北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

小樽「雪明かりの路」と「ニシン御殿」

2008-02-19 13:13:04 | Weblog

10回目を迎えた小樽の冬のイベント「雪明りの路」に行ってきた。

2/82/17までの最終日かなりの雪が降ったり止んだりで、一層ロマンチックな気分にさせてくれた。

 このイベントは、小樽出身の小説家・伊藤整の「雪明りの路」にちなんでなづけられた。小樽運河をはじめ、商店街や個人の家など街のあちこちに色々な形をした明かりが灯され、寒い冬の夜に暖かい光を与えてくれる。今や、冬の北海道を代表するイベントの一つに成長している。







ついでに、にしん御殿「旧青山別邸」も見学。海の色が変わるほどニシンの大漁に沸いた日本海を望む丘に建ち、当時の栄華を今に伝える。100年前のお金で31万円(現在のお金にして30億円)を投じたという内部は豪華絢爛そのもの。

建築的にも、素材的にも最高の技術や素材をもってつくられた。加えて、部屋の襖や書は当代一流の画家・書家が書いたものばかりで、別名を美術豪邸とも言われるほどだ。小樽に行ったら是非立ち寄っていただきたい。







ロビー

ロビーの天井


百畳敷きの大座敷(旧青山別邸HPから)

 

 





アメリカ大陸横断「青春日記」1972・35日間・5000km⑩

2008-02-18 16:18:56 | Weblog

1972・8・26(土) 曇り ボルチモア
(メリーランド州)
 
午前9:00 起床。11:00 Mr.klineが迎えに来てくれる。車で氏が経営するB&O(Baltimore and Ohio Railroad Company)を見学。資本金2,000億円、従業員45,000人の大会社。

アメリカには国有鉄道はなく、現在、アメリカ最大の鉄道だ。70,000マイルの鉄道、4,000両の車両を持っていて、年間の利益が1兆円。ビッグカンパニーだ。1時間ほど見学して、Mr.klineの家へ。ここへ泊まることになった。

モーテルから20マイルほど離れた郊外だ。抜群の環境で、海あり山あり、日本流に言えば別荘だ。2階建てで、1階は応接間兼ホームバー、2階は寝室が2、ダイニングルーム、キッチン、応接間、トイレ3、バスルーム2、広くて素晴らしい家だ。車はムスタングをはじめ4台。子どもが3人いて、23歳の長男は海軍に行っている。12歳の長女と3歳の次女。

家に着くと、すぐに泳ぎに行こうということになり、「White Hurst Club」というコミュニティのスイミングクラブへ。私は泳ぎが出来ないが、浮き板を使って遊ぶ。生まれて初めて海水パンツをはいた。ここは、ヨットハーバーにもなっているので、景観も良く、一緒になった人たちも皆な親切にしてくれて、ビールやジュースをご馳走してくれた。ビキニスタイルの美女たちとも写真を撮り、楽しいひとときだった。 5:00 帰宅。

すぐ、近くにホームスティしている5人の女性グループを訪ねる。ビールをご馳走になったが、腹ペコで帰ってきた。夕食は、ハンバーガー、チキン、サラダなど。夕食後、近所の人たち6~7人が遊びに来てくれる。

その中に、JC(青年会議所)のメンバーがおり、私も一時期JCに所属していたことがあったので、話が弾む。JCの活動資料などをくれたので、持って行った絵葉書やバッジをプレゼント。また、パンアメリカン航空のパイロットも来ていて、飛行機の話などを聞かせてくれた。

長女のローリー嬢はピアノで「ロミオとジュリエット」を、奥さんも「エーデルワイス」などを弾いてくれた。「オータムリーフ」や、ベルトケンフェルト楽団が演奏する曲を流してダンスを誘われる。

メンバーのT君が、ローリー嬢に「あなたの名前を日本語では、このように書く」と、教えてあげていたら、ほかの人たちも大変興味を示し、全員の名前をカタカナで書いてあげたので大喜び。結局、0:30頃まで話しこんでしまった。

