出ました!ミルクック!
九州の方ならみんなご存じ。九州外ならご存じなかろう竹下製菓。佐賀の会社で、ブラックモンブランが一番有名です。
僕も子供のころからブラックモンブラン食べてましてね。ほぼブラックモンブラン「しか」食べてなかったといってもいいほどです。
んでもね、大人になった今、ミルクックのほうがおいしいな、って思うようになったのです。これはミルクセーキを凍らせたようなアイスです。
竹下製菓のアイスは、九州一円でしか売られていません(たぶん)。ひょっとしたらアンテナショップで販売されてるかもしれませんので、九州外の方は九州のアンテナショップで探してみてください。おゴリまっせもよろしく!
僕ね、こないだ献血してきたんですよ。緊急事態宣言が出る直前ね、人生初献血でした。
たまたま立ち寄ったショッピングモールで献血やってまして、前から一度くらいはやっときたいなって思ってたのもあり、これからコロナ絡みで血が不足するかもしれないってふと思ったのもあって、やってきたんですね。
なんで今日はその体験記です。「献血興味あるけどどうしたらいいかわかんないし怖いよ~」って人もそうでない人も要注目だ!
まずはいくつかのチェックから。「3日以内に出血を伴う歯科治療を受けた」「4週間以内に海外から帰国(入国)した」「1ヵ月以内にピアスの穴を開けた」「エイズ検査が目的」「6ヵ月以内に(a)不特定の異性または新たな異性と性的接触があった(b)男性同士の性的接触があった(c)麻薬、覚醒剤を使用した」などに該当すると輸血できません。該当しなければ同意書にサインします。
ほんで住所氏名の記入と身分証の提示が必要です。これはたぶん初回のみで、献血カードっての作ってもらったんですけど、次からはこの提示のみで大丈夫なはずです。献血量は200mlと400mlのどちらかなのですが、基本は400だそうで、ほぼ有無を言わさずの感じで400を選択させられました。
あと朝ごはんは食べたかとか、ご飯食べてからどれくらいたってるかとか、今日水分どれだけ摂ったかとか、このあとにスポーツや重労働の予定はあるかとか聞かれます。質問多かったから全部は覚えてません。ご飯まったく食べてなかったり、水分摂ってなかったりすると献血できないようです。
血圧と体温の測定もあります。どちらの腕が採血に適しているかの事前チェックもありました。利き腕のほうが血管が発達してて採りやすいそうです。これらの途中で献血対象者であることの証明のために、IDカード的なものを首にかけられ、手首に血液型とかの情報記載した紙の輪っかをつけられました。
それから血液の検査。あらかじめ血を少量採取して、献血に適しているかどうかを調べるのです。指先に針を刺して血を採るのですが、これがそこそこ痛い。針を刺すのは基本左手中指先端のよこっぱら。針を刺した後に、周囲をぎゅーっと搾って血を出すのです。けっこう荒っぽいですし、このあと献血で刺された腕のところよりも、指のほうが痛みが長く残りました。
んで、血が問題なしと判定されたら献血バスに移動。血を採る前に200mlのパック入り飲料を飲むよう言われます。ミニッツメイドのリンゴと十六茶とカフェオレがありました。
飲んだら歯医者の診察台みたいな椅子に横たわって採血開始。はやい人は数分(5分ぐらいっつってたかな)で終わるけど、長いと十数分かかるそうで、手が冷えてる人は出るのが遅いそうです。前に冷え性の話したとき、血の巡りが少なくなることで手足が冷えるって言いましたよね。それです。特に血の出るスピードが遅かった場合、管のところで血が固まって止まってしまうこともあるそうで、そうなったらその時点で献血終了になるとのこと。
僕はそのとき手が冷えていたので、カイロを握らされました。ほんでそれ以外にも血の巡りよくするために、足をクロスさせて伸ばしたり縮めたりのストレッチを指示されました。
途中で退屈したんで、読書しようと思って、椅子の下の荷物置き場においてあった本に手を伸ばしました。針刺したままでうまく取れなくてまごまごしてたら職員の人が気づいて、慌てて止められました。採血中に動いたら、針が血管から飛び出たり、針が折れてしまったりすることもあって危険なのだそう。知らなかったとはいえ、アホなことしました。
まあまあ時間かかりましたけど、徐々に流れがよくなってきたそうで、無事400到達。終わったらまた水分摂りつつ10分休憩。採血後は立ちくらみとかが起こることもあり、特に男は出血することがあまりないから具合が悪くなりやすいそうです。あと男だけの注意点として、採血直後に排尿すると失神することもあるので、座ってしなけらばならないとのこと。
これといった体調悪化もなかったのでバスを出ると、外でパンフレットや記念品的なものをいただきました。記念品は歯磨き粉とクリアファイル。
そのまま自転車で帰宅しましたが、なんとなく意識がぼやけてる感じがしました。気のせいだったかもしれません。
献血して2時間以上たったら風呂も入っていいとのことで、その日も普通に入浴しました。就寝まで体調悪化はなかったです。
ついでに詳細な血液検査もしてもらえまして、後日「親展」の形で通知が送られてきます。アルブミンとかヘマトクリットとか、よくわからんもののよくわからん数値が記されていますが、異常がある場合はチェックが入っているので、問題のあるなしが一目でわかります。
細かいことまで覚えてないんですけど、だいたいこんな感じでした。職員の人たちは、赤十字っつー職場の気風ゆえか、みんな親しみやすい人たちばかりでしたので、気楽に行っても大丈夫です。
さあ、キミもLet’s献血だ!
