17世紀のイギリスの法哲学者トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を、豊永郁子の新聞での評論に刺激されて、70歳を過ぎてから、読んだ。
原文は英語で、現在の英語と少し異なるが、インターネットで無料ダウンロードでき、日本語の翻訳があれば、中学終了レベルの英語力で読める。
ホッブズは、『リヴァイアサン(怪物)』で、人間の特性の考察から始め、国というものを論じている。言葉を1つ1つ定義してから議論を進めるから、政治哲学の予備知識は不要である。
ホッブズは国をCOMMON-WEALTHと呼び、ラテン語のCIVITASの訳としている。永井道雄らの訳では、これを「コモンウェルス」と音訳している。
ホッブズは、コモンウェルスを人間が集まって1つの意志をもつことと考え、これは不自然なことであるから、「人工の人間」(an Artificiall Man)と呼んでいる。
豊永が指摘するように、ホッブズは、人間は能力的に平等であると考えた。ホッブズはつぎのように書く。
「《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。…。たとえば肉体的な強さについていえば、もっとも弱い者でもひそかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強いものをも倒すだけの強さを持っている。」
ホッブズは、このことから、人間は自然な状態では戦争がおきる。だから、安定した秩序を人々が求めるとき、コモンウェルスが生まれると考える。そして、コモンウェルスは「怪物」なのである。
ホッブズがコモンウェルス同士の戦争をどう考えていたか、想像するに、戦争を繰り返し、合併の規模が次第に大きくなり、対立するコモンウェルスの数が減ると単純に考えたのであろう。
ホッブズは、主権者はだれかによって、コモンウェルスにはつぎの3種類しかないとする。
「代表者がひとりのとき、そのコモンウェルスは《君主政》(a MONARCHY)、また集まる意思のあるすべての者の合議体の場合は《民主政》(a DEMOCRACY)あるいは人民の(Popular)コモンウェルス、そして一部の者の合議体のときは《貴族政》(an ARISTOCRACY)と呼ばれる。」
そして、つぎのように指摘する。
「《君主政》のもとにあってそれに不満なものは、これを「専制政治」(Tyranny)と呼び、《貴族政》を嫌う人々は、これを「寡頭政治」(Oligarchy)と呼んだ。同様に、《民主政》のもとで苦しんでいる人々は、これを「無政府」(Anarchy)〔統治の欠如の意〕と呼ぶ。しかしこの統治の欠如を、何か新しい種類の政治形態と信ずるものはあるまい。」
日本では、monarchyを「君主政」と訳するが、語源のギリシア語にさかのぼれば、ただ一人(mono)が上に立つ(archy)という意味で、「独裁政」と訳すのが適切である。
日本の戦前の体制は、天皇の独裁政かそれとも貴族政か意見が分かれるところであろう。大日本帝国憲法では、陸軍・海軍が天皇に属するから、形式的には「独裁政」である。
ところが、実質的には天皇は操り人形とする人々がいる。安倍晋三もその一人である。すると、実権をにぎっている人が複数であれば、「貴族政」となる。明治維新をおこなった集団が実権を握って、日本の近代化を進めたのならば、実情に合わない憲法をもったことが、その後の国策の誤りを招く要因だろう。明文化された憲法が嘘となれば、だれも政治に責任をとらなくなる。
昭和天皇が敗戦の前の日本の状況を「下剋上」と捉えていたことは、昭和天皇は「独裁政」と大日本帝国憲法を理解していたことになる。そして、負けたことを死ぬまで悔しがっていたのだ。
ホッブズが「民主政」と「無政府」と区別していなかったことに私は賛成である。民主政とは、誰も上に立たない(an+archy)を言うのだ。だからこそ、私は民主政を支持する。政府が民衆を統治するのではなく、政府は民衆へのサービス機関であるべきである。
安倍晋三が「総理大臣だから偉い」と考える人は、「独裁政」支持者である。また、内閣が日本を統治していると考える人は、「貴族政」支持者である。
「自由」と「民主主義」をかかげることは、だれかがだれかを支配し、したいことを邪魔することではなく、すべての人が平等で、共存しようとすることである。
たくさんの人々が集まって1つの意志をもつ、ということは不自然で、その不自然さが、国と国の戦争を生む。国に多様な意見があるのが自然なのである。自民党の中に安倍晋三を批判する勢力がないということは、「自由民主党」の看板に偽りありで、怒るべきことなのだ。
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