きのう、深夜にもかかわらず、映画『ギルバート・グレイプ』をテレビで見てしまった。ジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオがでてくるので見てしまったが、家族のために自分を犠牲する男の物語である。原題は“What's Eating Gilbert Grape”の1993年のアメリカ映画である。
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映画は、一団のトレーラーが田舎町を通過するとき、若い女ベッキーがのる1台のトレーラーに故障がおき、田舎町のギルバート(ジョニー・デップ)とアニー(レオナルド・ディカプリオ)と出逢う。そして、しだいにギルバートをつつむ状況が明るみになる。
ギルバートの弟、アニーは頭がちょっとオカシイのである。人の言うことに従わない。奇声を発する。風呂に入らない。誰かが見ていないと何をするかわからない。ギルバートは、そのアニーをつれて、古ぼけた食料雑貨店で働いている。
ギルバートの父親は、首つり自殺で、7年前にいなくなっている。父親は表情のない男だったという。
ギルバードの母親は、自分を見失って、ひたすら食べ、あまりにも太って動けなくなっている。田舎町の笑いものになってる。
ギルバートの兄は家を出ていったまま帰ってこない。ギルバートの姉は職を失って、家に引きこもっている。
ギルバートは、母、姉、弟、妹が食べるために、働いている。それだけでなく、弟を見守らなければいけない。いわばヤングケアラーだ。
アニーの18歳の誕生日パーティの前日、ギルバートが19ドルで買ったケーキをアニーがひとりで食べてしまい、今まで ためていた怒りが爆発する。ギルバートはアニーを殴って、家を飛び出す。
そんなギルバートは、ベッキーにどんな願いがあると聞かれ、家族のために尽くす いい人になりたいと言う。ギルバートは、はじめて家に帰らず、ベッキーと一晩を過ごす。
アニーの誕生日パーティは町のみんなが集まって無事に終わる。
ギルバートはベッキーを初めて母親に紹介する。
その晩、母親はテレビのある居間から2階の寝室にあがる。運動するために階段を上がったのかと、私は思ったが、そのまま死んでしまう。
死んだと知って、ギルバートは感情を爆発させ、2階が抜けないように入れた柱を殴り倒す。医師や警官が来て母親の死を確認し、どうやって母親を外に運び出そうか、と言って去る。
母親に死なれた兄弟姉妹は、母親ごと家を焼く。炎がすべてを焼き尽くす。
母親ごと家を焼くことを、みんなが家族の絆から解放されたことの象徴かと、私は思ったら、ギルバートはアニーを捨てられず、1年後のトレーラーの列にベッキーをみつけ、弟とともに、放浪の群れに加わって映画は終わる。
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ギルバートは、田舎町を捨て、他の家族を捨てたが、弟を捨てなかった。家族の犠牲になっていたギルバートは、ベッキーの存在ゆえに、弟のために生きることを選択するという物語である。
私の記憶では、2000年には、すでに、トレーラーに住むことは、ホームレスの一歩手前の貧困を意味していた。
映画では、宇宙人の軍団かのように、光輝く金属のボディーのトレーラーの列を写していたが、トレーラーで放浪することは、家族の犠牲になることの解決にならない。私は、このトレーラーの住人がどうやって生活費を稼ぐのか気になった。
橘玲は、ネット上の『アメリカの知られざる下級国民「ワーキャンパー」の増加が意味するものとは?』で、トレーラーに住み、放浪することが、いかに悲惨かを書いている。彼によれば、放浪する彼らはじっさいには季節労働者になり、最下層の労働者として生きる。たとえば、アマゾンへの発注が集中するクリスマスシーズンに、彼らはアマゾンの倉庫で働くのである。
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