“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑥ 『ディオンとフレディー・キャノン』
【No.1白人“ドゥー・ワップ”歌手と、“ブーン・ブーン”男】
Dion Di Mucci 71位
1939.7.18 New York出身
悲しき恋の物語/ルビーベイビー
Freddy Cannon 237位
1939.12.4 Massachusetts出身
ニューオリンズ遥か/恋のジェットコースター
【No.1白人“ドゥー・ワップ”歌手と、“ブーン・ブーン”男】
中国は、今日から国慶節の週間に入ります。10月4日まで、宿泊費が4倍に高騰、交通手段の確保も難しいことから、急遽、長駆1000㎞余、ベトナムに移動して来ました。
その移動中のバスの中で、この原稿を書いていたのだけれど、半分ほど書き終えたところで、うっかり削除してしまった。大失態です。
ベトナムは、中国と違ってYou-tubeが見れます(でもインターネットの回線が繋がるのは、全国一律で朝6時から夜
11時まで)。フレディーは、Wikipedia(英文)でディスコグラフィーを探し当てたので、それに基づいての記述が可能なのですが、ディオンのWikipedia(英文)は見つかりません。本人のH.P.(充実しています)はあるのだけれど、過去のDiscographerは見当たらない。彼の場合、前進あるのみで、過去は振り返らないのかも知れません(注:アップ直前になって、ディオンの英文Wikipediaが見つかりました、、、でも時間が無いのでチェック出来ません)。
ということで、改めて日本語のWikipediaでディオン(Dion)を検索して見たところ、
●KDDIのインターネット・プロバイダ→au one net(旧:DION) 。
●乗用車。三菱・ディオン 。
●セリーヌ・ディオン、カナダ出身の歌手 。
●シュラクサイのディオン、古代ギリシアのシュラクサイの政治家で、プラトンの弟子。
【このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの言葉や名前が二つ以上の意味や物に用いられている場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。】
え~!それはないよ!我らがディオン(ディ・ムッチ)はどこに行ったのよ!
近年になって(若者達を含めた)リスナーの間での再評価の機運が高まり、24人衆の中では、最も現役感に溢れる
ディオンでさえ、この扱い、ヒドいと思いませんか?
ということで、ディオンについては裏付けのチェックをしないまま、断片的に、支離滅裂に、話を進めて行きます(他の歌手についても似たりよったりですが)。うろ覚えのため、曲名の綴りやチャート順位が間違っている可能性があります。
ディオンは、後年の一時期、本名の“Dion Di Muchiディオン・ディ・ムッチ”を名乗っています。でも(ぎりぎり間に合った?のかもしれない)リッキー→リックの場合と違って、ちょっと遅きに記した。やはり表記は“ディオン”でしょう(適当に本名と使い分けます)。ちなみに初期の日本表記は“ダイオン”。
“ディオン”と言えば、“ディオン&ベルモンツ”でもあります。58年から60年始めまでは、グループのリードボーカリストとしての位置付け。オールデイズ・ファンには、こちらの方が馴染み深いかも知れません。ディオンがソロシンガーなら、ジョニー・マエストロはどうなるのか、レン・バリー(Good!)は?さらには、フランキー・ヴァリだって、後年はソリストでもあるのです。それを言いだしたら(極端に言えば)マイク・ラブやブライアン・ウイルソンだって資格ありなのかも知れませんし、スモーキー・ロビンソンとか、ベン・E・キングとか、R&Bグループの大物達のソリストとしての存在をどう解釈するか、等々、なかなか難しい問題になって来ます。
でも、ディオンは、ソロになってからの活躍時期が遥かに長いわけでから、彼に限っては、文句なしに「“ポップス黄金期の”ソロシンガー」として認め得るわけです。
ディオンは、“狭間の歌手”ナンバーワンではないかと思っています。メンフィスの町のレコードショップで、ディオンとリッキー・ネルソンのコンビネーションCDを見つけて、買おうかどうか迷った記憶があるのですが(買っときゃよかったと後悔している)、なるほど、リックのライバルは、ディオンなのかも知れない。
ビートルズ来襲前、61年~63年の活躍では、エルヴィスの次ぎがディオンでしょう。この3年間に、Best 3ヒット4曲を含むTop 10ヒットを8曲も放っています。その活躍が、64年に入って、ピタリと終結してしまうのです。
