岩井克人は『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)の巻頭エッセイで、「恐慌」より「ハイパー・インフレーション」のほうが資本主義の危機であるという。たしかに、「恐慌」が物より貨幣を人間が好むことを意味し、「ハイパー・インフレーション」が貨幣そのものへの信頼が崩れることを意味すれば、岩井の主張にも一理ある。
しかし、恐慌が長引いたこと自体が、各自が利己的に動く市場に「神の手」が働き、供給と需要の調整が行われるという神話のウソを暴いており、それが資本主義の危機であることは間違いない。日本の1990年の株・土地バブルの破綻は、日本経済に長期のデフレを引き起こし、2000年代に、大企業は保有していた特許を海外に売り、また、製造のノウハウをもった技術者を大量に解雇し、その一部は雇用を求めて海をわたった。日本政府はそれに資本主義の危機を覚えた。表面的には、小泉政権時に、政府が銀行に資金を投入し、銀行の破産を最小限に抑えたことによって幕引きされたとされる。しかし、安倍政権がアベノミクスと称して、赤字国債を乱発し、規律のない、わけのわからない財政支出をし、異次元の金利引き下げをし、株価つり上げに国民の税を注ぎ込むということは、日本の支配層が、経済を市場の自律性(神の手)に任せることができなかった、という究極の実例ではないか。
すなわち、「ハイパー・インフレーション」も「デフレ」も資本主義の危機であることにまちがいないのだ。
岩井は「文庫版へのあとがき」のなかで、「資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使すること」とし、「資本主義を抑圧してしまうことは、自由そのものを抑圧すること」になるから、「私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、資本主義の中で生きていかざるをえない」と結論する。
ちょっと、その結論を待ってください。王制の時代にも、王には自由があったではないか。王や貴族は、かってきままに ふるまっていたじゃないか。近代の自由とは、みんなに平等に自由を与えるということではないか。平等がなければ、経済活動の自由とは、金持ちだけが、かってきままにふるまうことに過ぎない。
したがって、岩井と異なり、「私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、資本主義を抑圧せざるをえない」と結論することも可能である。
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