徳丸無明のブログ

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RIZIN前夜

2015-12-16 19:56:22 | 雑文
あらかじめお断りしておくと、今回は、いつもとは毛色の違う文章になります。格闘技の話。知らない人には何を言っているのかわからないであろうこと、お詫びしておきます。
小生は、10代半ばの頃に、「PRIDE」という総合格闘技に触れ、まあまあ熱狂的な格闘技ファンになった。しばらくの間は、格闘技観戦を愛好していたのだが、「PRIDE」および「HIRO'S」の流れを汲む「DREAM」の地上波放送が終了すると、観戦する機会を失ってしまう。わざわざ会場まで足を運ぶ程熱心なファンではなかったし、ペイパービューでお金払ってまで観る気にもなれなかった。一時期はJ-COMにも加入していたので、修斗やパンクラスやDEEPやゼストなんかも観ていたのだが、「DREAM」の地上波放送終了と前後して解約してしまったので、以降、格闘技観戦から離れていた。
それがここにきて、「RIZIN」なるイベントの旗揚げと、年末の地上波放送のニュースである。
久々に血が騒いでいるのだ。(と言っても、テレビ番組雑誌の年末号には、放送予定が記載されておらず、ひょっとしたら直前で中止になるかもしれない、という一抹の不安があるのだが。これまでにもいろいろあったしね)
何よりも嬉しかったのが、サクちゃんの試合がまた観れる、ということ。関根勤が「FUJIYAMA FIGHT CLUB」の中で、「桜庭の試合は、観たいけど観たくない」と言っていたが、まさにその通りで、サクちゃんがまたボコボコにされるんじゃないか、というおそれがどうしても拭えない。それでも、年齢を考えるとやれるうちにやっといてもらいたい、って思うし、無茶しないで欲しい、とも思うし…。
でも、総合格闘家としては、暗黙のうちに引退っていうことかと思っていたので、まだ現役だった、とわかっただけで嬉しいのである。だから、当日の試合はキャンセルしてもらってもいいような気もする。
ところで、小生はUFCも何度か観戦したことがあるのだが、日本の格闘技イベントと同じような熱を感じられなかった。
これはなぜなのか。小生はアメリカ人ではないので、彼の地の熱狂を、我が事として体感できないからだろうか。
それもあるのかもしれないが、多分、UFCは、すごくスポーツライクに運営されているからではないかと思う。UFCで、例えば、田延彦VS田村潔司のような、ドラマチックな試合が組まれることは、ほぼありえないだろう。
田や桜庭、田村らは、PRIDE以前に、「UWF」に所属していた。そこでは、皆同門として、同じ場所で練習し、一緒に食事をし、ともに語らい、力を合わせて団体を盛り上げる、という空気を共有していた。彼らは、起居を共にすることで、濃密な人間関係を築いていたのだ。
つまり、この「同じ釜の飯を食う」という体験こそが、ドラマの源となっていたわけで、だとすると、桜庭らU系ファイター(って言ったらいいの?)が一線から退いてしまえば、日本の総合格闘技界も、極めてスポーツライクなものになってしまうのではないか、という気がする。今の若い格闘家は、生活の基盤は別個に持っており、ジムや道場で汗を流す時間くらいしか、他の格闘家と絡むことはないのだから。もしそうなってしまえば、地上波放送の有無に関わらず、小生は総合格闘技への関心を失ってしまうかもしれない。
さて、ドラマといえばヒョードルである。
小生は、無敗を誇っていた時期のヒョードルに、一切のドラマ性を感じなかった。余りにも強すぎたからだ。
ドラマを身にまとっていたのは、ヒョードルに挑んだ対戦相手の方で、ヒョードル自身は、挑戦する対象にしか見えなかった。
そのヒョードルが、ビッグフット(アントニオ・シウバ)に敗れた時、某格闘技雑誌で、「相撲の横綱と一緒で、もう引退するしかない」と語っていた人がいたけど、小生は、「いや、むしろこれからのヒョードルこそ見てみたい。ヒョードルのドラマは、ここから始まる」と思った。
で、ヒョードルは結局その後もしばらくは現役を続けたわけだけど、そこにドラマを感じたかと言えば……そんなでもないわけで。どうも彼のキャラクターに因るところが大きかったようだ。いや、そうではなくて、日本の格闘技イベントに出てもらって、そこでストーリーを描いてもらわねばならないのかもしれない。
だから、今回の現役復帰に期待したい。ヒョードルの物語は、まだまだここからでしょう。
ひとつ不安に思うのが、自分にかつての格闘技熱が残っているのか、ということ。「RIZIN」を観戦し、その感想をまたブログで書こうかと思っているのだが、ひょっとしたら、書けないかもしれない。
感想が出てくるほどの熱が生まれないかもしれないし、イベント自体がドッチラケに終わるかもしれない。
その時は感想文の掲載は見送らせて頂きますので、悪しからずご了承ください。
それでは、また。