パンフレットとともに入ってた注意書き。
「はっぴい・くろす」なる冊子。昭和57年から発刊していたのが、なんと今号で休刊。
福岡県献血推進ガールのAKB48吉田華恋のクリアファイル。メルカリで売ったらいくらかになるのだろうか。
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
今は紙パックのリサイクルができなくなってます。近所の複数のスーパーに設置されてたリサイクルボックスがすべて、コロナ感染防止を理由に閉鎖されてましてね。
僕は牛乳飲むんですけど、それが回収に出せずに溜まっていってるのです。リサイクルの停止って、それホントに感染防止になるの?意味があるのかわからん・・・。
なんか感染防止のためにやってることって、けっこうムダが多いような気がする。
前回、人間社会の中で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の関係性の連鎖の網の目の中で生きていくということだ、という話をしました。今日はそれに関する話です。
バイトができなくなったり、親からの仕送りがなくなったりで、生活が困窮している学生が、助けを求める声をあげられずにいる、と聞きました。日本人の、特に若い人の間には、「人に迷惑をかけたくない」という意識が根強くあるようです。どうしてそのように考えるのでしょうか。
それはたしかに美徳ではあります。「できるだけ人様に迷惑をかけてはいけない」。とても正しい考えです。
でも、自分の生活が破綻してでも迷惑をかけるべきではないのでしょうか。迷惑とは、そこまで忌避されなければならないのでしょうか。
「迷惑」ではなく、「助け」と言い換えてみましょう。そして、逆の立場で考えてみましょう。
もし、だれか助けを求めている人が目の前にいたらどうでしょう。あなたは、どうしますか。
「絶対に助けたくない」と思うでしょうか。それとも、「自分にできる範囲なら、なんとかしてあげたい」と思うでしょうか。
ほとんどの人は、後者であるはずです。助けを求めている人を、平気で見捨てることができる人は、そうそういない。
ならば、自分が助けを求めた場合もそうではないでしょうか。自分の周りの人たちも、助けを求められることをさほど嫌がらず、積極的になんとかしてあげたい、と考えるのが普通ではないでしょうか。
「迷惑」という言葉を使うと、語弊が生じがちのようです。「助けを求めること」を「迷惑をかける」と呼んで、できるだけ避けねばならないことと認識している人が大半のようですが、しかし、「人を助けること」は、けっこうな喜びだったりするのです。
また自分の立場に置き換えてみましょう。人を助けること、助けることで感謝され、人のためになったと実感することは、自分自身の大きな喜び、満足につながるのではないでしょうか。よっぽどの変わり者でない限り、これも同意していただけるはずです。
人助けは、喜びなのです。なぜ喜びを感じるのか。おそらくは、人が集団で暮らす生き物だから、助けることを喜びと感じるように、脳内にプログラムされているのでしょう。
そのへんの詳しい理由は僕にはわかりません。いずれにせよ、「助けることは喜びである」という事実を理解していただければそれで充分です。
そうすると、できるだけ人様に迷惑をかけないようにする振る舞いは、本当に正しいのか、という疑問が生じます。
もちろん、積極的には迷惑をかけるべきではないし、迷惑をかけることそれ自体を目的として迷惑をかけるべきではないでしょう。でも、やむを得ない場合ならどうでしょうか。本当にあなたが困っているのなら、あなたの周りにいる誰かは、あなたのことを助けてあげたいと考えるのではないでしょうか。そして、あなたを助けることに、喜びを見出すのではないでしょうか。
僕は、迷惑はかけてはいけないものだとは思いません。僕がよくないと思うのは、人に助けてもらいながらその恩を忘れたり、自分が助けを求められる側になったときに救いの手を差し伸べなかったり、人はみな「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きているという事実に背を向けた生き方をすることです。
迷惑は、かけてもいい。その恩を忘れなければいい。そしてその恩を、助けてくれた相手や、助けを求めているほかの誰かに返す。