64年の年頭のHot100チャートには、ディオンの「ドリップ・ドロップ」をはじめ、ビートルズの登場によって(正確にはそれが直接の原因ではない、ということは以前説明しましたが)退場を余儀なくされた“狭間の歌手”達の、最後の踏ん張りとも言えるヒット曲が、上位にずらりと並んでいました。ボビー・ライデル、ジョニー・ティロットソン、リック・ネルソン、ブレンダ・リー、、、、。でも、彼らの場合は、その後もそこそこのヒット曲は放ち続けてはいました。ディオンの場合は、Top 10ヒットどころか、Hot 100ランキングさえも、すぐに途絶えてしまいます。(結果として)ビートルズに駆逐された歌手の“第一人者”、ということが出来るかも知れません。
その後、68年に、これまでとは全くスタイルを変えた、政治的アピールの強い曲「アブラハム、マーティン&ジョン」を一発ヒットさせます。彼の歌には、常に何らかの形での主張が感じられます。単なるオールデイズの歌手ではなく、今でも新しい曲を発表し続け、現役としての存在感を示している所以でもあります(なにせ、年を取ってからの風貌が良い!10年ほど前のハワイでのコンサート時のジョニーとの2ショットがありますが、年相応に和らかな印象のジョニーと、やる気満々が風貌に表れているディオン、同じ年ながらこうも違うものかと)。
といって、自己主張のない“単細胞”の曲が、現代に通用しない、というわけでもありません。フレディー・キャノン。ジョニーや、ブライアン・ハイランド、トミー・ロー等と共に、“ボビー・ヴィー組”の懐メロ?パッケージショーで最近も頑張っていますが、他の面子とは違って、彼もディオン同様、現役感たっぷりです。そして、相変わらず、実に単調でストレートな“ロック・ン・ロール”を唄いつづけている。
前にも触れた、80年代中期のDVD「元祖ティーン・アイドル達(の今)」の中でのフレディは、凄いですよ!(もう一人、ルー・クリスティーと共に)超カッコいいステージ、「元ティーン・アイドル」で括ってしまうのは、余りに失礼ではないかという気がします。
フレディ・キャノンは、ロックの歴史の中で、もっと評価されてもいいはず。もう1~2年早く登場していれば、ジェリー・リー・ルイスやジーン・ヴィンセント、あるいはバディ・ホリーやエディ・コクランといった面々と共に、ロックの創始者として並び称されたかも知れません(その分、“メジャー”には成り得なかったかも知れないけれど)。逆に、数年遅く登場していたら、ビートルズ達と共に、新世代の旗手と成りえたかも知れない。“ポップス黄金期”のド真ん中で出てきたものだから、いつまでも“ティーン・アイドル”のイメージが付きまとい、後年の評価にワリを食っているような気がします。
彼も、64年ビートルズ登場による“駆逐組”の一人であることには、間違いありません。もっとも、それまでもヒット曲は、Top 10入りの大ヒット(3曲)と、Hot 100すれすれの小ヒット(多数)の繰り返し、それでもチャートから消えてしまうことが無かったのは、彼の実力を持ってのことでしょう。ビートルズ登場後も、64年の「アリゲーター・バルチャー」と65年の「アクション」の2大ヒット(共にTop 20入り)があります。
80年代には、元ディオン&ベルモンツのベルモンツと、フレディー&ベルモンツを組み、「Let's Put The Fun Back In Rock N Roll」で久しぶりにチャートに顔を出しています。
ディオンもフレディも、ジョニーと同じ39年組(ニールも)、70歳を越えて、それぞれに頑張り続けているようです。
Dion Di Muchi
1858.05.19(Billboard Hot100初登場日付け)-64.09.12(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:28曲
同Top40ランク曲数: 20曲
同Best10ランク曲数:10曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:34曲
4チャートのBest10ランク曲総数:11曲
Freddy Cannon
59.03.09(Billboard Hot100初登場日付け)-64.03.21(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:20曲
同Top40ランク曲数:07曲
同Best10ランク曲数:03曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:23曲
4チャートのBest10ランク曲総数:03曲
時間が無いので走り書き。(殊にディオンに関しては最初に断った通り)資料チェック無しです。
【ディオン/マイ・ベスト10】
●Where or When(いつかどこかで)