Mr.klineは大変な家族思いで、食事の用意、後片付けもする。だから、奥さんはお客をもてなし、一緒になって話の輪に加わる。この奥さん、茶目っ気たっぷりで、皆を楽しませる。とにかく素晴らしい奥さんだ。K君と同じベッドで、1:30に寝る。

     ☆        ☆

    
「英漢字」というアート

以前、新聞で「英漢字」という、新しいアートを生み出した女性の記事が紹介されていた。ホームスティしたとき、アメリカ人の名前を日本語で書いてあげたら、大変興味を示したことを思い出した。

たとえば、「和」という漢字を「PEACE」というアルファベットを組み合わせて、筆と墨を使って書く。「愛」は「LOVE」、花は「FLOWER」と読める。「英語+漢字」で「英漢字」と名づけたという。やはり、外国人も興味を持ってくれているというから分かるような気がする。

あのホストファミリーでお世話になった皆さんにも是非見せてあげたいなと思った。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑨

2008-02-17 06:51:13 | Weblog
1972・8・25(金) 晴れ ボルチモア
(メリーランド州)

午前9:30起床。昨夜は遅く寝たため、今朝はゆっくりと起きる。グループの中の3人の女性の民泊先が決まったので一緒に迎えの車に乗り、175年前の船を見学に。その後、ボルチモア市内を見物。

The gas and Electric Companyの前でジンジャエール(70セント)を立ち飲み。デパートに入り、海水パンツを買う。(1ドル60セント)店員は制服ではない。黒人が多い。店内は広いスペースで、ゆったりとしている。リーダーのH先生、K君、T君と銀行(Baltimore Saving Bank)で、half doller40枚と両替。法律大学、医科大学を見学し写真撮影。

マーケットに立ち寄り晩の食料を買う。トマト、お菓子など買う。(5ドル5セント) バスに乗って帰ろうとするが、どのバスに乗ればよいのか、なかなか分からず、何回も聞いて、やっと乗ることができた。5:00前にモーテル「Readyway inn」に戻る。

今回の派遣事業のお世話役の一人、Mr.Kleinから連絡があり、今夜はミーティングがあるので一緒に行こうと誘われる。どのような集まりかよく理解できなくて、少し迷ったがラフなスタイルで出かけていったところ、なんと「Kiwanis Club」の大会でビックリ仰天。みんな正式な服装で来ているのに、われわれはTシャツにジーンズだ。私は、丸首のシャツに運動靴だ。参った。

会場も「Baltimore Hilton Hotel」。7:00に、Mr.Kleinが迎えに来てくれた。まず、16階で友達のフリーライター、心理学のカウンセラーなどを紹介された。Mrs.Kleinも一緒に来たが、素晴らしく上品な奥さんだ。ここで、スコッチを飲みながら、おみやげに持ってきた各種のバッジや5円玉などを交換して盛り上がる。

もう、これで終了かと思いきや、これからが始まりなのだという。 1階の会場に行くと、「Kiwanis Club」の大会が始まった。ここで、国際キワニスクラブの次期会長さんを紹介され、会長さんが歓迎の挨拶までしてくれた。ニューヨークから来た一流の歌手とバンドが日本の歌を演奏してくれ、大変感激した。

会長さんは、かつて札幌のアメリカ領事館に2年半いたということで、北海道のことをよく知っていて、アイヌの木彫りも持っていると言っていた。あんなに大きな大会にわれわれを呼んでくれたというのは、特別なことだろう。懇親会で、私はMrs.Kleinとダンスするなど楽しく友好を深めることが出来た。リーダーのH先生が、紙に書いて持っていた「友愛」という言葉を説明するなどしてコミュニケーションを図った。私たちも、キワニスクラブの存在などを教えられ、社会活動班としては貴重な経験をした。

