今回の自民党総裁選は、自民党員でない私の目からみても残念なものである。
岸田は64歳の古いタイプの政治家である。自分を押し出さず、自民党の長老の言うことを聞く政治家である。きょうのBBCでは調整役型の政治家として紹介されていた。岸田は新しい資本主義というが、個人というものより、集団の協調を重んじる日本型の企業運営を推進することになるだろう。それで、経済が活性化かするか、私は疑問をもつ。
日本の戸籍や住民票は、戦前の家長制を引きずっており、世帯、世帯主というものを社会の基本にしている。個人に立脚する欧米の社会とまったく異なる。選挙のときは、個人宛てに投票用紙が送られるのではなく、世帯主にまとめて送られる。新型コロナ時の給付基金も一人当たりに10万円の支給となっているが、申請は世帯主がまとめて行う形になっている。税金も世帯主がまとめて支払う。個人ではなく、家族が統治の単位になっている。
夫婦別姓とは、同じ名字を名のるかどうかではなく、個人に立脚する生き方を社会の基本にするかどうかにある。
これらに違和感をもたない集団主義の人がいてもよいと思うが、そこに納まることのできない人を、集団主義の人々が抑圧しないか、どうかが気になる。近代の、あるいは、欧米で生まれた自由主義は、あくまで個人の自由である。
総裁選そのものは、政治家の陰謀と、寄らば大樹の陰、勝ち馬に乗る流れで決まった。
総裁選で誰が勝つかは、選挙制度で決まる。アメリカの各党の予備選では、昔から、党員が候補者を投票で決める。日本では、自民党総裁選のルールが毎回変わるが、基本的には、いつも国会議員で総裁が決まる。小泉純一郎が総裁になったときは、先に党員の投票結果が先に発表だったので、その結果が議員投票に影響した。今回は議員投票が終わったあとに、党員投票結果を議員投票結果とともに発表となった。党員の投票が反映されない形になっていた。
また、第一回目の投票で過半数を制する者はいなく、決選投票になって岸田が河野太郎に勝つという話しが、メディアで大々的に事前に流された。また、国会議員の投票は無記名だが、後ろから見ればだれに投票したか、わかるのだという話しもメディアで事前に流された。このなかで、寄らば大樹の陰、勝ち馬に乗る流れが生じるのも無理がない。投票の前日に、私が心配した通りになった。国会議員票は勝ち馬になだれをうって岸田に流れた。
私は自民党員でないから、総裁選の結果はどうでも良いのだが、個人より集団を好む日本人が思ったより多いかもしれない、という政治の現実にどうしても残念な気持ちになってしまう。
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