新しいカテゴリー、「時事」始めます。読んで字のごとく、時事問題を扱います。
日頃から社会問題について思うことはいろいろあるのですが、僕は、自分の意見が、みんなが言ってることと同じであるなら、わざわざ発言する必要はないな、と思っています。ですので、ここでは「みんながあまり(あるいはまったく)言ってないこと」を考えた場合のみ、記事にするつもりです。そういう機会はけっこう少ないので、たぶんこのカテゴリーの更新は少なめになるはずです。ぼちぼちお付き合いください。
それでは第一回目、始まります。
5月28日に神奈川県川崎市で起きた無差別殺傷事件をうけて、「死ぬなら一人で死ね」という発言が拡がった。一般の方々もそう主張しているようだが、著名人では落語家の立川志らくと元大阪市長の橋下徹が同様の発言をしている。ただし、志らくの発言は犯人にだけ向けられたものであるのに対し、橋下は教育で社会の成員に一人で死ぬことを倫理として擦り込むべしと提唱しており、いわば「予備軍」にその矛先が向いている、という違いがある。
もし自分だったら、と仮定してみる。
何をやってもうまくいかず、賃金の低い労働から抜け出せず、理解のある家族や友人や恋人もおらず、社会の底辺にいるという実感が嫌というほどある。そんな自分の対極には、華々しく活躍する、社会的に成功を収めた人たちや、大金を稼いでいる人たち、恋人や友人と幸せな毎日を過ごしている人たちがいる。そんな幸せそうな人たちが、羨ましくて憎くてしょうがない。
自分は何をしても、ぜんぜん楽しくない。もういっそ死んでしまおうか、と考えている。
そんな時に、「死ぬなら一人で死ね」という言葉を投げかけられたら、どうか。
たぶん、「そうかい、だったら俺は、お前を殺してから死んでやるよ」と思うだろう。
「死ぬなら一人で」と主張する人たちが決定的に見落としているのがこの点である。人間は、そう単純にはできていない。「死ぬなら一人で死ね」と言われたからといって、素直に「はいわかりました」と応じるわけがない。むしろ、その言葉に反発を覚えるはずである。
「死ぬなら一人で」とは、実に冷酷な言葉だ。ただでさえ不遇をかこっている状況下で、そんな冷酷な言葉をぶつけられたらどうだろう。他人や社会に対するルサンチマンをさらに昂らせ、「自分に死ねなどとせまる世の中など殺して(壊して)やる」と決意するのではないか。
橋下は、「効果はないかもしれないが、それでも(ほかに手段がないのだから、死ぬなら一人でと)言わなければならない」とも言っていた。しかし、「効果がない」だけならまだマシなほうである。実際には何の効果もないどころか、負の効果がもたらされるおそれがある。事態をより悪化させてしまう可能性があるのだ。
第一、どうして「一人も死なせない」方向で模索することができないのか。なぜその方策を検討してみようともしないのか。なぜその段階をすっ飛ばして、いきなり「他人を巻き込んで死ぬか」、「一人で死ぬか」の二者択一で考えてしまうのか。
なんの効果もないかもしれないけれど、それでも取り組むべきなのは、「一人も死なせない」方向で社会全体に働きかけることだ。他人を殺してから死ぬような人たちは、ただでさえ他人や社会に怨みを抱いている。だったら、怨みを生み出さないように、そして生まれてしまった怨みを少しでも和らげられるように、「社会をより暖かく、手ざわりの良いもの」に、変えていく努力をしなければならない。怨みを和らげることによって、他人を殺させず、自分の命を絶つこともさせない。そんな、「一人も死なせない」世の中を目指していくべきだ。
「死ぬなら一人で死ね」と訴えることは、それとは真逆の影響をもたらすだろう。社会をより冷たく、ギスギスとしたものに変えていき、ルサンチマンが生まれやすく、すでにあるルサンチマンをより強化する構造を作り出してしまうだろう。彼らは、そんな簡単なこともわからないのだろうか。「もし自分がその立場だったら」と想像してみるだけで、容易に理解できることなのに。