キワニスクラブは貧しい子どもたちの教育を中心に社会活動をしている団体だ。後で分かったのだが、Mr.kleinもメリーランド州のガバナーという立場にある。大会の後、上の階に移動し雑談。われわれがソロバンの使い方を説明すると大変興味を示し、喜んでくれた。ただ、不思議そうに見ていて、「お前たちは、足で計算している」と言って、足元を見るのには大笑いした。

Mrs.kleinは、サービス精神旺盛で、イブニングドレスで「ヨガ」をみせてくれた。奥さんの弟夫婦も来ていて、実に楽しい一日を過ごした。モーテルに帰ったのは1:30、シャワーを浴びて寝たのは2:00だった。     

      ☆        ☆
             
      「キワニスクラブ」

キワニスクラブは、1915年アメリカのミシガン州デトロイト市で創立された国際奉仕団体で、シカゴに本部がある。現在、83か国の主要都市に8,740クラブがある。

「キワニス」とは、アメリカンインディアン語で、「みんな集まろう」という意味。子どもたちへの奉仕が中心で、例えば、ヨード欠乏症の子どもたちを救うため、ユニセフを通じての募金活動をはじめ、幅広い活動を行っている。

日本では、1964年に東京に設立され、現在1,500人(24クラブ)が多彩な活動を続けている。私は、かつてロータリークラブの活動に参加していたことがあるが、若い時にキワニスクラブの存在を知っていたので大変参考になった。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 

 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑧

2008-02-16 07:42:12 | Weblog
1972・8・24(木) 晴れワシントン→ボルチモア(メリーランド州)

午前6:30起床。 朝食を遅くとったため、チキンは当たらず。9:30から、ライト兄弟が乗った歴史的な飛行機などが展示されているスミソニアン博物館を見学。アメリカの偉大な文明、歴史に接する。あの広大な国土を200年足らずのうちに開拓したフロンティア・スピリットなるものの一端に触れる。

正午、マンジャー・ハミルトンホテルを出発し、グレーハウンド・バスで、およそ1時間半、ボルチモア(メリーランド州)のバスデモに到着。95万人の都市。いよいよ、われわれ13人だけのグループだけでの行動となる。

今日は民泊の予定だったが、6人の宿泊先しか決まっていないというハプニングがあり、われわれ7人は、取りあえずモーテルへ泊まることに。モーテルと言っても、日本のモーテルとは違って、130室あり、部屋のスペースも広く、ホテル並みだ。テレビの映りはあまり良くない。日本のテレビの方が性能は良い。

夕食は自費で、ドイツ風の何とかビーフ(3ドル85セント)を食べた。7:30、4人のメンバーが泊まることになったホストファミリーのムリンさんの奥さんが迎えに来る。われわれも一緒に招かれた。11:30まで話し込む。

車はキャデラックだ。ご主人はシェル石油のスタンドを経営している。奥さんも娘さんもパートで月給を貰っているという。ご主人は週7日、働きっ放し。奥さん曰く、「お金は天から降ってくるのではない」と。子どもをガンで亡くし、全ての財産を失ったことがある。その時はトレーラーの中で生活したこともあるそうで、現在の家は2軒目。14歳と3歳の子どもがおり、家にはプールもある。

奥さんは、隣の35歳前後のご夫婦を連れてきて一緒に話す。ご主人は技術者で飛行機のライセンスを持ち、奥さんは高校生に美術を教えている。色々な話が出たが、「ベトナム戦争」も話題に。

私が、「アメリカは平和を唱えながら、一方では戦争をしているというのはどういうことか?」と問うと、ムリンさんは、「アメリカがベトナムから手を引けば日本はどうなるか?私は民間人であり、そのような問題を話し出来ない」と、非常に慎重。

われわれのメンバーの中に、漬物屋のK君がいたが、その彼に対し、「漬物屋は、皆に美味い漬物を食べさせることを考えればよい。私は国家と国家という立場で話しているのではない。個人と個人の立場で話しているのだ」と言う。3歳の女の子が、結構お手伝いをしていたが、幼いころからの躾は大事だなと感じた。1:30寝る。モーテルのチップ25セント。       

