北の旅人

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アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑥

2008-02-14 07:17:42 | Weblog

1972・8・22(火) 晴れ アムハースト→ワシントンD.C. 

アムハースト発、午前8:15。教授陣など大変お世話になった方々にお礼の言葉を述べて一路ワシントンD.C.へ。「サッポロで会いましょう」を合唱してお別れ。見送ってもらった中には、北大総長を務めた杉野目貞晴博士の六女・T子さんがいた。ちょうど、イタリアから来ていたとのこと。

途中、ドライブインで食べたいものをお皿に盛ったら、3ドル25セント、高い。トイレでは水が流れないので、更にボタンをプッシュしたら、今度は水が溢れ出て隣の人が文句を言っていた。ホテルに着いてからの話しだが、同じ部屋のM君が同じ事をやったとのこと。あぁ。午後6:10ワシントンD.C. 「メンガーハミルトン・ホテル」に到着。夜はワシントンの街を少し歩いてくる。
          
     ☆          ☆ 

   ニクソン大統領とレーガン大統領 

ワシントンD.C.は、「The District of Columbia」の略で、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスにちなんで付けられた名前。言うまでもなく人口58万人あまりの政治都市だ。

1972年、私が初めてワシントンのホワイトハウス前に立ったときの大統領はニクソンだった。電撃的に中国を訪問し、毛沢東、周恩来と握手して世界をアッと言わせた。ケネディによって開始されたベトナムへの軍事介入から撤退したのもニクソンだった。しかし、ウォーターゲート事件で、20世紀において任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

2回目に訪れた1981年当時は、レーガン大統領だった。ベルリンの壁崩壊、ソ連の崩壊に大きな役割を果たし、東側のリーダーでありペレストロイカ(改革)を進めていたゴルバチョフソ連大統領に対しても強い姿勢で相対した。

レーガノミックスといわれる経済政策を進め、需要中心の政策から供給力強化への政策に転換した。日本との連携を深め、3度も来日し、当時の中曽根康弘総理とは「ロン・ヤス」という愛称で呼び合い、信頼関係を深めた。

それ以降の日米トップが、こうした関係を築いたのは、「ジョージ・ジュンイチロー」と呼び合った、ブッシュ大統領と小泉純一郎総理のケースだけであろう。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)