1972・8・24(木) 晴れワシントン→ボルチモア(メリーランド州)
午前6:30起床。 朝食を遅くとったため、チキンは当たらず。9:30から、ライト兄弟が乗った歴史的な飛行機などが展示されているスミソニアン博物館を見学。アメリカの偉大な文明、歴史に接する。あの広大な国土を200年足らずのうちに開拓したフロンティア・スピリットなるものの一端に触れる。
正午、マンジャー・ハミルトンホテルを出発し、グレーハウンド・バスで、およそ1時間半、ボルチモア(メリーランド州)のバスデモに到着。95万人の都市。いよいよ、われわれ13人だけのグループだけでの行動となる。
今日は民泊の予定だったが、6人の宿泊先しか決まっていないというハプニングがあり、われわれ7人は、取りあえずモーテルへ泊まることに。モーテルと言っても、日本のモーテルとは違って、130室あり、部屋のスペースも広く、ホテル並みだ。テレビの映りはあまり良くない。日本のテレビの方が性能は良い。
夕食は自費で、ドイツ風の何とかビーフ(3ドル85セント)を食べた。7:30、4人のメンバーが泊まることになったホストファミリーのムリンさんの奥さんが迎えに来る。われわれも一緒に招かれた。11:30まで話し込む。
車はキャデラックだ。ご主人はシェル石油のスタンドを経営している。奥さんも娘さんもパートで月給を貰っているという。ご主人は週7日、働きっ放し。奥さん曰く、「お金は天から降ってくるのではない」と。子どもをガンで亡くし、全ての財産を失ったことがある。その時はトレーラーの中で生活したこともあるそうで、現在の家は2軒目。14歳と3歳の子どもがおり、家にはプールもある。
奥さんは、隣の35歳前後のご夫婦を連れてきて一緒に話す。ご主人は技術者で飛行機のライセンスを持ち、奥さんは高校生に美術を教えている。色々な話が出たが、「ベトナム戦争」も話題に。
私が、「アメリカは平和を唱えながら、一方では戦争をしているというのはどういうことか?」と問うと、ムリンさんは、「アメリカがベトナムから手を引けば日本はどうなるか?私は民間人であり、そのような問題を話し出来ない」と、非常に慎重。
われわれのメンバーの中に、漬物屋のK君がいたが、その彼に対し、「漬物屋は、皆に美味い漬物を食べさせることを考えればよい。私は国家と国家という立場で話しているのではない。個人と個人の立場で話しているのだ」と言う。3歳の女の子が、結構お手伝いをしていたが、幼いころからの躾は大事だなと感じた。1:30寝る。モーテルのチップ25セント。
☆ ☆
戦争の悲惨さ
1960年から15年間続いた「ベトナム戦争」。資本主義と共産主義の代理戦争とも言われた。当時、日本でも作家の小田実氏を中心とした「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)なる活動団体ができ、ベトナム反戦運動、平和運動が活発に行われた。
1993年1月、仕事で、カンボジアPKO視察団に同行した際、ベトナムのホーチミン市にも立ち寄った。「戦争証跡博物館」で見たベトナム戦争の深い傷跡は、実に悲惨としか言いようがないものであった。べトちゃん、ドクちゃん(日本でも大規模な支援活動が行われた)に象徴される枯れ葉剤の恐ろしさを示す奇形胎児や、処刑場の復元、使用兵器のパネルなど、多くの資料が展示されていた。
カンボジアでは、トゥールスレン虐殺博物館を視察した。ポルポトが「民主カンボジア」首相当時、100万~200万人のカンボジア人を虐殺したと言われるが、その凄惨さには息をのむ。死者の頭蓋骨で描かれたカンボジア地図があり、川、湖は血の色で染められていた。その恐怖の有様は「骸骨は山のごとく、流血は川のごとく、涙は海のごとく」と表現されている。
日本においても第二次世界大戦で、軍人170万人、市民38万人が犠牲になったと言われ、長崎・広島への原爆投下によって、20万人以上が尊い命を落とした。3年前、広島平和記念資料館・原爆資料館、2年前には知覧の特攻記念館を訪れたが、涙なくしては見られなかった。その悲惨さに改めて戦争の恐ろしさを感じたし、当然ながら、二度と戦争を起こしては絶対にダメだと心に刻み込んだ。
防衛大臣が、「原爆はしょうがなかった」と言い放って辞任せざるを得なかったが、ほんとに呆れた。許されることではない。政治家としての資質が問われる。それほど重大な発言だ。
「ノーモア ヒロシマ」「ノーモア ナガサキ」を死語にしてはならない。
(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
