猫じじいのブログ

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元首相 海部俊樹の惜別の辞、朝日新聞夕刊

2022-02-19 23:33:48 | 政治時評

(町の写真館の息子の海部俊樹)

きょうの朝日新聞夕刊の惜別に、ことしの1月9日に死んだ元首相の海部俊樹がのった。「かいふとしき」と読む。

海部を私はすっかり忘れていた。何をした人かだけでなく、1か月前に死んだことさえ忘れていた。

元記者の脇正太郎が書いた惜別の辞が良い。これを読んで忘れていたことが思い出された。

《明仁天皇の即位の礼で海部が首相として寿詞を読み上げ、万歳を三唱した。燕尾服姿だった。宮内庁からの「衣冠束帯姿で臨席し、両陛下より一段低い玉砂利の上で待機を」との要請を拒んだ。》

と惜別の辞にある。

明仁天皇とは平成の天皇のことである。1990年11月に戦後初めての即位の礼がおこなわれた。

《「新憲法下の民主国家の体裁をとるために、精いっぱいの努力をした。首相は民主的な選挙によって主権者たる国民の代表になった」と後年、語った。》

「精いっぱいの努力」の意味することは、1990年といっても、戦前の国体、天皇が日本の頂点という感覚が宮内庁や自民党議員に、残っていて、海部はその圧力をもろに受けたということである。

  • 1989年6月4日に中国で「天安門事件」が起こり、民主化がとん挫した。同年11月10日にベルリンの壁が崩壊した。
  • 1990年11月にバブルが崩壊した。
  • 1991年1月17日、アメリカがイラク空爆を開始した。第1次湾岸戦争のはじまり。

この大変な時期に、海部は1989年8月10日から1991年11月5日まで内閣総理大臣を務めたのである。

惜別の辞によると

《首相在任中、ブッシュ(父)米大統領から、湾岸戦争での自衛隊派遣要請を受けて苦悩した。憲法解釈の枠を超えたくなかった。決断力がないと非難されるたびに、弁明した。「一生懸命やってるわけですから」》

憲法解釈とは第9条のことで、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」を海部は言葉とおりに守ろうとしたのである。

《首相を継いだ宮沢喜一氏は「高校野球じゃあるまいし一生懸命なら良いわけではない」と皮肉った。これには「どうしてわかってくれないのか」と憤慨した。同じ護憲派なのに、との思いからだ。》

海部は、自民党総裁になる前、小派閥の河本派に属していた。当時、4大派閥の竹下派・安倍派(晋三の父)・宮沢派・旧中曽根派では、派閥の領袖だけでなく、幹部もが、リクルートからわいろをもらっていることが発覚した。このなかで、リクルート事件の混乱を収めるために、竹下登が海部を総裁に押した。ウイキペディアによれば、海部の第1次内閣の発足にあたって、竹下派の小沢一郎らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進めた、とある。

だから、「精いっぱいの努力」「一生懸命やってる」と海部は口にするのだ。

それでも、1991年後半に「海部おろし」がはじまり、11月5日、海部は総理大臣を辞職した。本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持をえて、1990年2月の総選挙で自民党は大勝した。また、退任直前でさえもの内閣支持率は50%を超えていた(ウイキペディア)。

惜別の辞によると、海部は晩年 悔しそうにつぎのように言ったとある。

《「俺のほうが(宮沢より首相の在任期間が)長い」》

町の写真館の息子の海部俊樹は、戦後民主主義の申し子であった。

皮肉なことに彼が死んでから、2022年1月18日の閣議で正二位叙位と大勲位菊花大綬章追贈が大正15年の勅令第325号の位階令により送られた。戦前の天皇の命令(勅令)が日本の内閣に いまだに生きているのである。



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