猫じじいのブログ

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育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その4 宗教と法

2020-07-23 12:46:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する

育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』は隅々におかしなことが書かれているので、検討がなかなか進まない。今回、第1章の第2節と第3節を大急ぎで検討しよう。

  ☆   ☆   ☆
第2節は、伝統のなかでも宗教を扱っている。24ページ目に、つぎのようにある。

〈日本人の多くは、子どもが生まれると無事に成長するよう願って神社にお宮参りをし、人がなくなると宗教的行事として葬式を行うなど、人生の節目で、神道と仏教と深い関わりをもった儀礼を行います。〉
〈また、12月24,25日にクリスマスを祝い、数日後の元日に神社や寺院に初もうでに行くといった、宗教的行事への寛容性や多様性が見られます。〉

これは、宗教的伝統と言えるのか。戦後、宗教に対しての信頼が壊れたということではないか。起きていることは、宗教的行事が商業上の利益追求(コマーシャリズム)に利用されているだけでないか。

150年前の明治政府の「神仏分離令」で仏教界が大打撃をうけた。これは、明治政府を支える基盤に儒学者と神道家がいて、仏教の排除を図ったからである。100年前の大正時代になると、仏教の復興時代に入り、親鸞の弟子の唯円が記した『歎異抄』が再発見され、鎌倉仏教全体が再評価された。これもグローバル化の良い結果である。当時、キリスト教のクリスマスに対抗して、お寺では、釈迦の誕生を祝う花祭りが4月8日に行われた。

日本人がふたたび宗教から離れるのは、80年前の戦争の時代である。平和を願うのが宗教なら、信仰をもつ者は、天皇が始めた戦争に反対しなければならない。ところが、既成宗教団体は反対しなかった。危険を冒して反対したのは、一部の信者であった。

同じ問題は、ドイツでも起きている。一部のプロテスタントの聖職者は身を挺してヒトラーに反抗し、捕らえられて収容所で殺された。ところが、プロテスタントの教会の主流派はナチスにしたがったため、戦後、信者たちは教会に戻らなかった。(ドイツでは、教会の聖職者の給料が州政府からでていたという特殊事情があるので、いちがいには責められないが。)

宗教が、商業的行事や慣習上の儀礼としてしか意味をもたなければ、それは宗教の敗北である。もしかしたら、「宗教的行事への寛容性や多様性が見られます」という賛美は、靖国神社への閣僚や議員の参拝の正当化を図ったものではないか。

第2節ではそれ以外にも変な記述がある。26ページ目に

〈これらは、神社の祭礼や民俗信仰、年中行事だけでなく、皇室の文化や祭祀(神仏や祖先をまつること)の大きな特色でもありました。〉

とある。「皇室の文化や祭祀」を、「神社の祭礼や民俗信仰、年中行事」と同列視している。明治政府が「天皇の神格化」を図って、西洋諸国から批判を浴びたとき、これは、「儀礼」であって「宗教」でないと弁明した。明治以前に、天皇が「生き神様」であったことはない。

政府は、一貫して宗教を統治の手段として利用し、邪魔な信仰人を弾圧してきたのである。

また、30ページ目の

〈しかし、あまり便利な機械化社会では、例えば家事をするとき、冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機など、機械に頼らなければ生活できない状況も生みだしました。〉

も意味不明である。家事労働の負担を軽くするために「冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機など」を使って、どこが悪いのか。
こんなバカな教科書著者に

〈科学では解明できないことがたくさんあることを理解し、生命や自然に対して畏敬の念をもつことも必要です。〉(31ページ目)

と言われたくない。科学で解明できても、生命や自然に畏敬の念をもっていいのだ。

  ☆   ☆   ☆
第3節は、「法」の順守を訴えるために書かれている。38ページ目に「対立が生じて、まとまらないこともあるでしょう」につづいて、

〈みんなが納得できるように、解決策を話し合い、何らかの決定を行い、合意する努力をしていかなければなりません。〉

とある。この文章は どこか おかしくありませんか。プロセスとしては、「解決策を話し合い、合意し、決定を行う努力」が普通である。無意識からか、「何らかの決定を行い」が合意に先立つ。

つぎの段落を読むと著者のねらいがはっきりする。

〈合意する努力がされるとき、必要な考え方に効率と公正があります。効率は無駄を省くという考え方です。公正は不利益をこうむっている人をなくそうとしたり、みんなが同じ条件になるようにしたりするなど、さまざまな意味合いがあります。〉

「効率」という語がでてくるのは、早く「何らかの決定を行う」ことがだいじだ、みんなの文句を聞くことが無駄だという「上から目線」で書かれている。

また、「公正」という言葉もおかしい。「公正な裁判」「公正な処置」という用法が示すように、上位の者が、当事者のそれぞれの言い分を聞いて公平に判断することをいう。

「効率と公正」は権力者の言い分である。

40ページ目に「法」の役割をつぎのように書く。

〈私たちが社会生活を営むなかで、ときには意見や利害の関係から、対立が起きることがあります。そのトラブルを解決し、合意にいたった場合に大切なことは、二度と同じことが起こらないようにすることです。そのためには、個人個人の習慣や考え方を変えるのもひとつの方法ですが、前もって集団社会のなかできまりをつくることも有効な手段です。〉
きまりは、私たちが巻き込まれる可能性があるトラブルや事故を防いでくれ、合意を形成するためにつくられています。〉

「きまり」は「きまる」の名詞形であって、「きめる」の名詞形ではない。「きまり」はすでにある「掟」であって、合意事項ではない。学校にいろいろな「きまり」があるが、生徒が合意して「きめた」ことではない。

「きまりが合意を形成する」というのも意味不明である。「きまっているから文句を言うな」という意味であろうか。

現在、学校にある「きまり」の多くは、1970年の学園闘争を抑え込むために、学校運営者が導入したものである。

41ページ目に、著者はつぎのように脅す。

〈しかしそのために、私たちには、きまりを守る義務があるということも忘れてはなりません。〉
〈もしそれを破った場合には、責任を問われることになります。〉
〈現代にいろいろなトラブルが起こる背景には、義務を忘れ権利だけを主張する風潮があるからだといわれています。〉

まったく、支配者の身勝手な言い分だけを書いている。こんな「公民」の教科書の中身を真に受けて、子どもたちが、役人や経営者になったら、トンデモナイ社会になってしまう。


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