3日前に、ひとりで暮らしている兄から手紙がきた。メールを送ればいいものを、なぜ、手紙を送ってきたのか、いぶかった。いぶかったというより、パソコンの前に座ってメールが送れないほど、体調を壊しているのかと心配になった。
5歳上の兄は、去年からもう外にでられず、介護の人の訪れで、かろうじて生きていた。
手紙の中身は自分の遺骨の依頼である。郷里にいる弟に送った手紙の写しである。弟が守っている実家の墓にいれくれという依頼である。祖父が作った墓である。父と母の遺骨もそこにある。
手紙の中身は、兄がその墓に自分の遺骨をいれてくれという依頼である。私は兄がその気持ちになったことが うれしい。兄と父の間にはわだかまりがあったからだ。
父は、兄が生まれる前に、赤紙で中国戦線に送られた。日米戦争が始まる前のことである。父は最初の徴兵が終わって、町に戻って母とも結婚し働いていたとき、赤紙で、膠着していた中国戦線に連れ出されたのである。日本が敗戦しても、父はすぐには中国から帰国できなかった。1年後に何の連絡もなく、兄と母の前に現れた。負傷兵として病院にいたとのことである。
父は初めて見る兄に戸惑った。そのまま、ずっと違和感をもち続けたという。兄は勉強に関するものは何でも買ってもらっていた。いろいろな本をそろえていたと思う。少年誌も買ってもらっていた。科学少年の兄は自分の部屋をもっていた。電気部品を買ってもらってラジオや蓄音機を組み立ていた。当時のラジオは真空管を使っていた。家の商売を継がずに、大学に行き、大学院に行った。
母から見ると、父が中国から帰らない間、兄は生きるための力になってくれた一番 いとしい子どもである。闇屋の商売を始めたとき、兄は仕入れた芋を隠した乳母車の上に寝て、取り締まりの警官にも、闇の芋を買ってくれるお客にも、愛想を振りまいていたという母は言う。
父が認知症で寝込んでから、私は実家にほぼ毎週帰るようになった。母は兄が帰ってくれないとこぼしていた。
その兄が、父と母の遺骨がある墓に、自分の骨をいれて欲しいというのである。いい話ではないか。死を前に意地を捨てたのだ。
きのう、メールをだしたら、兄から返事が返ってきた。部屋の中をつたい歩きをしているという。なんだ、去年と同じ状態ではないか。後、1、2年生きれば、平均寿命になる。
私自身は、自分の骨を墓に入れて欲しいと思わない。墓はいらない。私は、死んだら無に帰すと思っている。痛みも悲しみも苦しみもなくなる。ただ、死んでいないのに、死んだとされるのは ごめんこうむる。生きている間は、人間として扱ってほしい。
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