『アンドリューNDR114』は1999年に公開されたアメリカ映画である。原題は“Bicentennial Man”で、直訳すれば「200年目の男」である。話しはこうである。
製品番号NDR114のアンドロイド(人造人間)が、二人の娘をもつ夫婦に買われてやってきた。「アンドリュー」は次女のアマンダがつけた名前である。このNDR114は欠陥製品で心をもっており、次女のアマンダを愛してしまう。アンドリューは人間になろうと、どんどんと自分を改造し、ついに、200年目に、アマンダにそっくりの孫娘ポーシャが年老いて死ぬとき、自分も一緒に死ぬことを選ぶという物語である。
アンドリューは工場でつくられた機械である。欠陥製品だからユニークなのだ。個性をもつのだ。そして、その機械が「愛」のため人間になろうという意志をもつのである。工場製品が解放される過程は、古代ローマ時代の奴隷が解放されるのを模している。
アマンダの父親がアンドリューを気に入り、教育するのである。そして、アンドリューが作る精巧な木工細工を売り、そのお金をアンドリュー名義の銀行口座にたくわえさせた。教育を受けたアンドリューは、人類が求め続けた「自由」にあこがれ、自分自身を買い取りたい、と老いて死にゆく父親に申し出る。この申し出に父親は驚き、「出たければ勝手に出て行くがいい、おまえは自由だ」と言い、お金を受けとることを拒否する。
自由になったアンドリューは世界をさまよい、人造人間研究者と親しくなり、人工臓器の研究をたすけ、人工臓器のビジネスでふたりはお金持ちになる。アンドリューは体をどんどん人工臓器に置き換え、外見は人間に近づく。そのあいだに、アマンダも年老いて死に、その娘も死ぬ。
ところで、そのままだと孫娘ポーシャが死ぬときに200年目にならないので、物語の作者は、人類が老化を抑える薬を発明したとして、帳尻を合わす。
それで、孫娘ポーシャが薬を飲むことをやめ、みずから年老いて死ぬという展開になった。
ポーシャが死を迎える、その時に、アンドリューも人工血を輸血することで、老いてしわくちゃになったポーシャと手をつないで、いっしょに死ぬ。世界法廷は、アンドリューを人間として認め、ポーシャとの結婚が承認される。
機械が愛することができるか、この問題について、映画は肯定している。ただ、「欠陥製品」だから、そうできたとしている。(しかも、機械が機械を愛するのではなく、機械と人間が愛し合うことができたとしている。)
人間は確かに記憶で動く機械の1つである。最初は、遺伝子にコードされているままに、脳がつくられていく。そして、しだいに、遺伝子にコードされたプログラムから解放され、教育を含む自分の体験から自分の意志を形成していく。「自由」への憧れをもつのも、その1つだ。
しかし、私は、機械が人間を愛せるとは思わない。また、機械が機械を愛せるとは思わない。生き物は、増殖する。長い地球の歴史のなかで、生き物は有性生殖をするようになった。そして、さらに、子育てをする動物があらわれた。
社会に「愛」があるのは、男と女がいて性交をし、子どもが生まれてふたりで育てるからである。人びとが性交をしなくなったり、子育てをしなくなったら、「愛」が失せるのではないか、と私は思っている。
きょうの朝日新聞の読書欄で、長谷川眞理子が『2050年 世界人口大減少』(文芸春秋)を紹介していた。女性の地位が上昇すれば、子どもの数を減るという趣旨のことを書いてあるらしい。
男と女が性交をせず、子育てをしなくなったとき、社会から「愛」が失せる。そのとき、ヒトが 互いに助けあうことができるとは、生きていくことに肯定的な意味をもてるとは、思わない。私は、女性が男性と対等となっても、「愛」はもてるし、より充実した「愛」がもてると信じている。「愛」をもつべきだと信じている。