        ☆      ☆           

         
 戦争の悲惨さ

1960年から15年間続いた「ベトナム戦争」。資本主義と共産主義の代理戦争とも言われた。当時、日本でも作家の小田実氏を中心とした「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)なる活動団体ができ、ベトナム反戦運動、平和運動が活発に行われた。

1993年1月、仕事で、カンボジアPKO視察団に同行した際、ベトナムのホーチミン市にも立ち寄った。「戦争証跡博物館」で見たベトナム戦争の深い傷跡は、実に悲惨としか言いようがないものであった。べトちゃん、ドクちゃん(日本でも大規模な支援活動が行われた)に象徴される枯れ葉剤の恐ろしさを示す奇形胎児や、処刑場の復元、使用兵器のパネルなど、多くの資料が展示されていた。 

カンボジアでは、トゥールスレン虐殺博物館を視察した。ポルポトが「民主カンボジア」首相当時、100万~200万人のカンボジア人を虐殺したと言われるが、その凄惨さには息をのむ。死者の頭蓋骨で描かれたカンボジア地図があり、川、湖は血の色で染められていた。その恐怖の有様は「骸骨は山のごとく、流血は川のごとく、涙は海のごとく」と表現されている。

日本においても第二次世界大戦で、軍人170万人、市民38万人が犠牲になったと言われ、長崎・広島への原爆投下によって、20万人以上が尊い命を落とした。3年前、広島平和記念資料館・原爆資料館、2年前には知覧の特攻記念館を訪れたが、涙なくしては見られなかった。その悲惨さに改めて戦争の恐ろしさを感じたし、当然ながら、二度と戦争を起こしては絶対にダメだと心に刻み込んだ。

防衛大臣が、「原爆はしょうがなかった」と言い放って辞任せざるを得なかったが、ほんとに呆れた。許されることではない。政治家としての資質が問われる。それほど重大な発言だ。

「ノーモア ヒロシマ」「ノーモア ナガサキ」を死語にしてはならない。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)

 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑦

2008-02-15 07:48:41 | Weblog
1972・8・23(水) 晴れ ワシントンD.C. 

午前9:00 、「パン・アメリカン・ワールド・ヘルス・ビルディング」へ。9:30~12:00まで、同講堂で国務省のステファン・ドーキンズ氏(札幌で副領事をしていたことがある)の「日米関係」アルバート・ヌーナン氏の「日米間の貿易事情」について講義を受ける。北海道新聞ワシントン特派員・I記者が取材。国務省のカフェテリアで昼食。1ドル25セント。

午後は、まずアーリントン墓地へ。ここには、ジョン・F・ケネディ元大統領やロバート・ケネディが眠り、70,000人の無名戦士の墓がある。24時間、これらの人たちの魂を守っている。80エーカー(4,000㎡)もある広大なところだ。

次いでワシントン郊外のアレキサンドリア市、マウント・バーノンにある初代大統領ジョージ・ワシントンの生家を見学。とにかくスケールが大きく、すぐ側には湖もあり、景観が抜群に良いのには驚かされる。酒を造るところ、馬屋、燻製をつくるところ、洗濯場など、一軒の家をつくってある。ダイニングルーム、ベッドルーム、リビングルームなど8部屋ある。庭園も見事だ。 

その後、リンカーン・メモリアルに立ち寄り、帰ってくる。ホテルのバーでビールを一杯。ミーティングあり。      

   
☆        ☆
            
    
ポトマック河畔の「桜並木」

私たちがアーリントン墓地に行った当時は、まだ靖国参拝問題は何ら表に出てきてはいなかった。この問題が取り上げられるようになったのは、1975年8月15日、三木総理が私人として参拝した時からだ。そして、1985年8月15日、中曽根総理が公式参拝に踏み切った時から、中国が猛反発をしたという経緯がある。(その年の11月以降、参拝を中止)