「助けを求めているほかの誰か」とは、その時点ではなんの貸し借りもないのだから、恩を返すというのはおかしい、と思われるでしょうか。でも、何度も言ってるように、人はみな「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きています。貸し借りのない相手にも「恩を返す」というのは、「その網の目の中に私たちはいるのだ」という事実を確認するということです。
あなたに助けてもらった人は、言葉にしなくても気づくでしょう。「この人も誰かに助けられてきたのだ。だから私を助けてくれたのだ。ならば私も、誰かを助ける人にならねばならない」。
それが「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きるということです。繰り返しになりますが、「迷惑」ではなく、「助け」という言葉のほうがいいでしょうね。
芸能の世界では、それは常識とされています。貧乏な若手は、お金のある先輩に食事をおごってもらう。おごってもらった後輩は、自分が売れたとき、お世話になった先輩ではなく、まだ売れてない自分の後輩をおごることで「恩を返す」。
恩とは、そうやって先輩から後輩へと送り継がれるものなのです。恩を、送ってくれた本人にではなく、後進に送り返す。そんな「恩をうしろに返す」流れによって、芸能の世界は支えられています。
それは、「先祖から子孫へ」という流れにも当てはめられます。我々はみな、先祖が作り上げてくれた繁栄のもとに生まれ、それを享受しながら生きていく。そして、受け継いだものをできるだけ残し、できるだけ自分も何か付け足して、子孫に送る。先人から受け継ぎ、後進へと返す。それが人としての「種の営み」のはずです。
人はみな、「助けたり、助けられたり」の網の目の中で生きている。
だから、助けを求めていいのです。そのぶんあなたも助ける人になりましょう。助けられた恩を忘れないようにしましょう。
それに、「助けたり、助けられたり」には、喜びだけでなく、他の利点もあるのです。
助けを求めない場合、人はひとりで問題を解決しなくてはならない。助けを求めた場合は、ふたりか、それ以上の人数で問題に臨める。
人は、ひとりよりも、ふたり以上のほうが、力を発揮することができます。1+1=2ということではありません。人が力を合わせるということは、単純な足し算ではなく、1+1が3にも4にも、それ以上にもなるということです。人が力を合わせると、思いもよらない力を生み出す。ひとりずつでは到底なしえないことや、ひとりずつでは出てこない発想が可能になったりする。
それが「助ける」こと、「力を合わせる」ことのもうひとつの利点なのです。助け合うこと、力を合わせることで、1+1=2以上の出力を生み出すことができる。だから、助け合うことは、すごく効率がいいし、創発的なのです。
それは、頭脳面においては「3人寄れば文殊の知恵」ということわざで言い表されていますし、身体面においては、「共‐身体」という哲学用語で表現されています。
ことわざのほうは言わずもがなでしょうから、「共‐身体」のほうだけ説明します。「共‐身体」とは、複数の身体の結合によって仮構的に顕現する複素的身体のことです。お神輿を担いでる人たちや、音楽バンドなんかを思い浮かべればわかりやすいでしょう。
これらの人々は、声を掛け合わなくても動きが同期します。2人以上の人たちが、まるでひとつの頭脳につながっているように「呼吸」が合う。複数の身体がキメラのように競合して動く共動体、それが「共‐身体」です。「助け合う」こと、「身体を結合する」ことで、人間の動力の可能性を拡張しているのが「共‐身体」なのです。
人間は頭脳においても、身体においても、共動することによって飛躍的にパフォーマンスを向上させることができるのです。
なので「迷惑をかける」ではなく、「助け合うことで人の可能性を拡大する」というふうに、ポジティブに言い換えてみてはどうでしょうか。
なんか今回はコロナ絡みというより人生訓みたいになっちゃいましたね。まあこれはこれでアリということで。
九州の方ならみんなご存じ。九州外ならご存じなかろう竹下製菓。佐賀の会社で、ブラックモンブランが一番有名です。
僕も子供のころからブラックモンブラン食べてましてね。ほぼブラックモンブラン「しか」食べてなかったといってもいいほどです。
んでもね、大人になった今、ミルクックのほうがおいしいな、って思うようになったのです。これはミルクセーキを凍らせたようなアイスです。
竹下製菓のアイスは、九州一円でしか売られていません(たぶん)。ひょっとしたらアンテナショップで販売されてるかもしれませんので、九州外の方は九州のアンテナショップで探してみてください。おゴリまっせもよろしく!
