猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

能力を伸ばすということがわからない、人に能力を要求してよいのか

2021-12-07 22:57:56 | 思想

私は独学の人である。60歳で会社を退職してから専門外の本、すなわち、文系の本をも読みだした。わからないことだらけだ。ギリシア哲学の解説本を読んでの謎の1つのは、プラントンやアリストテレスのいう「徳」だった。

ある日、突然気づいたのは、彼らの言う「徳」とは「能力のあること」だった。私は「徳」を「善」と結び付けていたから理解できなかったのだ。

別に、私が彼らのギリシア哲学に敬意を払う必要がないのだ。プラントンやアリストテレスが民主主義が嫌いで、エリートによる支配を望んでいたのだ。

「能力」を個々の人に要求する権利が他人にあるのだろうか。「能力」のある人を称賛することは健全なことだろうか。

リベラルにも分からないことがある。田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)によると、《現代のリベラルとは、「価値の多元性を前提として、すべての個人が生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」》だとそうである。

この「自由」がわからない。自分が何のために生きるかわからずに迷い続ける人もいる。やりたいことがわからないのだ。すべての人が、自分の望む「生き方」や目標をもっているのだろうか。きれいごとではないか。

NPOで、てんかんの持病をもつ子どもを、中3から、私は指導した。その子は、小さい子に親切に接するので、「保育の仕事に向いているのでは」と、高校のとき、口出したら、すごく怒りだした。「自分は大学を出て、働かなくてもお金を得られるサラリーマンになるのだ。保育の仕事をする男は社会からバカにされ、給料も安い」と返された。

多くの人の「生き方」や「目標」は社会の反映である。社会とは、学校であり、親である。学校教育を通して「たてまえ」を知り、親の愚痴を聞き「ほんね」を知る。

NPOで20歳過ぎの子どもに、中学の公民の教科書の1節を読んでもらい、「自由」とは何かを問うと、「勝手気ままにふるまうこと」と返事が返ってきた。そんなことは教科書のどこにも書いていない。どう言い返したらわからず、その場では、私は言葉に詰まった。しかし、考えると、その子のいうことが本当だと思える。「自由」自体には、価値観が含まれない。権力者だけが自由をもっていることが問題なのだ。権力者以外にとっては、自分にも「自由」をよこせということにすぎない。

「自由」より「平等」が優先する。

「積極的自由」も納得できないことの1つである。個々人の能力を自由に発展させることが「自由」だということがわからない。「能力を伸ばす」ということも何かわからない。

私は「一芸に秀でる」ことが良いことだと思えない。藤井聡太のように将棋が強いことが賞賛すべきことと思えない。新聞社が将棋連盟にお金をだせなくなったら、将棋はふつうの人びとの楽しみに戻るだろう。秀でることを社会がもてはやす必要はないように思える。「秀でる」ことを称賛することは、英雄崇拝と同じく、強いものに自分を投影して自己満足しているだけだ。

教育での「学力テスト」とか「競争」とかが間違っていることは確かだ。「テスト」とか「競争」とかは、ただ1つのゴールを設定するから、存在しえる。そして、ただ1つのゴールを示すことは、一人ひとりの能力を伸ばすことを邪魔している。

胆管の手術をした高2の子どもが退院して、先週からリーモート指導に出てくるようになった。覚えることが苦手の子で、テスト期間で暗かった。歴史のテストで漢字で答えを書かないといけないのが大変だと言う。数学や物理は理論がわかれば覚える必要がないのに、と言う。大学入試では、選択肢の問題ばかりだから、漢字を覚えなくても良いと私が言うと、急に顔が明るくなった。

漢字が書けなくて何が悪いのか。漢字を書くために、人は無駄に脳を使っている。

結局、「能力」を伸ばすということではなく、邪魔しないということで、「自由」「平等」「愛」ということに私は落ち着いている。



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