私が思うに、アーリントン墓地のように、知恵を出して靖国に代わる、誰でもが参拝できる施設をつくれないものか。日本人の問題について、中国や韓国の、靖国参拝即「戦争に走る軍事大国・日本」という決め付け方は誠に短絡的な対応としか思えない。

日本は戦後62年間、平和国家を守り通しているのだ。いつまでも、外交取引の材料にされてはたまらない。

ワシントンで、もう一つ思い出されるのは、ポトマック河畔の「桜並木」だ。ここの桜はそもそも1912年(明治45年)、アメリカのタフト大統領夫人の希望で、当時の東京市長・尾崎行雄が、友情を深める花として、ソメイヨシノを中心に3,020本をプレゼントしたのが始まりだという。

毎年、3月末から4月初めにかけて「桜まつり」が開かれる。パレードや、桜の女王が選ばれるというイベントが行われ、今や全米から観光客が訪れる一大名所となっている。

それにしても、桜はやっぱりいい。昨年の春は、京都・奈良・琵琶湖、東北の桜紀行に出かけたが、異常気象に惑わされ、琵琶湖と吉野山は早すぎた。

しかし、桜の名所100選の幾つかを堪能した。醍醐寺の枝垂桜(世界遺産)、奈良公園の枝垂桜(世界遺産)、会津鶴ヶ城(福島)、三春の滝桜(福島、天然記念物)、北上展勝地(岩手)、高松公園(盛岡)、弘前城(青森)など。桜は、とくに神社仏閣・お城によく映える。まさに、日本の美だ。

 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑥

2008-02-14 07:17:42 | Weblog

1972・8・22(火) 晴れ アムハースト→ワシントンD.C. 

アムハースト発、午前8:15。教授陣など大変お世話になった方々にお礼の言葉を述べて一路ワシントンD.C.へ。「サッポロで会いましょう」を合唱してお別れ。見送ってもらった中には、北大総長を務めた杉野目貞晴博士の六女・T子さんがいた。ちょうど、イタリアから来ていたとのこと。

途中、ドライブインで食べたいものをお皿に盛ったら、3ドル25セント、高い。トイレでは水が流れないので、更にボタンをプッシュしたら、今度は水が溢れ出て隣の人が文句を言っていた。ホテルに着いてからの話しだが、同じ部屋のM君が同じ事をやったとのこと。あぁ。午後6:10ワシントンD.C. 「メンガーハミルトン・ホテル」に到着。夜はワシントンの街を少し歩いてくる。
          
     ☆          ☆ 

   ニクソン大統領とレーガン大統領 

ワシントンD.C.は、「The District of Columbia」の略で、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスにちなんで付けられた名前。言うまでもなく人口58万人あまりの政治都市だ。

1972年、私が初めてワシントンのホワイトハウス前に立ったときの大統領はニクソンだった。電撃的に中国を訪問し、毛沢東、周恩来と握手して世界をアッと言わせた。ケネディによって開始されたベトナムへの軍事介入から撤退したのもニクソンだった。しかし、ウォーターゲート事件で、20世紀において任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

2回目に訪れた1981年当時は、レーガン大統領だった。ベルリンの壁崩壊、ソ連の崩壊に大きな役割を果たし、東側のリーダーでありペレストロイカ(改革)を進めていたゴルバチョフソ連大統領に対しても強い姿勢で相対した。

レーガノミックスといわれる経済政策を進め、需要中心の政策から供給力強化への政策に転換した。日本との連携を深め、3度も来日し、当時の中曽根康弘総理とは「ロン・ヤス」という愛称で呼び合い、信頼関係を深めた。

それ以降の日米トップが、こうした関係を築いたのは、「ジョージ・ジュンイチロー」と呼び合った、ブッシュ大統領と小泉純一郎総理のケースだけであろう。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000㎞⑤