芸術するは我にあり

2015-12-14 19:48:37 | 雑文
中学の時の美術教師が、どういう話の流れであったか、
「山下清なんか芸術家じゃない」
と言っていたのをよく覚えている。
なぜ覚えているのか。後にして思えば、違和感を感じていたからだ。
現代芸術はとみに、同じように槍玉に挙げられがちだ。例えば、日用品や消耗品を何百、何千と繋ぎ合わせた作品が、「芸術じゃなくてただのパフォーマンスだ」と評されたりする。
今、「現代芸術はとみに」と書いたが、そもそも芸術は、必ずしも美を追求するものではなく、社会を批判したり、攪乱する目的で表されることもある。だから、これまでにない形式を用いようとした時、既存の体制から反発が起こるのは当然のことなのかもしれない。
ともあれ、今言わんとしているのはそういうことではない。
「こんなものは芸術じゃない」という物言いに関してだ。
この手の発言をする人に対して、小生は、
「何が芸術で、何が芸術でないか、自分ひとりの価値基準で断定するなんて、おこがましいとは思わないのですか?」
と問いたい。
意見の多様性は認められるべき、というのはもちろんあるのだが、それは芸術作品をどう評するか、のレベルの問題であって、その手前の、「芸術/非芸術」の分類まで恣意的に決めていい、とは言えない。
なぜひとりの人間に、「芸術/非芸術」を分類する権利があるのか。自分に特権的な審美眼が備わっていると考えるのは、思い上がり以外の何者でもないのではないか。
一個人に許されるのは、「好きか嫌いか」という、好悪のレベルで作品を評することくらいだろう。
ナチスドイツは、政権を掌握しているさなかに、自分達の美的感覚にそぐわない芸術作品に対して、「頽廃芸術」というレッテルを貼り、破棄したり、晒しものにしたりした。
「こんなのは芸術じゃない」という言明は、それと五十歩百歩ではないのか。
小生は、これと似た感覚を、10代の半ばに、村上龍の『69 sixty nine』を読んだ時に味わった。
同作は、村上の高校時代の実体験を基にした青春ラブコメ小説で、たいへん笑える作品になっており、小生も笑いながら読んだ。しかし、笑いながら、微かな苦みというか、不快感を感じていた。それが何に由来するのか、最初はわからなかった。なんとなく「大胆で、行動力も度胸もあるこの主人公は、小心な自分とは全然違う。だから、感情移入することができず、また、羨望を覚えてしまうので、それが不快感の源となっているのではないか」と思っていた。
事実に気付いたのは、読後しばらくしてからのことだ。
村上は、自身で作品を解説したあとがきの中で、こう書いている。


この小説に登場するのはほとんど実在の人物ばかりだが、当時楽しんで生きていた人のことは良く、楽しんで生きていなかった人(教師や刑事やその他の大人達、そして従順でダメな生徒達)のことは徹底的に悪く書いた。
楽しんで生きないのは、罪なことだ。
(村上龍『69 sixty nine』文春文庫)


楽しんで生きるとは、どういうことだろうか。
人はそれぞれ、好みも趣味も違う。旅行が好きな人、読書が好きな人、スポーツが好きな人、それぞれだ。SMのような、苦痛をもたらす行為に、喜びを見出す人もいる。
何を楽しいと感じるか、何を以て喜びとするか、それは、人それぞれ違う。価値観の相違、というやつだ。
どうやって人生を楽しむかは、価値観による。
しかし村上は、自分の価値観を唯一の尺度とし、「こいつは楽しんでる、こいつは楽しんでない」と分類していたのだ。小生は、そこに不快感を感じていたのである。(この他にも村上の小説はいくつか読んだが、どうも彼の哲学は肌に合わない)

