(ウクライナの歌姫Христина Соловій)
きょう、2018年10月25日出版の赤石書店の『ウクライナを知るための65章』を図書館から借りてきて読んだが、多角的で、よくできている。執筆者は33名にのぼり、黒川祐次が3章も、小泉悠も1章を書いている。
図書館には黒川祐次の『物語ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』(中公新書)も4月6日に予約したが、いまだに順位30番なので、手にするまで、あと1カ月近くかかるだろう。それに、2002年出版だから、ロシアによるクリミア併合も扱われていない。
いま、日本のメディアはアメリカ政府の色眼鏡で見たウクライナよりの報道ばかりで、ロシアーウクライナ戦争の複雑な背景が見えてこない。
ウクライナ国の難しさは1991年に人工的にできた国家であり、歴史がないのである。
1991年以来、ウクライナ国民としての統合を進めるために、国旗や国歌を制定し、昔のコッサクの物語をもってこようとするが、虚構である。ウクライナがロシア帝国に従属したあと、ウクライナの土地は、搾取と弾圧と虐殺のなかで、つぎつぎと新しい集団が持ち込まれてきた。単純に、ウクライナがコサックの継承者でもない。
ソビエト連邦時代、コサックの反乱は農民の反乱として肯定的に捉えられ、コサックの文化が保護され、伝統芸能のようになっている。日本でも有名なコサックの反乱指導者ステンカラージンは現在のウクライナ領にいたのではなく、現在のロシア領のドン川のコッサクである。
現在のウクライナの領土は、ソビエト連邦の指導者スターリンが第2次世界大戦に勝ったことで、制定されたものである。負けたドイツの領土を削ってポーランドに与え、ポーランドの東側を削ってウクライナに与え、ウクライナの東側を削って、ロシア領を増やしたのである。
たとえば、現在のウクライナ西部の都市リヴィウはもともとポーランドの都市である。
ポーランドの領土を削って、ウクライナの領土にしたとき、ポーランドとウクライナは人間の集団交換を行った。新しい国境にもとづき、ポーランドがポーランド人と認めず、いらないとした人間集団をウクライナが引き受け、代わりに、ウクライナのポーランド人をポーランドに送ったのである。ひどい話である。私の好きなウクライナの歌手Христина Соловій(フリスティナ・ソロヴィ)の祖母は、ポーランドの山村に住んでいたが、この交換で、村ごとウクライナに移住となったのである。
スターリンが死んで、ソビエト連邦の指導者はニキータ・フルシチョフに変わったが、彼はウクライナ出身者であったので、クリミアをロシア領からウクライナ領に変更した。当時、ウクライナもロシアもソビエト連邦を構成する共和国の1つであったから、軽い気持ちで変更したのだろうと黒川祐次は推測する。
そして、ソビエト連邦の崩壊で、ソビエト時代の行政区画のまま、ウクライナが独立したのである。ロシア語を話す人もウクライナ語を話す人もポーランド語を話す人も合わせてウクライナ国民となったのである。
クリミアはもともとタタール人の国であるが、武力でロシア帝国が勝ち取ったので、ロシア語を話す人が多数入り込んだ。2014年のクリミア併合の以前からロシアへの帰属を求めての住民運動があったという。
また、ドンパス地域は炭鉱もあり、ソビエト時代からの重工業地帯である。ソビエト連邦全土から人が流れ込み、ロシア語が共通語になっていたという。ソビエト連邦の崩壊で、以前の行政区画のまま、ウクライナ国の一地方となっただけで、やはり、親ロシア派が多かったという。ヤヌコーヴィッチはドンパス地方の利益代表者だったので、彼が首相や大統領であったときまでは問題とならなかったが、ユーロマイダン革命で彼の政権が崩壊すると、内戦がドンパス地方で発生した。
ウクライナの政治を複雑にしているのは、各地方をオルガヒ(新興財団)が握っていて、私兵をもっているからだ。テレビで黒川祐次がそんなことを言っていたような気がする。
そういう背景を知ると、今のゼレンスキー大統領はよくウクライナ国民をまとめていると感心する。しかし、気違いじみた愛国主義者をいつまで抑えておくことができるだろうか。これからが大変だと同情する。戦争が始まると、人間はしだいに狂気に落ち込み、ほとんどの人が死ぬまで、その狂気から抜け出ることができない。ウクライナ領をすべて取り戻すことなんて、別に大義とならない。そのことのために人が死ぬなんて、ばかげている。
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