1959年Pop 3位。ベルモンツ時代の最大のヒット曲。どことなく気だるいところがまた心地よい、絶妙のハーモニーを聴かせるバラードナンバーです。ベルモンツ解散前の最後の曲、同時に50年代最後の週のBest 3ランキング曲のはず。60年代最後の週のNo.1ヒットが、シュプリームス解散前の最後の曲「Some Day We’ll be Together Again(またいつの日にか)」。なにかの因縁を感じます。
●Ronaumd Sue(飛んでヘレヘレ)(悲しき恋の物語)(浮気なスー)
1961年Pop 1位。文句のつけようのない、素晴らしい曲。ディオンのパワーには、圧倒されるばかりです。一つ文句を付けるなら、「悲しき恋の物語」という、ダサイこと極まりない当時の邦題。さすがにマズイと思ったのか、後年は原題直訳の「浮気なスー」に。それよりも、巷では「飛んでヘレヘレ」(僕には「ホンでヘレヘレ」とも聴こえるけれど)通っているみたいですけれど。
●The Wondrer
1961年Pop 2位。テイク1ヴァージョンというのがあります。これが凄い!全体に抑えた感じで進行する、一般に知られている「ザ・ワンダラー」より、テンポを上げて迫力満点です。エンディングがいつまでたっても終了せず、ディレクターがストップをかけます。ディオンの真骨頂。
●Lovers Who Wonder
1961年Pop 3位。3曲連続Best 3チャートインというのは、この時代、Elvisを除けば、他に4シーズンスの「Sherry」「Big Girls Don’t Cry」「Walk Like a Man」(62年、3曲連続No.1)、ボビー・ヴィントンの「Blue on Blue」「Blue Velvet」「There I’ve Said it Again」(63年)ぐらいだったと思います。「飛んでヘレヘレ」を上回る迫力です。
●Ruby Baby
1962年Pop 2位。コロンビア移籍後の最初の曲)ですね。日本での有名度は一番?「飛んでヘレヘレ」ともども、ある程度はヒットしていたように記憶しているのですが。この後、ローリーとコロンビアの両レーベルからチャートヒットが続きます。
●This Little Girl
1963年Pop 21位。キャロル・キング&ゲリー・ゴーフィンの作品。本格的な構成の名曲です。
●Be Careful of Stones That You Throw
1963年Pop 31位、AC 13位。カントリー・バラードもこなします。ハンク・ウイリアムスのナンバーです。語りが素敵!唯一のACチャートインナンバー(他に後年の数曲はチャートインしているかも知れません)。
●Donna the Prima Donna(可愛いドンナ)
1963年Pop 6位。いかにも日本人受けしそうな、覚えやすいメロディーなのですが、、、、。日本ではほとんどヒットしなかったように思います。それはともかく、「ルビー・べイビー」も実質63年のヒットだと思うので、この年のヒット曲量産は、質量とも、凄かったのです。ロイ・オービソンの「Mean Woman Blues」(最高位は5位)とほぼ同じチャート航跡。
●Drip, Drop
1963年Pop 6位。僕が一番好きなディオンの曲。下駄の音の様なバッキングが印象に残ります。63年の快進撃を締めくくる一曲で、ビートルズ襲来直前の64年初頭にかけ、Top 10にランクされていました。ジョニーの「Talk back Trembling Lips」より一週間後にHot 100入り、最高位は一つ上、一週間早くHot 100から姿を消しています。
●Abraham, Martin, &John
1968年 Pop 4位。64年も快進撃が続くと思いきや、次の「I’m Your Hoochie Coochie Man」は、何とTop 100圏外!続く「Johnny Be Goode」がかろうじてチャートインしたものの、そこでお終いです。4年後の復帰作(というより一発ヒット)がこれ。一転して、静かなフォークロック調、アブラハム・リンカーン/マーティー・ルサ-・キング/ジョン・Fとロバートのケネディ兄弟の暗殺をテーマにした“メッセージソング”です。
≪おまけ≫●Rudolph the Red Nosed Reindeer(赤鼻のトナカイ)
1996年発表のクリスマスアルバム収録。これぞ“The R&R”と言った「赤鼻のトナカイ」です。ちなみに、スーリンは、このディオン盤「赤鼻のトナカイ」が大のお気に入り。現代の若者にも受け入れられるのだと思います。
【フレディー・キャノン/マイ・ベスト10】
○Tallahassee Lassie
1959年Pop 6位、R&B 13位。フロリダ州の州都はどこか知っていますか?「マイアミ」ブー!「オークランド」ブー!「ジャクソンビル」ブー!。正解は「タラハシー」付け根の左隅にある、メキシコ湾沿岸都市です。
○Way Down Yonder in New Orleans(ニューオリンズ遥か)