ところで、自分で書いておいてこう言うのもなんだけど、ナチスを引き合いに出す、というやり方は、できるだけ慎むべきだと思う。
「まるでナチスだ」という言い方は、相手を非難する言葉として、強い力を持つ。言われたほうは、「あのナチスと同類」扱いになり、第三者から白い目で見られる恐れがある。そうなると、自分の正しさを証明するために議論をするのではなく、「ナチスとは違う」ことをまず立証せねばならなくなり、立場がすごく不利になる。ナチスには、優生思想、ユダヤ人虐殺、周辺諸国への侵略等、多くの負のイメージがつきまとっている。ナチス呼ばわりされた人は、それらのイメージに引き付けられ、暴力を振るったわけでもなく、ましてや他人を殺めたわけでもないのに、「大量虐殺者」であるかのように思い込まされてしまう。
だから、軽々しく「ナチスのようだ」などと言うべきではない。いや、ホントに自分でやっておいてなんだけれども。
話を戻す。
何が芸術で、何が芸術でないかを、一個人が決してはならない、という考えが正しいとして、では、芸術と非芸術の区別をどうつけたらいいのか、という、長年論争の種になってきた問題は残るだろう。
これをどう解決すればいいか。
小生の意見を言えば、「一人でも『これは芸術だ』と主張する人がいれば、それは芸術として認められる」ことにしていいと思う。
このように述べれば、「お前だって自分ひとりで芸術の分別を行っているじゃないか」と論難されそうだが、小生の基準は、「〇〇は芸術じゃない」という、減算法による決め方ではなく、「〇〇は芸術だ」という加算法よるものなので、まあ認めてもらっていいんじゃなかろうか。
それに、あくまでひとつの見解として紹介しているだけであって、この見立てが唯一の真理だと決めつけているわけではない。
では、なぜ一人でも芸術と言えば芸術だと考えるのか。
それは、世の中には芸術よりも価値のあるものがたくさんあり、芸術は、相対的にはさほど希少だとは思わないからである。
我々は、億単位の値が付けられた絵画を前にすると、畏れおののいてしまう。しかし、仮に雪山で遭難して、暖をとるための手段が、一億円の画布を燃やすしかない、という状況に追い込まれたとしたらどうか。ためらうことなく火を灯すだろう。
「人はパンのみにて生きるにあらず」
それは確かにそのとおり。
でも、パンがあってこその芸術だ。餓死してしまっては、芸術もへったくれもない。
芸術よりも、命のほうが大事。芸術よりも大切なものは、いくらでもある。基本的に芸術は、生活の余剰物。
その程度のものだから、敷居は低くていいと思う。
だから、道端に転がっているゴミに心を打たれることがあれば、それは芸術で、幼稚園児のわが子の落書きを「傑作だ」と評すれば、それもやはり芸術なのだと思う。
同じように感興を震わせてくれる人が多いか少ないか、の違いは当然あるだろう。その多寡こそが、作品の評価を決するのである。
ピカソの絵画は、何十億もの人が至高の芸術とみなし、幼稚園児のそれを褒め称えるのは両親だけ。でも、どちらも芸術であることは同じ。…ということでいいのではないかと思う。


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身体で話し、身体で聴く・後編

2015-12-08 19:39:03 | 雑文
(前編からの続き)

