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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

小さな悪と大きな悪、清濁併せ飲む、森本あんりの『不寛容論』

2021-07-06 23:07:12 | 思想

3年前に、安倍晋三の『美しい国へ』、『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)の読書感想に、「誠実な人柄」と「清濁併せ飲んでも堂々としてる」という矛盾した評が書かれていて、驚いた。どちらも、安倍をほめたたえる読書感想である。

森本あんりの『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)にも興味ある考え方が書かれている。

《酩酊、怠惰、賭博、私通といった・・・・・・これらの行為は、現代社会の一般的な通念からすると、いずれもあまり褒められたことではないし、名誉なことでもない。では、それらをみな取り締まるべきだろうか。……もしそうしたら、社会の悪弊は一掃されるだろうが、それはそれで窮屈な住みにくい社会となってしまうに違いない。》

《「より小さな悪」と「より大きな悪」の比較である。まさにそれが、本書が通観してきた「寛容」の本義だった。》

私は「善悪」が普遍的なものとは思っていない。立場によって「善悪」は異なる。「善悪」と同じく、どちらが「より小さな悪」で、どちらが「より大きな悪」かも立場によって異なってくる。

立場とは、金持ちか貧乏人か、雇用者か被雇用者か、統治者か被統治者か、さらに時代や国によって異なることをいう。したがって、「善悪」「悪の大小」は、徹底した対等という思想で、考えなければならない。そうでなければ、弱者の立場や、抑圧されている者の立場から論じなければならない。

立場によっては、森本の「窮屈な住みにくい社会」の一言で済まされない。「酩酊」は単に酔っぱらってウンチをもらすだけでなく、家庭で暴力を振るう事態に発展しているかもしれない。アメリカで禁酒法が成立した1つの動機に、男たちが酒を飲んで妻を殴るというDV問題があった。

安倍晋三の評「清濁併せ飲んでも堂々としてる」は、彼が小さな悪「酩酊、怠惰、賭博、私通」を見逃してくれることではなく、読者自身の犯した不正を見逃してくれることではないだろうか。そして、その不正は小さいか大きいかの境界は自分の都合でどうにでもなる。

私はかつて外資系に務めており、ときどき、日本の会社と合併子会社の設立に際し、派遣されるものがでてくる。私の知り合いも派遣されたが、その子会社が上から下までキックバックを受け、私腹を肥やすのに驚き、希望して子会社から本社に出戻った。

私の外資系では原則アメリカの法律で運営される。アメリカでは、キックバックがあれば不正な商取引として会社が制裁される。会社は制裁避けるために積極的にキックバックを摘発し、社員を懲戒処分にする。

アメリカでも商取引に不正がある。ビジネスで成功するものは悪人である。だから、不正は摘発と処罰の対象である。日本では、不正は「濁」で、摘発の対象でなく、「清濁併せ飲む」のが人格者なのである。

安倍晋三の「モリカケ」問題は「小さな悪」だったのか。彼にとって、森友学園や加計学園から、ほとんどお金をもらっていないから、小さな小さな悪だったのだろう。しかし、彼はその不正を否定したため、役人が死ぬことになる。首相は権力をもつため、小さな悪が大きな悪を生む。

森本は、ジョン・コトンの「偽善者になる方が不敬者になるよりはまし」を支持する。確かに「悪」がはびこるよりは「偽善」がましだが、「悪」がはこびっていず「偽善」が批判される社会の方が私は好きだ。森本は、いまの社会は「悪」がはびこっていると認識しているのだろうか。

森本は、『マタイ福音書』の《イエスの「山上の説教」には過激で実行の困難な命令が多い》と言っているが、その通りだと思う。新約聖書に複数の福音書があるのは、そのころ、いくつかの教会が信者の奪い合いをしており、マタイ派がもっとも過激な主張をして見せているのだ。しかし、注意して読めば、マタイ派は金持ちの施しを目当てに金持ちに甘く、「偽善」を責めることで、過激派のフリをしているだけである。聖書は批判的に読まれるべきである。聖書は別に神の言葉ではない。



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