けさ、ゴミ出しをしようとしたとき、ペットボトルという言葉が出てこなくて、私は立ちすくした。台所の奥に空のペットボトルが置かれている。その前に妻が立っているので、私は自分でそれを取り出せない。
私は、きょう、空のペットボトルを出す日だと知っている。空のペットボトルがどこにあるかも知っている。
妻は空のペットボトルを出す日だと思い出していない。ゴミ出しは私の日課だから思い出せないのは無理もない。
しばらく言葉のないまま、たがいに見合っていた。妻が先に気づいて「ペットボトル?」と言って、事態は解決した。
もちろん、「ちょっと、どいて」とか、ペットボトルという言葉を使わなくても、解決できるのだが、ペットボトルという言葉が出てこない自分に私は驚いた。
きのう、私はNPOにくる子どもに、水をいれたペットボトルが、凸レンズのように、光を集めることができると話したばかりだからだ。
歳をとると言葉を忘れると言うが、じつは、言葉が出てこないだけである。
脳は言葉が表す実体のほうを覚えていて、その実体のある場所、曜日と関連してその実体に何をすべきかも覚えている。実体を表わす言葉も覚えているが、言おうとするとき、言葉がでてこないだけである。実体と言葉のつながりが弱くなるのである。実体と実体との関連はちゃんと覚えている。
斎藤環は『生き延びるためのラカン』(バジリコ)のなかで、ラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」の仮説を紹介している。これが何度読んでもよくわからない。言葉が織りなす「象徴界」が人間のこころを作っているという。
しかし、理系の私は、言葉を介せずに、数学や物理の問題を考えている。言葉が織りなす世界は文化だと思っている。言葉で考えると、自分をとりまく人間社会に自分のこころが乗っ取られると思っている。乗っ取られないためには、日本語以外でものごとを考えるしかない。
言葉が中心の人たちにとって、ラカンの言う「欲望は他人の欲望」なのだろう。
私は、NPOで、発語ない子どもたち、発語が難しい子どもたちと接してきた。その子供たちは身体的感情、情動的感情を持ち合わせている。オウム返しのできる子どもたちは、「トイレに行きたい」「お茶を飲みたい」という言葉をすぐ話せるようになる。教えてもいないのに「風邪を引いた」と話したときには、感動した。
私は、絵や絵本を見せながら、言葉の世界を広げようと格闘しているが、知的に問題のある子どもは、なかなか、それ以上に進まない。字が読めるようになっても、どこか、おかしい。
言葉を話さないから知的に遅れたというより、言葉を話すためには、言葉にすべき概念の世界が、最低限、熟している必要があるようだ。