さて、ここで現代の若者である。
物心着いた頃からSNSの類(電子メール、フェイスブック、ツイッター)を使いこなしている彼らは、対面的な関わりが希薄とされている。正確に言えば、SNSのような、かつては存在しなかったコミュニケーションツールへの依存が肥大化しているので、相対的に、対面のコミュニケーションが減少して見える、ということだろう。(携帯電話がなかった時代には不可能だった「こまめに連絡を取り合いながら落ち合う」という行為が今は出来るわけで、とするとむしろ、直接的なコミュニケーションの時間もまた、昔より増えているのではないか)
「現実と虚構の区別がつかなくなる」などといった、最もらしいけどなんか嘘臭い批判を受けがちな彼らであるが、むしろ気にかけるべきは、SNSがコミュニケーションのメインとなることで、非言語コミュニケーションの重要性、必要性を感じなくなっていく、という点にあるのではないか。
「ありがとう」という言葉。この言葉のメッセージは「謝意」である。
しかし、謝意を一切込めずに、この言葉を発することもできる。
嫌味ったらしい口調で、相手を睨みつけながら言う「ありがとう」。これは、「お前には感謝なんかしていない」という意味で、メッセージではなく、メタ・メッセージに属する。メタ・メッセージは、非言語コミュニケーションの一種で、先述の「言語コミュニケーションに伴う非言語コミュニケーション」である。「ありがとう」というメッセージに、「嫌味な口調」と「睨み」というメタ・メッセージを付随させることで、「感謝していない」という意味になるのである。(竹中直人の「笑いながら怒る人」は、メッセージとメタ・メッセージを意図的にズラすことで笑いに変えたものである)
人は、多かれ少なかれメッセージを発する時に、メタ・メッセージも込めて話している。対面のコミュニケーションをこなしていれば、自然とメタ・メッセージを読み取る能力は身に付く。
しかし、文字のメッセージ、SNS上の「ありがとう」には、メタ・メッセージを込めようがない。それは純粋なメッセージである。
もし、「純粋なメッセージ」ばかりでコミュニケーションを行い、対面でのコミュニケーションを重ねることをしなければ、メタ・メッセージを読み取る能力は開発されないだろう。言葉の裏に隠された、相手の本心を見抜くことができなくなる。
とはいえ、いくらSNSを多用している現代の若者であっても、対面のコミュニケーションを一切行わない、というわけではないので、メタ・メッセージを全く読み取れなくなる、ということはまずないだろう。
しかし、SNSにコミュニケーションの比重を置いているのであれば、「メタ・メッセージを全く読み取れない」とまではいかないにしても、「どちらかと言えば読み取るのが苦手」とか、「相手によっては全く読み取れない」という者が増えていく恐れはあると思う。
憂慮すべきは、そこではないだろうか。

個人的な話をすると、小生は、町中を歩いている時や、自転車を漕いでいる時に、すれ違う女性の顔を見る。別に、タイプがいたらナンパをするとか、そういうことではない。ただ、可愛い子や美女がいたら見ておきたいので、一応チェックを入れるのである。
で、その際に、女性の方もこちらを見てくることがあり、目が合う。自分で言うのもなんだが、小生は世にも稀なる男前なので、すれ違う女性が、「あ、カッコイイ」というという眼付きで見ていることが、結構な割合である。
この、相手の女性がこちらを「カッコイイ」と思っている、というのは、目が合った、ほんの一瞬でわかるのである。
コミュニケーションには、言語だけでなく、非言語コミュニケーションもある、ということ。非言語コミュニケーションを読み取るのもまた大切である、ということ。人は、メッセージよりも、メタ・メッセージでより多くを語りうる、ということ。
そのような自覚があれば、一瞬の表情から、相手の気持ちを読み取ることができるのだ。
ちなみに、「チラ見浮気」というのをご存知だろうか。
今は言葉の流行り廃りが早いので、もう使っている人はいないのかもしれないが、デート中に、彼氏が、彼女以外の女の子をチラリと見る行為のことで、それだけでも「浮気」と解釈する女性がいるらしい。
だが、このチラ見浮気、女性もするのである。
町ゆくカップルの、彼女の方と目が合う時、「あ、カッコイイ」という眼付きでこちらを見ていることが、ままあるのだ。
男は基本的に鈍感なので、その場合、彼氏はほとんど気付いていない。小生はしてやったりで、彼氏さんに対して、「あなたの彼女、今一瞬浮気しましたよ」と心の中でつぶやく。
だいぶ話がズレてしまったような気もするが、ともかく、言葉がなくても多くの情報を読み取ることはできる、ということだ。
SNSでのコミュニケーションが誕生する以前は、それは改めて言うまでもないことであった。だが、SNSが常識化し、対面でのコミュニケーションの割合が減少が進むと、そのことをいちいち教えねばならなくなるのかもしれない。

(追記・12月23日の『変転するコミュニケーション』も併せて読まれたし)


