猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

日本学術会議会員任命拒否事件は民主主義の否定

2020-10-19 22:51:34 | 日本学術会議任命拒否事件


きょう、NPOの仕事から帰ったら、BSプライムニュースとBS TBS報道19:30で、菅義偉が日本学術会議会員を任命拒否したことの議論が行われた。菅は、任命拒否した理由をまだおおやけにも私的にも言っていない。

菅の番組を聞くと、任命拒否を支持する理由は、首相は国民を代表しているから、国の機関である日本学術会議の会員の任命を拒否できるというものである。

日本国憲法第15条
「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」

日本国憲法第16条
「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」

日本国憲法第99条
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

だからと言って、国民は単純に総理大臣を選定や罷免できるわけではない。何かの手続きによって、選定や罷免できるわけである。何かとは法律や慣習である。

日本学術会議は、まず、法律に基づいてできた組織である。そして、内閣総理大臣の所轄で経費は国庫の負担(第2条)だが、総理大臣から独立して活動(第3条)する。会員は、日本学術会議が「規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦」(第17条)し、その「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命」(第7条)する。

すなわち、日本学術会議は、法律の許す範囲で自由に活動できる組織で、総理大臣が直接指揮できる組織ではない。だから、日本学術会議会員は公務員ではなく、特殊公務員(非正規)であって、会議に呼び出されば、日当と交通費が支払われる。予算は、公務員からなる事務局が大方を使っている。

法律に、日本学術会議が会員を選考し推薦するとあるから、総理大臣が任命を拒否すれば、選考に介入したことにある。選考に介入するほどの問題があるならば、どのような問題で選考に介入したかを総理大臣自身が言わなければ、第3条と第7条に違反した行為と言わざるをえない。

総理大臣が間接的に国民から選ばれたと言え、恣意的に法律を運用すれば、民主主義制度が崩壊する。日本は独裁国ではないのだ。

日本学術会議は、内閣府令「日本学術会議法施行令」にもとづいて、新開委員の選考を行っている。菅義偉は不満があるなら、国会に改正案を提案し国会の承認を得るか、法律に沿った範囲で内閣府令を改定する必要がある。

いま、メディアにおおやけなっているのは、総理大臣でなく、内閣官房副長官の杉田和博が6名の任命拒否を決め、6名を除外したリストを菅義偉に渡したことだ。めちゃくちゃでないか。選考規則が詳細に決められているのに、それを全く無視して、杉田が選考を変更して良いのか。

きょうのBSプライムニュースに参加したジャーナリスト門田隆将は、番組の終わりに日本学術会議は共産党に支配されていると言ったが、杉田あるいは菅が、6名が共産党員だから任命拒否したなら、ハッキリそう言えばよい。

杉田和弘は共産党を敵視する公安出身だから、独自情報をもっているのかもしれない。任命拒否の理由をハッキリ言えば、それが任命拒否の理由となるのか国民も国会も議論できる。また、その理由が事実に基づかないなら、拒否された本人が反論できる。もちろん、私は6人はその業績内容から共産党員と思わない。

トランプ流に言えば、今回の件で、菅義偉か杉田和博かのいずれか、あるいは、両名を刑務所に入れるべきほど、民主主義を踏みにじった事件である。

[補遺]
日本学術会議法抜粋
第1条 この法律により日本学術会議を設立し、この法律を日本学術会議法と称する。
2 日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。
3 日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。

第2条 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。

第3条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
1 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
2 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

第4条 政府は、左の事項について、日本学術会議に諮問することができる。
(細則略)

第5条 日本学術会議は、左の事項について、政府に勧告することができる。
(細則略)

第6条 政府は、日本学術会議の求に応じて、資料の提出、意見の開陳又は説明をすることができる。

第7条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2 会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。

第17条 日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする

[補足]
日本学術会議法の「科学」は、ドイツ語の “Wissenschaft”であって「学術」と理解すべきである。決して、“Science and Technology”ではない。直接、企業の利益に結びつく技術は、企業がやれば良いことである。


