日曜日も、散歩のあと、アーリー R.ホックシールドの『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(岩波書店)を読む。まだ、第2部である。じっと耐えて列を作っているのに横から割り込んでくるという話しは第3部で、まだ、そこまではいっていない。
第2部では、進出してくる大企業がルイジアナ州の住民に話す大きな夢と、すさまじい環境破壊の現実とが、描かれる。
ルイジアナ南部では岩塩がとれる。幅およそ4.8キロメートル、深さおよそ1.6キロメートルの岩塩層があり、堅い頁岩層で挟まれている。岩塩の採掘で、さまざまな大小の空洞ができ、そこに、また、企業が石油やさまざまな有毒な化学物質を貯蔵している。
問題は、掘削ドリルが間違って空洞の壁を破ってしまい、地盤が崩れ、木々や茂みを中に引きずり込み、油や有毒物質が吹き出たのだ。
これは、日本でも、栃木県あたりで、石材の採掘でできた空洞に住宅が落ち込むことが起きている。採掘のあとの空洞が埋めなおされないからだ。
ルイジアナ南部の場合、貯蔵庫として使われているから、油とともに有毒物質が地上に噴出してくる。また、いったん空洞が壊れだすと、それが周囲の空洞に広がっていく。
人々は、このような人為的な災害に企業の責任を追及しないで、わずかな和解金であきらめていく。いろいろな規制を行う連邦政府を「自由」の抑圧と非難するが、公害を引き起こす企業をすごく憎んでいるにもかかわらず、その企業への非難は腰砕けになる。そして、そのような企業を誘致する州知事や市長に選挙では投票する。
公害企業の仕事にありつくために、どうして、自給自足の豊かな生活を捨て、自分たちの健康をむしばむ状況に身を置くのか、と私は思ってしまう。
著者は、第1部で出てきた「構造的健忘症(structual amnesia)」と「終末信仰」を第2部でも再び取り上げて、この問題をそれで解釈しようとする。
「構造的健忘症」とは、単なる健忘症ではなく、社会で優勢な価値観に合わない出来事を選択的に忘れていくことをいう。
「終末信仰」は、ヨーロッパでキリスト教が土着化することによって発展した信仰であり、聖書に書かれているわけではないが、聖書にそう書かれていると貧しい人々が信じて、耐えがたきを耐えている。
〈黙示録の言葉を引用し、「大地がすさまじい熱に焼かれるんですよ」と説明する。火には浄化する力がある。だから千年後に、地球は浄化される。それまではサタンが暴れまわるのだそうだ。エデンの園には、「環境を傷つけるものは何もありません。神がご自分の手で修復なさるまでは、神が最初に創造なさったとおりのバイユーを見ることはできないでしょう。でもその日はもうすぐやってきます。だから人がどんなに破壊しようとかまわないんですよ。」〉
ルイジアナ州の住民は、誇り高き、しかし、見捨てられていく弱き人々である。
「構造的健忘症」にしろ「終末信仰」にしろ、合理的な目をすて、強いものと対決せず、耐えがたきをたえるという人々の思考に、どうやって、著者は共感を寄せていくのか、著者と赤い州の住民の壁はますます高くなっていくように思える。