書店を訪れるたびに、私は「仏教」という言葉に違和感をもつ。本のタイトルは「仏法」または「仏道」でないとおかしいと感じる。
実際、『妙法蓮華経』には、「仏法」が41回、「仏道」が61回、「仏教」が6回使われている。「法」とか「道」が基本的概念である。
『中村元の仏教入門』(春秋社)にも、「昔は、『仏教』と言わず『仏法』と言ったものです」、「明治以降になって、キリスト教とかイスラム教という宗教があることがわかってきたものですから、それらと区別するために、仏教という言葉が使われるようになりました」と書いてある。書店だけでなく、図書館でも、書棚のコーナー名が「仏教」となっており、明治政府の始めた義務教育の影響力に改めて恐ろしさを感じる。中村元も「仏法」を愛しているのだから、「仏法」をタイトルに使えば良いのに。
この『中村元の仏教入門』は、中村元の死後、東方学院での彼の講義に補筆して出版されたものである。この本は、簡潔に、「仏法」の考える真理を説き明かしている。私はもう若くないので、なかなか経典が読む根気が続かず、この本は便利で重宝な案内人である。
経典を直に読むのがなぜ根気がいるかというと、実際の経典は、ほとんどの言葉を釈尊が如何に偉いかに費やして、仏法が何を「人間の真理」としているかの適切な説明がない。
経典は数字や分類にこだわって、なかなか本質論が展開されない。分析とは分類ではない。分類は、その相互の関係、とくに項目間の作用の関係が記述されなければ意味がない。経典が数字や分類にこだわるのは、たぶん、古代インドでは、知識の量で誇るようなところがあったからだと思う。
いっぽう、中村元は、釈尊は、議論のための議論となる形而上学を退け、人間はどう生きるのかという実践的なことに思考を絞るようにしたという。ならば、経典の権威づけのための数字や分類は全く中村元の主張に反する。
また、実際の経典には、激しく醜い弟子同士の争いが反映している部分があり、その非寛容性にびっくりする。これも、経典を読み続けることを阻害する。
中村元は「Aか非A」で西洋の哲学を批判しているが、これは中村元の勘違いもあるように思える。命題が真か偽でなければならないとすることを取り上げているようだが、クルト・ゲーデルは、公理化された自然数論でも、真とも偽とも証明されない命題があることを証明している。
中村元は、Aとも非Aとも言わないことを称賛しているが、これは、論理ではなく、対人関係における態度の問題であって、そこをごっちゃにした西洋哲学批判はおかしい。相手を善か悪か、白か黒かで決めつけないという姿勢は、西洋も東洋も、同じである。
結局、『中村元の仏教入門』は、中村元による「仏法」への愛の告白で、愛の力で原始仏教を再構成している。
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