叩き上げの菅義偉では 日本の明るい未来を期待できない

2020-10-18 23:36:48 | 叩き上げの菅義偉

菅義偉が総理大臣なってから、はや、1ヶ月がすぎる。しかし、何がやりたいのか、私には だんだん わからなくなっている。

それでも、菅はどんな人間かの大きなヒントがある。それは、彼が自分を「叩き上げ」と言っていることだ。

「叩き上げ」からでてくることの1つは、自分は努力して苦難をのりこえ、現在の栄冠を勝ち取ったという自負である。もう1つは、人の弱さを利用して勝ち進んできたという成功体験である。

菅は、9月2日の自民党総裁選への出馬会見で、つぎのように言った。

〈私自身、国の基本というのは自助、共助、公助であると思っております。自分でできることはまず自分でやってみる。そして地域や自治体が助け合う。その上で政府が責任を持って対応する。〉

菅政権10月16日に未来投資会議を廃止して新たに「成長戦略会議」を設置することを正式決定した。そのメンバーは すべて民間会社の会長または社長である。

竹中平蔵 人材派遣会社大手パソナの会長
国部 毅  三井住友フィナンシャルグループ会長
桜田謙悟 SOMPOホールディングス社長
金丸恭文 フューチャー会長兼社長
デービッド・アトキンソン 小西美術工藝社社長
南場智子 ディー・エヌ・エー会長
三村明夫 日本商工会議所会頭
三浦瑠麗 山猫総合研究所代表

このメッセージは、新自由主義(社会保障・福祉の切り捨て)で「成長戦略会議」を固めるということで、菅の持論「自助」と一貫している。竹中平蔵は、ベーシックインカムを導入して社会保障制度を全廃するという論者である。

経営者主導で「成長戦略」を作れば、経営者に甘い「戦略」になるだけで、ますます、日本の産業力が衰退していく。10月16日の初会合のあとの記者会見で、「新型コロナウイルスの影響を念頭にした事業の再構築」「労働生産性の向上」「労働移動の円滑」「テレワークなどの新しい働き方の課題」「国際金融都市の実現」を課題として挙げた。

これから予想されることは、社会保障の切り捨て、労働者の解雇、効率と成果主義による労働者の締め付けが、「叩き上げ」首相によって黙々と実施されるということだ。

いっぽうで、おおやけには、目玉政策として、不妊治療の健康保険適用、携帯料金の値下げ、ハンコの廃止、デジタル庁を唱えている。まやかしである。

菅政権は二階俊博をトップとする危うい派閥均衡に支えられているから、利権をめぐって陰湿な内部闘争が渦巻き、つぎからつぎへと、まやかしの政策が飛び出す。叩き上げの菅は緊縮財政が好みであろうが、派閥抗争はバラマキを招く。経済政策は一貫性を欠き、混乱を極めると思われる。

このままでは、日本の明るい未来を期待できない。
まともな政治が行われるためには、選挙で自民党議員を落選させるしかない。

[補遺]
政治は効率ではない。混乱があってもよい。しかし、オモテでおおやけに議論されず、闇のなかの抗争で政治が行われるのは、民主主義からの逸脱である。

罪を強さと勘違いする時代、福島第一原発放射能汚染水の海洋放出

2020-10-17 22:55:10 | 原発を考える


菅政権は、福島第原発内の放射能汚染水を海洋に放出することをこの10月中に閣議決定するという。メディアは風評被害が生じるから、漁業関係者の了解を得て海洋放出にせよ、という趣旨の報道をしている。弱腰でないか。漁業関係者は、すでに海洋放出反対の声明を出している。それでも、菅政権は海洋に放出するという。

聖書では、人が嫌がることが「悪」で、嫌がることをするのは「罪」である。

コロナ騒ぎで人びとが感染拡大を恐れているのに、菅義偉は、GOTOキャンペーンで、旅行しろ、飲み食いしろという。日本学術会議会員の任命拒否をして、その理由は言う必要はないという。中曽根康夫の国費1億9千万円の葬式を強行した。いま、放射能汚染水を海洋に放出しようとしている。そして、来年にも女川原発を再稼働しようとしている。

菅は強い総理大臣のイメージで権力の座を守り抜こうとしている。

じつは、ある人の嫌がることは、別のひとにとっては嫌がることでもない。社会が共感力を失うと、ある人が嫌がることを「どうどう」とすることが、「罪」と思われず、「強さ」と思われる。このことは、日本では、鎌倉幕府の崩壊期に起きた。昭和の中国侵略期にも起きた。ドイツでは、17世紀の30年戦争中に、そして、ナチ政権下で起きた。

