佐伯啓思の(異論のススメ スペシャル)『「○○ごっこ」する世界』が、きのう(10月2日)の朝日新聞にのった。このようなトンデモナイ小論を朝日新聞がなぜ載せるのか、わからない。
佐伯は、国家間の争いの中で日本を防衛せよという、個人より国家を優先させる、保守派の主張を繰り返しているだけだ。安倍晋三の『新しい国へ――美しい国へ完全版』の論理と本質的に同じである。
タイトルの「○○ごっこ」は、「戦後の『保守派』を代表する評論家、江藤淳」の著作から取ったものである。江藤の評論の軸は、「ほとんど米国の属国といってよい戦後日本の主体性の欠如を明るみに出す点にあった」と佐伯は言う。
「日本の主体性」とは何のことか。この言葉使いから、すでに、佐伯も江藤もバカである。「日本」とは日本人なのか、日本国民なのか、日本政府なのか、自民党なのか、自民党に投票する選挙民なのか。「主体性」とは何のことか。
「○○ごっこ」と江藤が言うのは、リアリズムにもとづかない言動を指している。ずいぶん偉そうだね。
佐伯によれば、「占領下にあって……。それ以降、日本人は米製憲法を抱き、米国からの要求をほとんど受け入れ、米国流の価値や言説を積極的に受容してきた。これでは、国家としての日本の自立は達成されない、と(江藤が)いうのである」。
「米国からの要求をほとんど受け入れ」は、日本政府の主体性であり、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三にめんめんと受け継がられている。主体性がないのではなく、日本政府やそれを形作る自民党(日本の権力者)が卑怯者なのである。「米国からの要求を受け入れる」ことが得(トク)すると考え、自主的にそう行動する者たちが、日本で権力をにぎってきただけである。
たとえば、高坂正堯は、占領という異常事態、マッカーサーという後ろ盾がなければ吉田茂は首相になれなかっただろうと指摘をしている。
それに対し、「米国流の価値」の受容は、単に保守派にそれに対抗する思想がなかっただけである。個人に対し、「国家」や「日本共同体」を唱えるのは、一周遅れのファシズムやナチズムにすぎない。
だから「国家としての日本の自立」というおかしなことを言うのだ。江藤淳、佐伯啓思こそ「愛国ごっこ」をしている。
江藤の権威をかりて、佐伯は、「戦後日本は、米国への従属国家としてアイデンティティを失うことで平和と繁栄を手にしてきた」と言う。そして、「死者たちの霊を共同体のものとして受けとめた時に初めて、われわれは自らに自信を持つことができるようになる」と言う。
「死者たちの霊」とは、たぶん、引き継がれた怨念のことを言うのだろう。しかし、「引き継がれた怨念」と言っても、それは米国との戦争に負けたことか、それとも西洋思想に対する劣等感なのか。わたしには、それが、なんなのか、さっぱり わからない。
だいたい、「日本のアイデンティティ」を持ち出すところから、佐伯も江藤も頭がおかしい。「アイデンティティ」とは、個人のもつ自意識(自己)のことで、日本人という帰属意識ではない。「アイデンティティ」とは、「自己と他者とを明らかに区別し、かけがえのないものとして自分自身を感じふるまうこと」と私は考える。
「愛国ごっこ」をしている佐伯はつぎのようにのべる。
「占領下にあって主権をもたない国家が憲法を制定しうるのか、また憲法とは何か、主権者とは何か、国家の防衛と憲法と主権者(国民)の関係は」といった根本的な問題を、右派も左派も問え、と言う。
その前に、われわれは主権者として、扱われてきたのか、あるいは、ふるまえてきたのか、を問わなければならない。
戦前は、殺すべき天皇が、みんなに見えていた。「天皇を殺せ」が暴力で封じられていただけである。昭和天皇は殺すべきだったのである。
戦後の権力者は、われわれ民衆の心を操作対象と考え、天皇を象徴として見えなくして、戦前の権力者から権力の独占を引き継いでいる。
国は、民衆へのサービス機関であるべきなのに、税の収集の効率化という名目で、消費税を課し、その税率を上げてきた。国境があるばかりに、われわれは、サービスが悪いといっても、他国のサービスを受け入れることができないのだ。民衆が原発はいらないと言って8年たっているが、政府は原発を再稼働している。沖縄が米軍の基地をいらないと言っても、撤去せず、辺野古の海を埋め立てて滑走路を作ろうとしている。
リアリティの国家はあらゆるものを独占している悪党なのだ。安倍晋三のもとに、あらゆる腐敗が集まってきている。それは権力のもとに集まっている者たちがトクするからだ。
「国家の防衛」のまえに、「国家の解体」と「個人の確立」こそ叫ばなければならない。保守派の知識人は頭がおかしい。
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