オススメ関連本・加藤典洋『言語表現法講義』岩波書店

身体で話し、身体で聴く・前編

2015-12-07 20:07:04 | 雑文
これまでの人生を振り返り、苦手としてきた人達を思い浮かべると……。
彼らには、人の目を見て話さない、という共通点があったことに気づく。その手の人々とは、話していても、なんだか肩透かしを食らっているような気分になるのだ。逆に、ちゃんと目を見る人であれば、腹が立つことをしょっちゅう言われたとしても、嫌いにはならない。
これは、コミュニケーションに関する考え方の相違に原因があるのではないか、と思う。
コミュニケーションは、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションからなる。
言語コミュニケーションはもちろん言葉のことであり、非言語コミュニケーションは、表情や仕草など、言葉以外の手段によって交わされるコミュニケーションのことである。この非言語コミュニケーションには、相手との距離のとり方、スキンシップ、服装、髪型、所有物、体臭、さらには言語コミュニケーションに伴う口調、はては沈黙まで、様々なものが含まれる。
一般的に、コミュニケーションと言われて思い浮かべるのは、言語コミュニケーションの方で、非言語コミュニケーションの方は、そもそもコミュニケーションの一形態としては捉えられていないか、さもなくば、言語コミュニケーションを補うためのもの、という位置づけで考えられているのではないだろうか。
だが、一説によれば、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの割合は、7対93であるらしい(小生自身もホンマかいな、と思うのだが、これはヘルパー2級を取得した時に教わった話)。つまり我々は、大半のコミュニケーションを、言葉以外の手段で取り交わしているのである。
ちなみに、発話に伴う、声の高さ・速さ・調子などの、言語コミュニケーションに付随する非言語コミュニケーションの割合は、93%中の38%であるらしい。つまり、発話によらない非言語コミュニケーション――身体言語という――は、55%なのである。
目を見て話さない人は、コミュニケーションを、言語のみによるもので、非言語はそれには含まれないと考えているか、もしくは非言語コミュニケーションの存在自体を知らないのではないだろうか。
今の若い人にはほとんどいないのかもしれないが、電話で話すのが苦手、というタイプの人がいる。上手く話す事ができなくて、どうしても電話をかけねばならない時は、必要最小限の用事だけを伝えて、すぐ切ろうとする、という人が。小生も、どちらかというとこのタイプなのだが、これは、電話だとコミュニケーションの約半分が使えなくなることが理由として大きいだろう。対面であれば、言語と非言語、両方合わせてコミュニケーションを取ることが出来るわけだが、それが普通のコミュニケーションのあり方だと――おそらくは、意識することなく――思っている人にとっては、非言語コミュニケーション(のうちの身体言語)の使用を封じられる電話という形式は、非常にやりづらく感じるのだろう。
とすると、人の目を見て話さない人は、電話がほとんど苦にならないか、むしろそちらの方が、意思のやり取りがしやすいと感じているのではないだろうか。

だいぶ前に、福岡の繁華街の天神を歩いていた時、やたらと大きな音を発している一角があり、何かと思って近寄ってみると、歩道上に、大きな拡声器が置かれていた。そこから、おそらくは市議会議員あたりの、テープに吹き込んだ演説が流れていた。拡声器のすぐ横には、その政治家のポスターが、立て看板式に据え付けられており、少し離れた所には、見張りのおじさんが立っていた。
要するに、効率よく自分の政治的主張を知ってもらうために考えだした方法だったのだろうが、足を止めて聴きいっている人は一人もいなかった。小生も、何か不快なものを感じて、その場を離れた。
これは、「楽して主張を拡めたい」という、安易な気持ちが透けて見えるから、道行く人々の反発を買い、結局誰にも聴いてもらえない、ということでもあるだろう〈むしろ嫌悪感を掻き立てることで、逆効果になっていたかもしれない)。
だが、それだけでなく、非言語コミュニケーション(のうちの身体言語)が伴っていない、というのもひとつの原因であると思う。
これはもちろん、身体言語を伴わないメッセージは、誰にも聴いてもらえない、ということではない(もしそうなら、電話やラジオは成立しない)。そうではなくて、政治に関するメッセージは、身体性が伴っていなくてはならない、ということである。
政治というのは、生活を左右するものである。代表者たる政治家がどう振舞うかが、有権者の暮らしに関わってくる。それは、言うなれば「生身に関する問題」なわけで、であれば、「政治家自身の生身」もまた問われなければならないだろう。
どのような表情で、どのような身振りで話すか。どんな髪型や服装をしているか。あるいは、演説中に露見する、些細なクセのような行為まで含めて吟味されるだろう。
拡声器のテープからは、そのような情報は一切読み取ることはできない。
また、本人がその場にいれば質問することもできるが、テープだと一方通行だ。
そんな身体性の欠如が、誰にも聴いてもらえない原因だったのではないだろうか。
結果的に、その拡声器は、ただでさえ騒々しい街中を、さらにやかましくしていただけであった。

(後編に続く)


オススメ関連本・蓮實重彦『反‐日本語論』ちくま学芸文庫