僕ね、こないだ献血してきたんですよ。緊急事態宣言が出る直前ね、人生初献血でした。
たまたま立ち寄ったショッピングモールで献血やってまして、前から一度くらいはやっときたいなって思ってたのもあり、これからコロナ絡みで血が不足するかもしれないってふと思ったのもあって、やってきたんですね。
なんで今日はその体験記です。「献血興味あるけどどうしたらいいかわかんないし怖いよ~」って人もそうでない人も要注目だ!
まずはいくつかのチェックから。「3日以内に出血を伴う歯科治療を受けた」「4週間以内に海外から帰国(入国)した」「1ヵ月以内にピアスの穴を開けた」「エイズ検査が目的」「6ヵ月以内に(a)不特定の異性または新たな異性と性的接触があった(b)男性同士の性的接触があった(c)麻薬、覚醒剤を使用した」などに該当すると輸血できません。該当しなければ同意書にサインします。
ほんで住所氏名の記入と身分証の提示が必要です。これはたぶん初回のみで、献血カードっての作ってもらったんですけど、次からはこの提示のみで大丈夫なはずです。献血量は200mlと400mlのどちらかなのですが、基本は400だそうで、ほぼ有無を言わさずの感じで400を選択させられました。
あと朝ごはんは食べたかとか、ご飯食べてからどれくらいたってるかとか、今日水分どれだけ摂ったかとか、このあとにスポーツや重労働の予定はあるかとか聞かれます。質問多かったから全部は覚えてません。ご飯まったく食べてなかったり、水分摂ってなかったりすると献血できないようです。
血圧と体温の測定もあります。どちらの腕が採血に適しているかの事前チェックもありました。利き腕のほうが血管が発達してて採りやすいそうです。これらの途中で献血対象者であることの証明のために、IDカード的なものを首にかけられ、手首に血液型とかの情報記載した紙の輪っかをつけられました。
それから血液の検査。あらかじめ血を少量採取して、献血に適しているかどうかを調べるのです。指先に針を刺して血を採るのですが、これがそこそこ痛い。針を刺すのは基本左手中指先端のよこっぱら。針を刺した後に、周囲をぎゅーっと搾って血を出すのです。けっこう荒っぽいですし、このあと献血で刺された腕のところよりも、指のほうが痛みが長く残りました。
んで、血が問題なしと判定されたら献血バスに移動。血を採る前に200mlのパック入り飲料を飲むよう言われます。ミニッツメイドのリンゴと十六茶とカフェオレがありました。
飲んだら歯医者の診察台みたいな椅子に横たわって採血開始。はやい人は数分(5分ぐらいっつってたかな)で終わるけど、長いと十数分かかるそうで、手が冷えてる人は出るのが遅いそうです。前に冷え性の話したとき、血の巡りが少なくなることで手足が冷えるって言いましたよね。それです。特に血の出るスピードが遅かった場合、管のところで血が固まって止まってしまうこともあるそうで、そうなったらその時点で献血終了になるとのこと。
僕はそのとき手が冷えていたので、カイロを握らされました。ほんでそれ以外にも血の巡りよくするために、足をクロスさせて伸ばしたり縮めたりのストレッチを指示されました。
途中で退屈したんで、読書しようと思って、椅子の下の荷物置き場においてあった本に手を伸ばしました。針刺したままでうまく取れなくてまごまごしてたら職員の人が気づいて、慌てて止められました。採血中に動いたら、針が血管から飛び出たり、針が折れてしまったりすることもあって危険なのだそう。知らなかったとはいえ、アホなことしました。
まあまあ時間かかりましたけど、徐々に流れがよくなってきたそうで、無事400到達。終わったらまた水分摂りつつ10分休憩。採血後は立ちくらみとかが起こることもあり、特に男は出血することがあまりないから具合が悪くなりやすいそうです。あと男だけの注意点として、採血直後に排尿すると失神することもあるので、座ってしなけらばならないとのこと。
これといった体調悪化もなかったのでバスを出ると、外でパンフレットや記念品的なものをいただきました。記念品は歯磨き粉とクリアファイル。
そのまま自転車で帰宅しましたが、なんとなく意識がぼやけてる感じがしました。気のせいだったかもしれません。
献血して2時間以上たったら風呂も入っていいとのことで、その日も普通に入浴しました。就寝まで体調悪化はなかったです。
ついでに詳細な血液検査もしてもらえまして、後日「親展」の形で通知が送られてきます。アルブミンとかヘマトクリットとか、よくわからんもののよくわからん数値が記されていますが、異常がある場合はチェックが入っているので、問題のあるなしが一目でわかります。
細かいことまで覚えてないんですけど、だいたいこんな感じでした。職員の人たちは、赤十字っつー職場の気風ゆえか、みんな親しみやすい人たちばかりでしたので、気楽に行っても大丈夫です。
さあ、キミもLet’s献血だ!