1960年Pop 3位、R&B 14位。地名シリーズで行くようです。2曲目は「Okefenokee」(Pop 43位)、3曲目も、メキシコ湾沿岸の「ニューオリンズ」です。
○Transistor Sister
1961年Pop 35位。60年から62年まで17曲 のチャートヒットがありますが、大多数は50位以下(含100位以下2曲)、トップ40入りは、この曲を含め4曲です。
○Teen Queen of the Week
1962年Pop 92位。僕の中では、アメリカンポップス史上最高のロックナンバー。92位というポジションが信じられません。次の大ヒット曲「Palisades Park」より遥かに良いのだけれど。
○Palisades Park(恋のジェットコースター)
1962年Pop 3位、R&B 15位。フレディの曲で最もよく知られているのは、この曲でしょう。後のBeach Boysのカヴァーが有名。
○Patty Baby
1963年Pop 65位。「Teen Queen of the Week」と並ぶ、R&Rの最高峰。もっと多くの人々に聞いて貰いたいと、つくづく思います。
○Abigail Beecher
1964年Pop 16位。ノンヒット3曲の後、スワンからワーナーブラザースへ、レーベルを移動します。初リリースが大ヒットとなりました。
○Action
1965年Pop 13位。再び沈黙し、ノンヒット4曲のあと、ふたたび大ヒットです。
○The Dedication Song
1966年Pop 41位。「アクション」の後、80年代に至るまで、24枚のシングルをリリースしていますが、この曲と、100位以下の3曲、及び後述するベルモンツとのジョイント曲を除き、全てハズレです。
○Rock Around The Clock
1968年Pop 131位。ロックの超有名曲。この曲を、どのようなスタイルで唄っているのか、興味深々、、、一度聴いて見たいですね(まだ聴いていない)。
≪おまけ①≫○Let's Put The Fun Back In Rock N Roll
Withベルモンツです。ディオンは許可?したのでしょうか?81年Pop 81位。
≪おまけ②≫○Come On a Sleigh Ride with Me(橇滑り)
ディオンに対抗して、こちらも2002年のクリスマスアルバムから。withジョニー・ティロットソン、ブライアン・ハイランド。この曲、You-Tubeにアップされていて、その動画がなんとも素晴らしい(極めつけのシンプルさですが)。ぜひ一度訪れて下さい。
【No.1白人“ドゥー・ワップ”歌手と、“ブーン・ブーン”男】
Dion Di Mucci 71位
1939.7.18 New York出身
悲しき恋の物語/ルビーベイビー
Freddy Cannon 237位
1939.12.4 Massachusetts出身
ニューオリンズ遥か/恋のジェットコースター
【No.1白人“ドゥー・ワップ”歌手と、“ブーン・ブーン”男】
中国は、今日から国慶節の週間に入ります。10月4日まで、宿泊費が4倍に高騰、交通手段の確保も難しいことから、急遽、長駆1000㎞余、ベトナムに移動して来ました。
その移動中のバスの中で、この原稿を書いていたのだけれど、半分ほど書き終えたところで、うっかり削除してしまった。大失態です。
ベトナムは、中国と違ってYou-tubeが見れます(でもインターネットの回線が繋がるのは、全国一律で朝6時から夜
11時まで)。フレディーは、Wikipedia(英文)でディスコグラフィーを探し当てたので、それに基づいての記述が可能なのですが、ディオンのWikipedia(英文)は見つかりません。本人のH.P.(充実しています)はあるのだけれど、過去のDiscographerは見当たらない。彼の場合、前進あるのみで、過去は振り返らないのかも知れません(注:アップ直前になって、ディオンの英文Wikipediaが見つかりました、、、でも時間が無いのでチェック出来ません)。
ということで、改めて日本語のWikipediaでディオン(Dion)を検索して見たところ、
●KDDIのインターネット・プロバイダ→au one net(旧:DION) 。
●乗用車。三菱・ディオン 。
●セリーヌ・ディオン、カナダ出身の歌手 。
●シュラクサイのディオン、古代ギリシアのシュラクサイの政治家で、プラトンの弟子。
【このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの言葉や名前が二つ以上の意味や物に用いられている場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。】
え~!それはないよ!我らがディオン(ディ・ムッチ)はどこに行ったのよ!