2008-02-13 07:23:14 | Weblog
1972・8・21(月) 晴れ アムハースト
(マサチューセッツ州)

午前7:00起床。 9:00日本の明治村にあたる「オールド・スタービレッジ」に向けて出発。19世紀初頭ニューイングランド地方の開拓の跡が保存されているところで、いたるところに、その苦労のほどがうかがえる。北海道の開拓時代にも恐らくあのような苦労があったことだろう。日本でもアメリカでも、先人が残した貴重な遺産を大切にしているということだ。

この村にあるショッピングセンターで、独立戦争当時の貨幣(30セント)、独立宣言書(60セント)、米英の条約締結書(25セント)、ペナント(60セント)、絵葉書(12セント)を買った。ここは、アムハーストから約1時間半のところにあり、ウィークデーにもかかわらず大勢の人たちが訪れていた。帰りのバスの中では疲れて1時間ほど寝てしまった。

夜はミーティングの後、アムハーストの街に出かけた。ビールを飲みたくて店に入る。1杯35セント。ここで、かつて日本に13年間住んでいたことがあるというアメリカ人に出会い、ビールをご馳走になる。

てんぷらが大好きで、灘の酒をはじめ、ビールの銘柄、南部せんべいなど日本をよく知っていた。いい気分になって午後10:30帰寮。洗濯。フィルム1本完了。明日は、世界の政治の中心地ワシントンだ。8時間の行程となる。                

    ☆         ☆     

「博物館 明治村」と「北海道開拓の村」

20年ほど前、愛知県犬山市にある「博物館明治村」を訪れたことがある。明治村は、近代日本の基盤がつくられた明治時代の遺産を今に伝えるもの。1965年(昭和40年)に開村され現在は、100万㎡の敷地に67棟の建築物(うち10件は重要文化財)や、貴重な歴史資料がある。

北海道には、「北海道開拓の村」がある。札幌郊外の野幌森林公園の記念施設にあり、明治・大正時代から昭和初期にかけての建造物52棟が542,000㎡の中に保存されている。 1983年(昭和58年)、北海道100年を記念して開村され、開拓の歴史を学ぶことができる農村群、漁村群、山村群、市街地群で構成されている。

われわれは、そうした貴重な遺産を受け継ぎ、次の世代に伝えていく役割を担っていることを改めて認識させられる。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)        
           
 


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000㎞④

2008-02-12 07:21:42 | Weblog

1972・8・20(日) 晴れ アムハースト
(マサチューセッツ州)

午前7:30起床。 8:30朝食。午前中、自由時間。洗濯、妻へ便りを書く。11:30昼食、いつもの通り、お皿に乗せていったら食べきれなくなってしまった。

午後からは、「ピーターパン・バス」で大学構内、アムハーストの街を回遊。まずは、クラーク博士のお墓に献花礼拝、ジョンソン・チャーチ(新島襄が日本人として最初に学んだ)、戦没学生墓地、次いで2億年前の化石が出るというパイオニア渓谷に行き、アムハースト、ハンプシャー、マウント・ホリヨーク、スミス各大学を訪問。午後4:00帰着。

4:30~5:50大学構内の食堂でレセプション。北大にいたことのあるバートン・ドレイク氏(物理学講師)から話を聞く。街中を走っている車のバンパーに、大統領選挙の候補者であるマクガバン候補のステッカーが貼られていて、さすが選挙戦術に関しては進んでいるアメリカらしい。今後は、日本の選挙戦でも、このような風景が見られるようになるかもしれない。

アムハーストは空気も良く、体調を整えるには絶好のところだ。英語も結構通じる。 

夜は一人で街をブラブラ散歩。部屋に帰ってから、われわれのグループ13人のリーダーH先生と団員のK君が遊びにきて、午前0時頃まで話し込む。

   ☆           ☆  
                 

   クラーク博士と新島襄の接点

同志社大学の創立者である新島襄は、このアムハースト大学に学び、クラーク博士から化学の授業を受けていたという。当時、クラーク博士はマサチューセッツ州立農科大学長だったが、母校のアムハースト大学で非常勤講師として教えていた。その関係から、クラーク博士が札幌農学校に来る一つのきっかけをつくったと言われる。