パンフレットとともに入ってた注意書き。
「はっぴい・くろす」なる冊子。昭和57年から発刊していたのが、なんと今号で休刊。
福岡県献血推進ガールのAKB48吉田華恋のクリアファイル。メルカリで売ったらいくらかになるのだろうか。
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
今は紙パックのリサイクルができなくなってます。近所の複数のスーパーに設置されてたリサイクルボックスがすべて、コロナ感染防止を理由に閉鎖されてましてね。
僕は牛乳飲むんですけど、それが回収に出せずに溜まっていってるのです。リサイクルの停止って、それホントに感染防止になるの?意味があるのかわからん・・・。
なんか感染防止のためにやってることって、けっこうムダが多いような気がする。
前回、人間社会の中で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の関係性の連鎖の網の目の中で生きていくということだ、という話をしました。今日はそれに関する話です。
バイトができなくなったり、親からの仕送りがなくなったりで、生活が困窮している学生が、助けを求める声をあげられずにいる、と聞きました。日本人の、特に若い人の間には、「人に迷惑をかけたくない」という意識が根強くあるようです。どうしてそのように考えるのでしょうか。
それはたしかに美徳ではあります。「できるだけ人様に迷惑をかけてはいけない」。とても正しい考えです。
でも、自分の生活が破綻してでも迷惑をかけるべきではないのでしょうか。迷惑とは、そこまで忌避されなければならないのでしょうか。
「迷惑」ではなく、「助け」と言い換えてみましょう。そして、逆の立場で考えてみましょう。
もし、だれか助けを求めている人が目の前にいたらどうでしょう。あなたは、どうしますか。
「絶対に助けたくない」と思うでしょうか。それとも、「自分にできる範囲なら、なんとかしてあげたい」と思うでしょうか。
ほとんどの人は、後者であるはずです。助けを求めている人を、平気で見捨てることができる人は、そうそういない。
ならば、自分が助けを求めた場合もそうではないでしょうか。自分の周りの人たちも、助けを求められることをさほど嫌がらず、積極的になんとかしてあげたい、と考えるのが普通ではないでしょうか。
「迷惑」という言葉を使うと、語弊が生じがちのようです。「助けを求めること」を「迷惑をかける」と呼んで、できるだけ避けねばならないことと認識している人が大半のようですが、しかし、「人を助けること」は、けっこうな喜びだったりするのです。
また自分の立場に置き換えてみましょう。人を助けること、助けることで感謝され、人のためになったと実感することは、自分自身の大きな喜び、満足につながるのではないでしょうか。よっぽどの変わり者でない限り、これも同意していただけるはずです。
人助けは、喜びなのです。なぜ喜びを感じるのか。おそらくは、人が集団で暮らす生き物だから、助けることを喜びと感じるように、脳内にプログラムされているのでしょう。
そのへんの詳しい理由は僕にはわかりません。いずれにせよ、「助けることは喜びである」という事実を理解していただければそれで充分です。
そうすると、できるだけ人様に迷惑をかけないようにする振る舞いは、本当に正しいのか、という疑問が生じます。
もちろん、積極的には迷惑をかけるべきではないし、迷惑をかけることそれ自体を目的として迷惑をかけるべきではないでしょう。でも、やむを得ない場合ならどうでしょうか。本当にあなたが困っているのなら、あなたの周りにいる誰かは、あなたのことを助けてあげたいと考えるのではないでしょうか。そして、あなたを助けることに、喜びを見出すのではないでしょうか。
僕は、迷惑はかけてはいけないものだとは思いません。僕がよくないと思うのは、人に助けてもらいながらその恩を忘れたり、自分が助けを求められる側になったときに救いの手を差し伸べなかったり、人はみな「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きているという事実に背を向けた生き方をすることです。
迷惑は、かけてもいい。その恩を忘れなければいい。そしてその恩を、助けてくれた相手や、助けを求めているほかの誰かに返す。