そして、いま、世界的にそれが起きている。ドナルド・トランプも安倍晋三も菅義偉も「罪びと」である。強い権力者を望む民(たみ)は愚かものである。

メディアも数値をあげて、海洋放出の「悪」を具体的に非難した方が良い。2年前に牧田寛がネット上で、今年も『科学』2020年2月号(岩波書店)で丁寧に海洋放出の問題点を指摘している。

だいたい、人類共有財産の大気や海洋に放射能汚染水を放出するという発想は、「環境保護」の流れに反している。そこでは、お金の崇拝、経済優先がいつのまにか正義になっている。

汚染水を蒸発させて大気に放出すれば、雨になってまた地表にもどる。

海洋に放出すれば、汚染水がひとりでに薄められて、思う人もいるかもしれない。そんなに甘くない。汚染水の拡散のスピードは非常に遅い。そして、時間の平方根で広がるから、実際上、何十年間は放出現場に滞留する。

福島第1原発の放射能汚染水は約130万トンである。原発事故後、毎日400トンの汚染水が生じている計算になる。牧田寛は、もともと、500トンから1000トンの水が地下に流れこんでいた場所に福島第1原発に作ったという。その地下水を周りの井戸からくみ上げ海洋に流すようになっていたという。

東日本大震災の地震で原子炉建屋の壁にひびが入り、地下水が地下室に流れ込むようになった。メルトダウンした炉心の核燃料は炉心の底を破って地下室に落ち込み、デブリとなった。本来、制御棒で核分裂連鎖反応を抑え込む仕組みだったところ、核燃料が熔けてデブリができたので、連鎖反応がつづき、中性子を周囲に放射する。その結果、トリチウム(三重水素)は発生つづける。

核爆弾と違い、固い容器に閉じ込められていないので、爆発はせず、ブスブスとずっと燃え続ける。したがって、トリチウム水は今後も発生する。政府はどれだけの汚染水が毎年発生すると考えているのだろうか。

東京電力は7年かけて海洋放水するという。牧田は、130万トンの放射能汚染水の放出に、50年から70年かかるという。そして、それでも、トリウム水は発生つづけるだろう。

トリチウムはベータ線を出してヘリウムに変わる。じつは、福島第1原発の汚染水処理システムはトリチウム以外の放射能物質をとり除けたわけでない。したがって、ベータ線総量をおさえる必要がある。ベータ線の測定は大変だということで、東電は告知濃度限度比の総和を抑えるように、海水で薄めた後、放出するという。いったい、どれだけ薄めれば良いか、報道されていない。

いま、20倍に薄めるとすると2600万トンの汚染水が放出されるのである。深さを50メートルとすると、720メートル四方に汚染水が7年で滞留することになる。

放出が海洋生物に影響がないと言えない。トリチウム水の毒性を軽く見積もるのは、人間は毎日2リットルの水を飲み、2リットルの水を排出するからだ。すなわち、排出されることを前提した議論を、たえず汚染水のなかにいる海洋生物には、適用できない。菅義偉と小泉進次郎は、海洋生物の環境を壊しても構わないと考えている。

海洋放出や大気中放出以外の汚染水処理の方法があるのに、お金がかかるからということで、検討対象からはずれている。しかし、現状では役立たずの東芝の放射汚染水処理システムALPSにお金を棄てまくっている。官僚の誤りを是認していて、何が「叩き上げ」の菅義偉か。単なる暴力じじいではないか。

きっと、みんなで「罪びと」になれば怖くないと思っているのだろう。

加藤隆のいうように聖書全体を読んでメッセージを受けとるべきか

2020-10-15 23:28:46 | 聖書物語


きょうは、2016年の加藤隆の『集中講義旧約聖書 「一神教」の根源を見る』(別冊NHK 100分de名著)を取り上げる。

その書の最後の段落に、加藤は

〈「聖書」は、その全体に権威があるとされます。聖書を読むのならば、聖書全体が何を主張しようとしているのかという立場を尊重しなければ、聖書に取り組む作業が、聖書全体の意義の前で無意味なものになってしまいます。〉