その言葉が、予備軍ではなく、あくまで犯人にだけ向けられたものであったとしても同じこと。予備軍たちは、犯人へのその言葉を、自身に向けられたメッセージとして聞くだろうからだ。
志らくは、「なぜ悪魔の立場に立って考えないといけないんだ?」とも言っていた。だが、志らくが師事していた談志は、「悪の立場に立って」考える人であったはずだ。
もちろん悪を肯定、もしくは賛美するということではない。なぜ悪が生まれるのか、なぜ悪は悪として存在するのか。そんな人間の本質、あるいは業をみつめるためにこそ「悪について」思考していたはずだ(なんせ一時期、ビンラディンのTシャツずっと着てたからね)。部外者が言うことではないかもしれないが、志らくは談志から何を学んできたのだろう。
悪魔を生み出さないためにこそ、悪魔の立場に立って考えなければならないはずなのに。
短絡的な正義感や、子供じみた感情論を振りかざす人たちが、社会をより危険な方向に押しやろうとしている。
日頃から社会問題について思うことはいろいろあるのですが、僕は、自分の意見が、みんなが言ってることと同じであるなら、わざわざ発言する必要はないな、と思っています。ですので、ここでは「みんながあまり(あるいはまったく)言ってないこと」を考えた場合のみ、記事にするつもりです。そういう機会はけっこう少ないので、たぶんこのカテゴリーの更新は少なめになるはずです。ぼちぼちお付き合いください。
それでは第一回目、始まります。
5月28日に神奈川県川崎市で起きた無差別殺傷事件をうけて、「死ぬなら一人で死ね」という発言が拡がった。一般の方々もそう主張しているようだが、著名人では落語家の立川志らくと元大阪市長の橋下徹が同様の発言をしている。ただし、志らくの発言は犯人にだけ向けられたものであるのに対し、橋下は教育で社会の成員に一人で死ぬことを倫理として擦り込むべしと提唱しており、いわば「予備軍」にその矛先が向いている、という違いがある。
もし自分だったら、と仮定してみる。
何をやってもうまくいかず、賃金の低い労働から抜け出せず、理解のある家族や友人や恋人もおらず、社会の底辺にいるという実感が嫌というほどある。そんな自分の対極には、華々しく活躍する、社会的に成功を収めた人たちや、大金を稼いでいる人たち、恋人や友人と幸せな毎日を過ごしている人たちがいる。そんな幸せそうな人たちが、羨ましくて憎くてしょうがない。
自分は何をしても、ぜんぜん楽しくない。もういっそ死んでしまおうか、と考えている。
そんな時に、「死ぬなら一人で死ね」という言葉を投げかけられたら、どうか。
たぶん、「そうかい、だったら俺は、お前を殺してから死んでやるよ」と思うだろう。
「死ぬなら一人で」と主張する人たちが決定的に見落としているのがこの点である。人間は、そう単純にはできていない。「死ぬなら一人で死ね」と言われたからといって、素直に「はいわかりました」と応じるわけがない。むしろ、その言葉に反発を覚えるはずである。
「死ぬなら一人で」とは、実に冷酷な言葉だ。ただでさえ不遇をかこっている状況下で、そんな冷酷な言葉をぶつけられたらどうだろう。他人や社会に対するルサンチマンをさらに昂らせ、「自分に死ねなどとせまる世の中など殺して(壊して)やる」と決意するのではないか。
橋下は、「効果はないかもしれないが、それでも(ほかに手段がないのだから、死ぬなら一人でと)言わなければならない」とも言っていた。しかし、「効果がない」だけならまだマシなほうである。実際には何の効果もないどころか、負の効果がもたらされるおそれがある。事態をより悪化させてしまう可能性があるのだ。
第一、どうして「一人も死なせない」方向で模索することができないのか。なぜその方策を検討してみようともしないのか。なぜその段階をすっ飛ばして、いきなり「他人を巻き込んで死ぬか」、「一人で死ぬか」の二者択一で考えてしまうのか。