新島は、幕末に禁を破ってアメリカに渡ったが、その渡米地点は函館であった。大町築島の波止場跡に記念碑がある。渡米前には、今は観光スポットの一つになっている函館元町のハリスト正教会で日本語を教えていた。北海道とも深い関わりがあったのだ。アメリカ在学中に「岩倉使節団」と出会い、
1
年休学してヨーロッパ諸国へ教育視察に出かけている。

また、福澤諭吉
(慶応大学創立者、思想家)、森有礼(明六者発起人代表、初代文部大臣)、近藤真琴(攻玉塾創立者、数学、工学、航海術)、大木喬任(文部卿)、中村正直(同人社創立者、西国立志編など翻訳)などとともに、明治の六大教育者の一人にも数えられている。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)

 


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000㎞③

2008-02-11 09:26:00 | Weblog

1972・8・19(土) 晴れ ニューヨーク→アムハースト (マサチューセッツ州)

午前7:00起床。カフェテリアで朝食。パン食だが、フルーツ、ジュース、ミルクなどは好きだから、今のところ食事には困らない。朝食後は自由行動。ニューヨークの42番街を歩いてみる。書店などにはポルノ雑誌が溢れ、カメラショップでは、怪しげな16㎜フィルムを買わないかと、日本語で勧誘してくる。

正午にチェックアウトし、グレーハウンド・バスで一路アムハースト(マサチューセッツ州)へ。時速65マイルでぶっ飛ばす快適さ。緑あり、湖ありで素晴らしい風景。土曜日ということもあって、キャンピングカーが目立つ。 午後3:40、アムハーストのマサチューセッツ大学のパターソンハウスに到着。

マサチューセッツ大学は、「ボーイズビーアンビシャス!」で知られるウイリアム.S.クラーク博士が、かつて学長をつとめていた。6:30 夕食。ハンバーグが抜群に美味しい! そのほか、マッシュポテト、サラダ、フルーツ、ジュース、ミルクなど。

夕食後、大学のキャンパスにあるスタジアムで、「Super Bowl of Music」というブラスバンドの演奏大会を見学。「Never on Sunday」などの音楽を楽しんだ。子どもたちも一緒に見ていたが、われわれは「Chinese」と間違えられ、中国語で1、2、3…10を教えて欲しいと言われる。中国に対する興味の強さがうかがわれる。

5円玉、1円玉と10セントを交換。コーラーを飲む。25セント。「You are very pretty girl!」と、お世辞を言ったら大喜び。かなり涼しく、秋風のような感じがする。カーディガン着用。10:30大学の寮に戻る。シャワーを浴びる。
       
      ☆         ☆

ウイリアム・スミス・クラーク博士が教えたこと

クラーク博士は、明治9年に札幌農学校(現北海道大学)に教頭として迎えられ、わずか8か月だったが、開拓精神の礎を築いた功積は大きい。北海道開拓使が残した大きな遺産は札幌農学校だったと言われる。

クラーク博士は英語、植物学を教えたほか、学校運営全般にも関わった。札幌農学校には、多くの校則があったが、「校則は一つでよい」と言い、「Be gentleman!」(紳士たれ!)と、教えたという。技術や知識を習得する前に、「一人の人間として育つ」ということを強調し、「自由、独立、人間尊重」を教育方針とした。

最初の卒業生は佐藤昌介(後の初代北大総長)ら16人。二期生には、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、町村金弥などがおり、クラーク博士が蒔いた種は、130年以上経った今、日本全国いたるところで花を咲かせている。のみならず、北大は教育・研究の分野において、アジアの拠点、世界の拠点を目指してウイングを大きく広げている。