と書く。いっぽう、第4講には、

〈旧約聖書は複雑きわまりない書物で、全体をまとめるのは困難です。敢えてそこから代表的な短いテキストを1つだけ示せということになると〉

として、『申命記』6章4-5節を引用している。

〈聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。〉(ここで「主」は「ヤハウェ」の日本語訳である。)

あいかわらず、彼の「神学」で旧約聖書をムリヤリ読み込んでいると言える。

聖書協会共同訳で、旧約聖書は1478ページ、新約聖書は467ページである。全体を読まないと、加藤の神学に反論できないのであれば、いつまでも、私は反論できないことになる。

20世紀前後から、ドイツのプロテスタント系聖書学者が「モーセの五書」は史実でなく、物語であると指摘した。天地や人類の創造が神話であることは、誰でも気づくことだろう。だが、アブラハムやイサクやヤコブの物語、モーセの率いた出エジプト物語も創作である。

(ただ、私はドイツ語でこの主張を直接読んでいない。ドイツ語の “Geschichte”には「歴史」と「物語」の両方の意味があり、区別があいまいだ。だから、どのように当時の人を説き伏せたかは興味ある。)

「モーセの五書」は、5つの文書『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』からなる。

長谷川修一は、「モーセの五書」だけが物語であるのではなく、『ヨシュア記』『士師記』『サムエル記』『列王記』にも虚構があるとする。個々のエピソードにフィクションがあるのはあたりまえだが、長谷川修一の指摘するもっとも大きな虚構は、イスラエル統一国家の存在である。そんなものはなかったというのである。はじめて、これを読んだとき、驚いたが、いまは、納得できる。

旧約聖書では、サウル、ダビデ、ソロモンの3代の王によるイスラエル統一国家があり、ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダヤ王国に分かれたことになっている。長谷川修一によると、はじめからそうだった。アッシリアによってイスラエル王国が滅亡し、人々がユダヤ王国に逃げてきて、その融和のために、イスラエル統一国家の時代が昔あって繁栄したという、ウソの物語が必要になり、神話が出来上がったという。

北のイスラエル王国は気候に恵まれ、豊かな農業地帯で、10部族が住んでいる。南のユダヤ王国は荒れ地で、2部族しか住んでいない。しかし、旧約聖書では、統一王国の王は南の2部族出身で、首都も南のユダヤ王国にある。国力に大きな差があるのに、南が北を支配できたとは、そもそも不自然な話である。

ところで、加藤は『創世記』を知恵者ソロモンへの神学的批判であるという。彼は、カインの罪は「神のようになろうとした」ことだという。このカインはソロモンであるという。ここで、おもわず、エーリック・フロムの『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)の原題が “You shall be as gods”であることを思い出して笑ってしまった。

ユダヤ教徒の子に生まれたフロムは「人が神のようになること」が人類の進歩であると信じている。約250年前に、カントは、神の助けを借りずとも、自分で物事を判断できるようになることを「啓蒙」と言っている。いっぽう、加藤はそれを人間のおごりだという。

そういえば、8年ほど昔、プロテスタント系の発達障害児教育パンフレットに「知ることは罪だ」と書いていた。

聖書は昔の雑多な考えを閉じ込めたタイム・カプセルである。全体を読まなくてもよい。全部を読もうとしても、時間を無駄にするだけで、意味がない。しかし、誰かさんの神学を押しつけられるいわれは全くない。

加藤は、「モーセの五書」は、ペルシア帝国の高級官僚のユダヤ人、エズラによって編纂されたという。だから、ペルシア帝国によって権威づけられているという。

私は、「モーセの五書」は時間をかけてばらばらに編纂されたのではと思う。最初に編纂されたのは、もっとも退屈な『レビ記』でないかと思う。『レビ記』は物語ではなく、古代の掟と儀式規則の集まりである。

しかし、新約聖書がもっとも頻繁に引用する言葉「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」は、『レビ記』19章18節に出てくる。そして、ほかの旧約聖書のどこにもでてこない。

じっさい、『レビ記』の19章全体が、退屈な他の章に比較して秀逸である。たとえば、19章9-10節に

〈穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 
ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。〉