なんの効果もないかもしれないけれど、それでも取り組むべきなのは、「一人も死なせない」方向で社会全体に働きかけることだ。他人を殺してから死ぬような人たちは、ただでさえ他人や社会に怨みを抱いている。だったら、怨みを生み出さないように、そして生まれてしまった怨みを少しでも和らげられるように、「社会をより暖かく、手ざわりの良いもの」に、変えていく努力をしなければならない。怨みを和らげることによって、他人を殺させず、自分の命を絶つこともさせない。そんな、「一人も死なせない」世の中を目指していくべきだ。
「死ぬなら一人で死ね」と訴えることは、それとは真逆の影響をもたらすだろう。社会をより冷たく、ギスギスとしたものに変えていき、ルサンチマンが生まれやすく、すでにあるルサンチマンをより強化する構造を作り出してしまうだろう。彼らは、そんな簡単なこともわからないのだろうか。「もし自分がその立場だったら」と想像してみるだけで、容易に理解できることなのに。
その言葉が、予備軍ではなく、あくまで犯人にだけ向けられたものであったとしても同じこと。予備軍たちは、犯人へのその言葉を、自身に向けられたメッセージとして聞くだろうからだ。
志らくは、「なぜ悪魔の立場に立って考えないといけないんだ?」とも言っていた。だが、志らくが師事していた談志は、「悪の立場に立って」考える人であったはずだ。
もちろん悪を肯定、もしくは賛美するということではない。なぜ悪が生まれるのか、なぜ悪は悪として存在するのか。そんな人間の本質、あるいは業をみつめるためにこそ「悪について」思考していたはずだ(なんせ一時期、ビンラディンのTシャツずっと着てたからね)。部外者が言うことではないかもしれないが、志らくは談志から何を学んできたのだろう。
悪魔を生み出さないためにこそ、悪魔の立場に立って考えなければならないはずなのに。
短絡的な正義感や、子供じみた感情論を振りかざす人たちが、社会をより危険な方向に押しやろうとしている。
って、これはこれであれだけどさ
何でもそうですが、誰の立場になって物事を見るか?で全く変わって行きますね。
あの事件で犠牲になった子供たちは丁度うちの子供と同世代だったので、本当にやり切れない気持ちになりました。
根本的に、治療しかないとは思うけど・・・それはそれでまともとは何かって話にもなってしまう
って、着地点を見失いました
今は遺伝子的に犯罪を犯す確率の高さが推測できるようになってきているそうなので、ひょっとしたらそちらの方向で治療が行われるようになるかもしれません。
しかし、なぜそこで「死ぬなら一人で」となるのか、と思うのです。
怒りをぶちまけるなら、もっと他の方法があるはずです。
公の場で発言するなら、社会を悪化させない種類の発言をする。
「死ぬなら一人で」などの口汚い言葉をはき散らしたいのならば、それはあくまで私的な場所に限定する。
そのような分別があってしかるべきではないか、と思ったのです。
それがこの記事を書いた一因です。
例えタイムマシーンがあっても、脳そのものを変えたとしても・・・
その人間でありながら、違う道を生きられるようにするというのは・・・
結局は、その人の意志なのか、結局は社会の都合なのか・・・
それはその人を殺すということになるのかもしれない(@_@)
まあ、俺はどっちがいいとは言えないけど
そういう話にもなるから、結局は平行線で・・・
たしかに、慎重な議論が求められる問題ではあります。
ただ、当人にとってはどうでしょうか。
世の中には、怒りっぽかったり自己中心的だったりする人がいますね。
そういう人達は、当然周りから嫌われるわけですが、そんな性格ですら遺伝子によってある程度決められている面があったりします。
本人も、「自分は何故怒りっぽいんだろう」と悩みながらも、怒るのをやめることができない、というケースが少なからずあるのではないかと思います。
で、遺伝子操作によって、他人と衝突が起こりにくい性格になれるのであれば、ぜひ治療を受けたい、と希望するのではないでしょうか。
