう。フランスやドイツでは新聞が転載しまくっているのに、日本の新聞はどこもそれをしないし、その必要性も説かない。
(宮崎哲弥・川端幹人『事件の真相!』ソフトバンククリエイティブ→『中吊り倶楽部』洋泉社)


ここで宮崎が言及しているのは、2005年9月30日に、デンマークの新聞ユランズ・ポステンが紙面に掲載したムハンマドの風刺画に基づく騒動のことである。
イスラム側からの強い反発が起こり、イスラム圏でデモが多発、デンマークのみならず、ヨーロッパ諸国の大使館、キリスト教教会などが襲撃された。デモ隊と警察の衝突も起こり、多数の死傷者が出た。
さて、これほどの甚大な被害を出してまで守られたものとは、一体何だったのであろうか。
それは、表現の自由それ自体でしかなかった。
表現の自由が成立した歴史的文脈に関して言えば、宮崎の言うとおりである。それは、宗教、並びに政治権力の暴走を牽制するために生まれた。
では、ムハンマドの風刺画は、一体イスラムのどのような問題を押さえ込もうとしたのか。むしろ、何も問題がないところに火を付けただけではないのか。イスラム、及びイスラム教徒に、批判に値する部分が全くないとまでは言えない。しかし、批判をするにしても、文章を用いてすればいいことだ。だが彼等は、敢えてイスラムのタブーである絵を使った。イスラムにとっての禁断の領域に土足で上がり込み、それを踏みにじり、「我々には表現の自由がある」と高らかに宣言した。
結果として、失われなくてもいい命が失われ、流れなくてもいい血が流れた。
「議論のための議論」「為にする議論」という言い方があるが、これは「表現のための表現」「為にする表現」だ。
宗教や政治の暴走を抑えるのは、広く平和のため、社会の安寧のため、市民生活のため――平たく言えば、こちらも表彰制度の話と同じく、人々の安心・安全のため――である。そのために用いられるのが表現(言論)だ。
人々の安心・安全が目的であり、表現(言論)はその手段に過ぎない。
おそらくメディアの側に、「表現の自由の弾圧に対し、果敢に戦うジャーナリズム」という自意識――悪く言えば、鼻持ちならない選良意識――があり、それが判断力を混乱させ、手段の目的化が起こるのではないだろうか。日本のメディアは、この風刺画事件を報じる際、「表現の自由は大事だが、敬虔な人々の信仰心を傷つけることがあってはならない」という、もっともらしく聞こえるけど、なんだかどっち着かずの、奥歯に物が挟まったような言い方をしていた。もっとはっきり、「目的化した表現は認められない。表現は、あくまで手段に過ぎないことをわきまえるべきだ」と言うべきだったと思う。
ついでに言えば、表現の自由において重要なのは、それが保証されていることであって、行使することではない。いついかなる場合でも行使しなければ、表現の自由は蔑ろにされてしまう、というわけではない。行使されるべき適切な場面がある。
日本でも風刺画を公開していたら、どうなっていたか。
「悪魔の詩訳者殺人事件」のような先例もある。同じようなことが起こっても、不思議ではない。そのような犠牲を払ってまで、日本社会にムハンマドの風刺画を公開する必要は、本当にあったのか。宮崎はメディアに、「たとえ殺されてもいいから掲載しろ」と本気で言えるのか。
宮崎のような知識人ですらこのような過ちを犯すのである。
「何が手段で、何が目的なのか。どうやって区別したらいいのか」
そう言われる方もいるだろうか。
わかりやすい例を挙げる。
小生は、かつて介護施設に勤めていた。その中で、月に一度、スタッフ会議が行われ、より良いサービスを提供するため、より効率的に業務を回すため、あるいは日々変化する入所者に適切に対応するための話し合いがもたれていた。業務改善のため、休憩時間を変更したり、モノの保管場所の移動などが提案されていた。
その会議において、唯一変更の提案がなされなかったのが「入所者の安心・安全について」である。「入所者の安心・安全に配慮するのをやめよう」とか「スタッフの休憩時間を入所者の安心・安全より優先しよう」などといった話は一度も出なかった。
なぜかというと、入所者の安心・安全こそが、介護施設において最優先に考慮すべき事柄であり、また、それこそが介護施設の存在意義であるからだ。
入所者の安心・安全が目的で、業務はその手段。
つまり、目的は変えてはいけないもので、手段は変えてもいいもの、ということだ。
手段は、目的が達成できるのなら変えてもいい。だから、治安が維持できるのであれば、警察じゃなくて自警団でもいいし、宗教や政治の暴走を抑制できるのであれば、表現の自由ではなく、膝突き合わせた話し合いでもいいのである。
手段と目的の取り違えによって発生している社会的損失は、殊のほか大きい。社会的影響力の強い人が、このことを訴えてくれればいいんだけど。


オススメ関連本・大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』ちくま学芸文庫


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