きのうの私のブログの過ちに気づいた。イギリス映画『日の名残り』とカズオ・イシグロの小説『日の名残り』とがあまりにも違っていている。きのうから小説を読み始めたので、まだ、頭のなかは整理されていないが、本当にこれがイギリス映画なのか、観客に媚びた「ただのアメリカ映画」ではないかとまで思えてくる。映画としては興行的に成功しており評論家の受けもよい。しかし、原作の小説がもっていた物事の底深さを失っている。
カズオ・イシグロの小説を読むと、執事のミスター・スティーヴンスが昔の同僚ミス・ケントンに会いに行く自動車はフォードである。そのフォードの所有者はアメリカの金持ちファラディ様である。ファラディ様が、屋敷ダーリントン・ホールを執事ごと買い取ったのである。
映画では、その自動車はダイムラーである。その自動車は主人のものであるが、主人はルーイス様である。
フォードはイギリス人には豪華な外車に思えるかもしれないが、アメリカ人には普通のアメリカ車に思う。ミスター・スティーヴンスがミス・ケントンに会いにいく旅の途中、服装と車から田舎の人びとに大人物と誤解されるのだが、アメリカで映画がヒットするためにはフォードでは困る。
これは小さな変更だと思われるかもしれないが、主人がルーイス様かファラディ様は実は大きな違いである。両者はともにアメリカ人であるが、映画のルイス様は昔ダーリントン・ホールで開かれた国際会議でダーリントン卿を「政治のアマチュア」と非難したアメリカ人である。いっぽう、小説のファラディ様は、ミスター・スティーヴンスと初対面のアメリカ人であり、その国際会議とは無関係の設定となっている。
これも小さな変更と思われるかもしれないが、映画ではルーイス様は大戦後ダーリントン・ホールを買い取り、 勝利者としてミスター・スティーヴンスの前に登場する。アメリカ人の受けを狙っている。
小説では、「政治のアマチュア」と非難されたダーリントン卿は、つぎのようにルーイスに反論する。
「あなたが『アマチュアリズム』と軽蔑的に呼ばれたものを、ここにいる我々の大半はいまだに『名誉』と呼んで、尊んでおります」
「私にはあなたが『プロ』という言葉で何を意味しておられるのか、だいたいの見当はついております。それは虚偽や権謀術で自分の言い分を押し通す人のことではありませんか?世界に善や正義が行き渡るのを見たいという高尚な望みより、自分の貪欲や利権から物事の優先順位を決める人のことではありませんか?」
カズオ・イシグロはダーリントン卿を理想的イギリス紳士と描き、ルイス様をアメリカのプロ政治屋として描いている。ここに、彼の小説の重さがある。
さらに大きな違いは、ミスター・スティーヴンスの転換点となる出来事の、ダーリントン・ホールでの国際会議の開かれた年である。映画では1935年に設定されている。いっぽう、小説では1923年3月である。
1923年では、ナチスは小さな小さな地方政党で、その11月8日にヒトラーはミューヘンで一揆(ブッチ)を起こし、失敗して捕らえられている。したがって、1923年ではナチスがダーリントン・ホールの会議に潜入してダーリントン卿を操るというの無理である。しかし、映画の設定の1935年では、すでにナチスが政権をとっており、ヒトラーがドイツの独裁者になっている。この国際会議がナチスに操られているとなる。
したがって、小説と映画はタイトルが同じだが、中身がまったく違う。映画は、軽薄なアメリカ人に受け入れられるように、改変されているため、ミス・ケントンとあって取り返しのつかない自分の過去の過ちを理解したミスター・スティーヴンスが、なぜ、勝利したアメリカ人のもとに、執事として戻るのかが、説明のつかない不整合となっている。
小説では、ミスター・スティーヴンスが自分の過ちを認めるが、それはイギリス的価値観を否定するものとまで思わないから、余生を執事の仕事に捧げようと思うのである。イギリスで文学賞をもらえるプロットとなっている。
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