午前6:30起床。 朝食を遅くとったため、チキンは当たらず。9:30から、ライト兄弟が乗った歴史的な飛行機などが展示されているスミソニアン博物館を見学。アメリカの偉大な文明、歴史に接する。あの広大な国土を200年足らずのうちに開拓したフロンティア・スピリットなるものの一端に触れる。
正午、マンジャー・ハミルトンホテルを出発し、グレーハウンド・バスで、およそ1時間半、ボルチモア(メリーランド州)のバスデモに到着。95万人の都市。いよいよ、われわれ13人だけのグループだけでの行動となる。
今日は民泊の予定だったが、6人の宿泊先しか決まっていないというハプニングがあり、われわれ7人は、取りあえずモーテルへ泊まることに。モーテルと言っても、日本のモーテルとは違って、130室あり、部屋のスペースも広く、ホテル並みだ。テレビの映りはあまり良くない。日本のテレビの方が性能は良い。
夕食は自費で、ドイツ風の何とかビーフ(3ドル85セント)を食べた。7:30、4人のメンバーが泊まることになったホストファミリーのムリンさんの奥さんが迎えに来る。われわれも一緒に招かれた。11:30まで話し込む。
車はキャデラックだ。ご主人はシェル石油のスタンドを経営している。奥さんも娘さんもパートで月給を貰っているという。ご主人は週7日、働きっ放し。奥さん曰く、「お金は天から降ってくるのではない」と。子どもをガンで亡くし、全ての財産を失ったことがある。その時はトレーラーの中で生活したこともあるそうで、現在の家は2軒目。14歳と3歳の子どもがおり、家にはプールもある。
奥さんは、隣の35歳前後のご夫婦を連れてきて一緒に話す。ご主人は技術者で飛行機のライセンスを持ち、奥さんは高校生に美術を教えている。色々な話が出たが、「ベトナム戦争」も話題に。
私が、「アメリカは平和を唱えながら、一方では戦争をしているというのはどういうことか?」と問うと、ムリンさんは、「アメリカがベトナムから手を引けば日本はどうなるか?私は民間人であり、そのような問題を話し出来ない」と、非常に慎重。
われわれのメンバーの中に、漬物屋のK君がいたが、その彼に対し、「漬物屋は、皆に美味い漬物を食べさせることを考えればよい。私は国家と国家という立場で話しているのではない。個人と個人の立場で話しているのだ」と言う。3歳の女の子が、結構お手伝いをしていたが、幼いころからの躾は大事だなと感じた。1:30寝る。モーテルのチップ25セント。
☆ ☆
戦争の悲惨さ
1960年から15年間続いた「ベトナム戦争」。資本主義と共産主義の代理戦争とも言われた。当時、日本でも作家の小田実氏を中心とした「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)なる活動団体ができ、ベトナム反戦運動、平和運動が活発に行われた。
1993年1月、仕事で、カンボジアPKO視察団に同行した際、ベトナムのホーチミン市にも立ち寄った。「戦争証跡博物館」で見たベトナム戦争の深い傷跡は、実に悲惨としか言いようがないものであった。べトちゃん、ドクちゃん(日本でも大規模な支援活動が行われた)に象徴される枯れ葉剤の恐ろしさを示す奇形胎児や、処刑場の復元、使用兵器のパネルなど、多くの資料が展示されていた。
カンボジアでは、トゥールスレン虐殺博物館を視察した。ポルポトが「民主カンボジア」首相当時、100万~200万人のカンボジア人を虐殺したと言われるが、その凄惨さには息をのむ。死者の頭蓋骨で描かれたカンボジア地図があり、川、湖は血の色で染められていた。その恐怖の有様は「骸骨は山のごとく、流血は川のごとく、涙は海のごとく」と表現されている。
日本においても第二次世界大戦で、軍人170万人、市民38万人が犠牲になったと言われ、長崎・広島への原爆投下によって、20万人以上が尊い命を落とした。3年前、広島平和記念資料館・原爆資料館、2年前には知覧の特攻記念館を訪れたが、涙なくしては見られなかった。その悲惨さに改めて戦争の恐ろしさを感じたし、当然ながら、二度と戦争を起こしては絶対にダメだと心に刻み込んだ。
防衛大臣が、「原爆はしょうがなかった」と言い放って辞任せざるを得なかったが、ほんとに呆れた。許されることではない。政治家としての資質が問われる。それほど重大な発言だ。
「ノーモア ヒロシマ」「ノーモア ナガサキ」を死語にしてはならない。
(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)