現代の社会風潮を見るにつけ、われわれは、クラーク博士の「開拓者精神」「大志」「紳士」といった教えを、今一度思い起こしてみる必要がある。青年だけに限らず、特に、政治家、経済人などリーダーたる人間には、強くその言葉をかみしめてもらいたい。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)



 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km②

2008-02-10 10:06:16 | Weblog

1972・8・18(金) 晴れ ニューヨーク

午前4:00。車の音で目覚める。7:30起床、8:00集合。Grand Central YMCA Cafeteliaで朝食。パン、牛乳、オレンジジュースが何と美味いことか。10:15国連本部見学。開会中の経済社会委員会の討議を傍聴。職員4,500人、5か国語の同時通訳が行われている。85%は政治に関係ないテーマを扱っている。日本人ガイドが二人いて、日本人も多く見かけた。

その後、国連食堂で昼食の招待を受ける。水が美味い!三杯飲んだ。ウエイトレスが「アメリカを楽しんでください」と、にこやかに声をかけてくれる。サービス満点。ホタテ、セロリ、キャベツにライス。あまり食べられなかったが、ミルク、アップルパイが美味かった。

午後2:00 「ジャパンハウス」へ。65年の歴史があり、日本についての勉強をしている。図書室には、文藝春秋、PHPなどもあった。歴史・文化などについても利用者がかなりあるとのこと。昼休みにはビジネスマンを対象に、黒澤明、小津安二郎、小林正樹、篠田正浩氏等の映画を上映し好評を得ている。  

5:15サークル・ライン桟橋から乗船してマンハッタンの遊覧。ハドソン河を3時間かけて一周。圧巻は何と言っても「自由の女神」。ニューヨーク港内のリバティ島にあり、自由の象徴。1886年、10月28日、アメリカ独立100周年を記念し、また独立戦争当時の米仏同盟を偲ぶ国立記念物として、フランスからアメリカに献贈されたもの。オーガステ・バーソルディの作。高さ46m、台座を入れて93m。 夕闇迫るころ、ニューヨークヤンキースタジアムが見える。

マンハッタンで食事したが、メニューを見ても、実際どんなものが出てくるか分からず、とにかく2ドル35セントを払い、「これをください!」と指でさして注文。地下鉄でホテルへ向うが道を間違える。途中、一苦労して郵便局へ寄る。コインの使い方に戸惑う。 21セントでペプシコーラを買い、ウエストサイドストリートを歩いた。紙コップがあちこちに落ちているし、食べたり飲んだりしながら歩いている人が多い。

美しい夜景とは裏腹に、退廃ムードを感じた。ニューヨークの夜は、一人では歩けない。デモに出会う。「Can you speake English?」と、話かけてくる。プエリトルコの大学の関係者だとか。建物の解説をしてくれる親切さ。高層ビルの多さと人懐っこさを感じた。結局、ホテルに着いたのは午後10:15。シャワーを浴びて寝る。       

       ☆        ☆ 
   
      
日本人大リーガーの活躍

初めてのニューヨークから9年後、再びニューヨークへ。最初のときに、ハドソン河から見えたヤンキースタジアムへ行った。ヤンキース対タイガース戦。大リーグの試合は迫力満点だった。
今、松井、イチロー、松坂、岡島など多くの日本人プレーヤーが、堂々たる活躍を見せているということは、夢のような話だ。当時は、想像もつかなかった。

この大リーガーへの道を切り開いたパイオニアは、なんと言っても野茂英雄投手だろう。野茂が自らの信念に従って、勇気ある挑戦をし、見事な実績を上げてきたことは、実に素晴らしいことだ。

11年間で123勝、両リーグでのノーヒット・ノーラン達成は史上4人目。そして日米通算201勝(日本では5年間で78勝)は、燦然と輝く記録だ。本人は多くを語らないが、フロンティア・スピリットの体現者として、その功績は偉大である。 われわれも、彼らから大きな勇気をもらっており、日本人大リーガーの今シーズンの活躍を大いに期待したい。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)