とある。また、19章14節には

〈耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。〉

とある。加藤が旧約聖書を代表すると言う『申命記』6章4-5節より、ずっとマシである。

しかし、それ以外の章は退屈である。古代の儀式に興味がなければ、飛ばして読んでいいと思う。聖書には多数のばらばらの物語があり、文学作品として読むので良いのだ、神学は不要である。

罪とは何か、神とは何か、加藤隆の『歴史の中の「新約聖書」』

2020-10-14 23:08:42 | 聖書物語
 
昨日の加藤隆の『歴史の中の「新約聖書」』(ちくま新書)の批判のつづきである。
 
加藤は本書で、「《救われていない状態》が《罪》の状態」で、ユダヤ教では「神は動かない、民は罪の状態にある』であるのに対し、キリスト教は、「神が、救う者を救う」と言う。
 
加藤の「救う者を救う」は、「自助」のことを言っているのではなく、神に人間が働きかけても応答しないが、神は人間に一方的に働きかける、と言っているのだ。すなわち、救うか救わないかは神の自由だと言っている。
 
しかし、加藤の「救う」の意味がわからない。「救われる」ことが天国に行くことで、「救われない」ことが地獄に行くことになるなら、カルヴァン派のドグマになる。「救われる」が恵まれた人生を送ることなら、これは「運命論」を言っていることになる。
 
ユダヤ教では、昨日言ったように、神は「守り神」であって、生きている者の神である。ユダヤ人は、死後の世界に、関心がない。ユダヤ人に限らず、メソポタミア文化圏では、神は生きている者の神である。
 
それに、私のヘブライ語聖書の読みでは、ユダヤ人は神との間に距離を置いている。
 
エデンの園のエピソードでも、アダムとエバが神に逆らって知恵の木の実を食べても、「罪」とされない。エデンの園から解放され、自分のために働くようになるだけである。「罪」は、兄弟殺しのときに、初めて、出てくる。
 
また、神ヤハウェがソドムの民をほろぼすとき、アブラハムは、「正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすのか」とヤハウェと交渉する。そして、「正しい者が50人いたら町を滅ぼさない」がら「45人」に、「45人」から「40人」に、「40人」から「30人」に、「30人」から「20人」に、最終的に「10人いたら私は滅ぼさない」とヤハウェに言わす。
 
子ども時代にユダヤ教の本格的教育を受けたエーリック・フロムは、『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)で、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の神と人間との関係は、互いに関わりあうことで、神は思いやりのある神になり、人間はその神に近くなるという。本の原題は“You shall be as gods”である。
 
彼は、その本で、旧約聖書の「罪」は、「ハタ」と「アボン」と「ペシャ」に区別されると書いている。
 
「ハタ(חטאה)」は、「誤ること」すなわち「過失」。
「アボン(עון)」は「意図的に悪を行うこと」。
「ペシャ(פשע)」は「権力や権威や慣習に逆らうこと」。
 
このことは、『新共同訳 聖書辞典』にも『聖書協会共同訳聖書』の付録にも書かれている。加藤は言及しないが、キリスト教徒はみんな知っていることなのだろう。
 
弟を殺したカインの罪は「アボン」とヘブライ語聖書に書かれる。ソドムの住民の犯したのは「ハタ」である。このヤハウェは専制君主のイメージで考えれば良い。
 
「神」とは、ほっとけば、ろくなことをしないというのが、ユダヤ人の理解である。たとえば、『ヨブ記』では、神を畏れるヨブは、ヤハウェとサタンとの賭けの対象にされ、サタンに皮膚病に落とされ、苦しんで神を呪うという物語である。
 
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に「ぼくらみんな、すべての人に対してすべての点で罪があるんだよ」という言葉が出てくる。これは、修道僧ゾシマ長老が、自分の兄が、17歳で死ぬ直前に残した言葉である。周りは「病気のせいで精神錯乱におちいった」と言ったが、ゾシマは「貴族に生まれると 知らず知らずのうちに あたりまえのことかのように、しもじもに かしずかれることだ」と、自分が老いて死ぬ直前に告白する。
 
「支配」と「従属」の人間関係に気づかずに人を支配すれば「ハタ」であり、気づいて支配すれば「アボン」である。現代人は、「罪」を「神」と無関係に定義できる。