猫じじいのブログ

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佐伯啓思の『トランプ現象と民主主義』

2024-04-02 18:28:58 | 思想

佐伯啓思が、また、朝日新聞の〈異論のススメ〉で「民主主義」を批判している。前回は「民主主義は非効率で滅びの道に進む」と批判していた。

今回も、佐伯は、民主主義は価値の相対主義を前提とし、最終的に数のよって意思決定する政治体制とする。このことが、大衆に媚びるポピュリストや大衆をだますデマコーグや不寛容な正義の絶対化(ポリティカル・コレクトネス)が生じると批判する。

この佐伯の論理は、大衆がバカだ、とする伝統的な西洋の保守思想に基づいている。大衆がバカなら、だれがバカでないか、私は、彼に聞き返したい。逆に、私は、大衆がそんなにバカでないから、自民党政府が小中高を通して道徳教育を強制し、「君が代」と「日の丸」に涙するよう、子どもたちを洗脳していると思っている。

佐伯は、今回、プラトンも民主主義を相対主義として批判していると書いている。ちょっと違うのではないか、と私は考える。また、プラトンはソフィストを批判しているとする。これも、本当はプラトン自身もソフィストだと思う。プラトンも平気で詭弁を使う。

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』(第12章~第17章)によれば、プラトンは、戦争で勝ったスパルタに仕えるアテネの有力一族に属し、スパルタを理想に『Πολιτεία』(岩波文庫では『国家』)を書き上げた、という。

プラトンは『Πολιτεία』の中で確かに民主主義を批判している。しかし、プラトンの視点は佐伯のそれと異なる。プラトンは言う。

「貧しい人びとが闘いに勝って、相手側の人々のうちのある者は殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき、民主制(δημοκρατία)というものが生まれる」(第8章557A)

「この人々は自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこで何でも思いどおりのことを行うことが放任されている」(同557B)

「さまざまの国制のなかでも、いちばん美しい国制かも知れない」(同557C)

そして、プラトンは、民主制国家は「自由」を善と規定するので、その自由放任が民主制を崩壊させると言う。一番うるさく話す奴が指導者になって、もてる人々から財産を取り上げて、大部分を自分で着服したあと、民衆に分配し、僭主(独裁者)となると言う。

すなわち、民主制の自由放任が独裁者を招くからいけないとプラトンは言っており、「人々を平等に国制と支配に参与させる」自体を悪いとは言っていない。

民主制国家は人びとにとって居心地が良いのだから、大衆をバカにするより、どうしたら、独裁者を招かないようにしたらよいか、考えた方がよいと私は思う。

実際には、プラトンの言うほどは、民主制が自発的に崩壊して、独裁制に移行することはなかった。

M.I.フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、ギリシアの民主制は約300年近く続いたと言う。

また、ローマ帝国は君主政ではなく、共和政なので、これを民主政に含めれば、地中海沿岸の古代民主制社会は民族移動の波に飲み込まれるまで続いたともみることができる。



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