「助けを求めているほかの誰か」とは、その時点ではなんの貸し借りもないのだから、恩を返すというのはおかしい、と思われるでしょうか。でも、何度も言ってるように、人はみな「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きています。貸し借りのない相手にも「恩を返す」というのは、「その網の目の中に私たちはいるのだ」という事実を確認するということです。
あなたに助けてもらった人は、言葉にしなくても気づくでしょう。「この人も誰かに助けられてきたのだ。だから私を助けてくれたのだ。ならば私も、誰かを助ける人にならねばならない」。
それが「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きるということです。繰り返しになりますが、「迷惑」ではなく、「助け」という言葉のほうがいいでしょうね。
芸能の世界では、それは常識とされています。貧乏な若手は、お金のある先輩に食事をおごってもらう。おごってもらった後輩は、自分が売れたとき、お世話になった先輩ではなく、まだ売れてない自分の後輩をおごることで「恩を返す」。
恩とは、そうやって先輩から後輩へと送り継がれるものなのです。恩を、送ってくれた本人にではなく、後進に送り返す。そんな「恩をうしろに返す」流れによって、芸能の世界は支えられています。
それは、「先祖から子孫へ」という流れにも当てはめられます。我々はみな、先祖が作り上げてくれた繁栄のもとに生まれ、それを享受しながら生きていく。そして、受け継いだものをできるだけ残し、できるだけ自分も何か付け足して、子孫に送る。先人から受け継ぎ、後進へと返す。それが人としての「種の営み」のはずです。
人はみな、「助けたり、助けられたり」の網の目の中で生きている。
だから、助けを求めていいのです。そのぶんあなたも助ける人になりましょう。助けられた恩を忘れないようにしましょう。
それに、「助けたり、助けられたり」には、喜びだけでなく、他の利点もあるのです。
助けを求めない場合、人はひとりで問題を解決しなくてはならない。助けを求めた場合は、ふたりか、それ以上の人数で問題に臨める。
人は、ひとりよりも、ふたり以上のほうが、力を発揮することができます。1+1=2ということではありません。人が力を合わせるということは、単純な足し算ではなく、1+1が3にも4にも、それ以上にもなるということです。人が力を合わせると、思いもよらない力を生み出す。ひとりずつでは到底なしえないことや、ひとりずつでは出てこない発想が可能になったりする。
それが「助ける」こと、「力を合わせる」ことのもうひとつの利点なのです。助け合うこと、力を合わせることで、1+1=2以上の出力を生み出すことができる。だから、助け合うことは、すごく効率がいいし、創発的なのです。
それは、頭脳面においては「3人寄れば文殊の知恵」ということわざで言い表されていますし、身体面においては、「共‐身体」という哲学用語で表現されています。
ことわざのほうは言わずもがなでしょうから、「共‐身体」のほうだけ説明します。「共‐身体」とは、複数の身体の結合によって仮構的に顕現する複素的身体のことです。お神輿を担いでる人たちや、音楽バンドなんかを思い浮かべればわかりやすいでしょう。
これらの人々は、声を掛け合わなくても動きが同期します。2人以上の人たちが、まるでひとつの頭脳につながっているように「呼吸」が合う。複数の身体がキメラのように競合して動く共動体、それが「共‐身体」です。「助け合う」こと、「身体を結合する」ことで、人間の動力の可能性を拡張しているのが「共‐身体」なのです。
人間は頭脳においても、身体においても、共動することによって飛躍的にパフォーマンスを向上させることができるのです。
なので「迷惑をかける」ではなく、「助け合うことで人の可能性を拡大する」というふうに、ポジティブに言い換えてみてはどうでしょうか。
なんか今回はコロナ絡みというより人生訓みたいになっちゃいましたね。まあこれはこれでアリということで。
それはやっぱ純粋に「人の役に立ちたい」って思いからですか?
ただ、俺はランバラルが好きなので自分の活躍で部下に飯が食える精神は一応ありますが
でもそれで体重減っても一時的でしょ?
ところで、献血場って飲み食いできるものが会場によってまちまちで、東京じゃハーゲンダッツ食べられる所もあるって聞いたんですけど、そっちはどうですか?
飲み物はフツウにお茶やジュースですか?