それと同じで、遺伝子的に犯罪を犯しやすい(犯罪のハードルが低い、と言ったほうが正確かもしれません)と認定された人がいたら、ひょっとしたら自分は罪を犯すかもしれない、と怯えながら生きていくよりは、治療を受ける選択をするのではないかと思います。
そもそも、現在においてすら、人間の生は不自然なものです。
僕らは、産まれてから破傷風や風疹などのワクチンを接種しますよね。
これがないと、子供ってけっこうな確率で病死するんです。
手足を欠損すれば義手義足をつけるし、心臓の働きが弱まればペースメーカーを入れる。
これらは人間が「良き生」を追求してきた結果です。
遺伝子操作も、この延長線上に是認されるようになるのではないか、と僕は考えています。
そのときはもちろん、様々な医療技術を受け入れてきた時に起きたのと同じように、人権や倫理の「書き換え」が行われることでしょう。
正義の味方を見ていれば、怒りっぽいっちゃ怒りっぽいが、正義だから許されているわけで・・・
その正義が共通の正義なら・・・誰も治そうともしないし治せとも言わない
今の時代とずれているから悩むのであって、それは正しいとは言えない
だから、治そうとするのはいい
気に入らないなら治すべきであり、それは整形にも似ているけど・・・
その結果に満足するかしないかは自分次第で、周りに決められるというのであれば・・・
正解かもしれない。多数決的には
ただ、少数派には、ただの苦痛かもしれない
その中で、ロボトミーとかも(話飛んだかもしれないけど)生まれて・・・
今では悪だと言われていても、当時では治療法であり・・・
悪が悪だという世の中だから・・・
って、結論出ませんでした!!!!(@_@)
結論が出るということは、その問題についてこれ以上考えることをやめる、ということと同じであって、思考停止に陥りかねません。
安易に結論を出すというのは、けっこう危険なことなのです。
僕もいろいろものを考えていますけど、どの考えであってもそれが最終解ではなく、暫定的なものであると意識するようにしています。
で、遺伝子治療(操作)ですけど、たしかに何を正しいとするかは、恣意的に決するしかなく、社会の成員すべてが納得できる基準を設定するのはほぼ不可能でしょう。
かつて行われていたロボトミー、そして最近話題となっている優生保護法に基づく不妊手術。
これらは、治療自体が間違っていたばかりでなく、被施術者に拒否権がなかった、という2重の問題がありました。
どんな治療法であれ、後年になってから「間違っていた」ことが明らかになる可能性を含んでいます。
ですから、遺伝子治療(操作)も、必ず拒否権を担保しておく、という倫理設定をしておくべきでしょうね。
ただ、人権ってどこまで配慮するの、って個人的に思うことがありまして。
国によっては性犯罪を犯した者に、性欲を抑制する薬(ホルモンを減少させるんだったか、正確に覚えてない)を投与する規定があるそうで。
性衝動を抑えることで再犯を防ぐための施術です。
僕はこれ、日本でも導入すればいいと思うんですけど、実現はしてない。
人権に対する配慮のためです。
もちろん加害者の人権ですよ。
で、僕は人権って何、って思うんですよ。
いついかなる時も最大限尊重されなければならないのか。
人権よりも大切なものってないのか。
時と場合によっては人権も制限されるべきではないのか。
そんなことを思わずにはいられないんです。
では、制限するとすればどんな場面でどの程度するのか、という点まではまだはっきりとした考えが持てていないのですが。
けど、すでに、そいつらがそれをされていて、その黒幕がいたら?って思う
黒幕は、悪かもしれないけど、正義の顔をしているのかもしれない
問題はそこ
例えば、受け子、出し子(だっけ??)それが完全に悪ならそれでもいいけど・・・
大体は金のためだろうし、大体は黒幕がいるってわけで・・・
本当に治すべき人間が誰なのか・・・正直わからないよね(@_@)