近年になって(若者達を含めた)リスナーの間での再評価の機運が高まり、24人衆の中では、最も現役感に溢れる
ディオンでさえ、この扱い、ヒドいと思いませんか?
ということで、ディオンについては裏付けのチェックをしないまま、断片的に、支離滅裂に、話を進めて行きます(他の歌手についても似たりよったりですが)。うろ覚えのため、曲名の綴りやチャート順位が間違っている可能性があります。
ディオンは、後年の一時期、本名の“Dion Di Muchiディオン・ディ・ムッチ”を名乗っています。でも(ぎりぎり間に合った?のかもしれない)リッキー→リックの場合と違って、ちょっと遅きに記した。やはり表記は“ディオン”でしょう(適当に本名と使い分けます)。ちなみに初期の日本表記は“ダイオン”。
“ディオン”と言えば、“ディオン&ベルモンツ”でもあります。58年から60年始めまでは、グループのリードボーカリストとしての位置付け。オールデイズ・ファンには、こちらの方が馴染み深いかも知れません。ディオンがソロシンガーなら、ジョニー・マエストロはどうなるのか、レン・バリー(Good!)は?さらには、フランキー・ヴァリだって、後年はソリストでもあるのです。それを言いだしたら(極端に言えば)マイク・ラブやブライアン・ウイルソンだって資格ありなのかも知れませんし、スモーキー・ロビンソンとか、ベン・E・キングとか、R&Bグループの大物達のソリストとしての存在をどう解釈するか、等々、なかなか難しい問題になって来ます。
でも、ディオンは、ソロになってからの活躍時期が遥かに長いわけでから、彼に限っては、文句なしに「“ポップス黄金期の”ソロシンガー」として認め得るわけです。
ディオンは、“狭間の歌手”ナンバーワンではないかと思っています。メンフィスの町のレコードショップで、ディオンとリッキー・ネルソンのコンビネーションCDを見つけて、買おうかどうか迷った記憶があるのですが(買っときゃよかったと後悔している)、なるほど、リックのライバルは、ディオンなのかも知れない。
ビートルズ来襲前、61年~63年の活躍では、エルヴィスの次ぎがディオンでしょう。この3年間に、Best 3ヒット4曲を含むTop 10ヒットを8曲も放っています。その活躍が、64年に入って、ピタリと終結してしまうのです。
64年の年頭のHot100チャートには、ディオンの「ドリップ・ドロップ」をはじめ、ビートルズの登場によって(正確にはそれが直接の原因ではない、ということは以前説明しましたが)退場を余儀なくされた“狭間の歌手”達の、最後の踏ん張りとも言えるヒット曲が、上位にずらりと並んでいました。ボビー・ライデル、ジョニー・ティロットソン、リック・ネルソン、ブレンダ・リー、、、、。でも、彼らの場合は、その後もそこそこのヒット曲は放ち続けてはいました。ディオンの場合は、Top 10ヒットどころか、Hot 100ランキングさえも、すぐに途絶えてしまいます。(結果として)ビートルズに駆逐された歌手の“第一人者”、ということが出来るかも知れません。
その後、68年に、これまでとは全くスタイルを変えた、政治的アピールの強い曲「アブラハム、マーティン&ジョン」を一発ヒットさせます。彼の歌には、常に何らかの形での主張が感じられます。単なるオールデイズの歌手ではなく、今でも新しい曲を発表し続け、現役としての存在感を示している所以でもあります(なにせ、年を取ってからの風貌が良い!10年ほど前のハワイでのコンサート時のジョニーとの2ショットがありますが、年相応に和らかな印象のジョニーと、やる気満々が風貌に表れているディオン、同じ年ながらこうも違うものかと)。
といって、自己主張のない“単細胞”の曲が、現代に通用しない、というわけでもありません。フレディー・キャノン。ジョニーや、ブライアン・ハイランド、トミー・ロー等と共に、“ボビー・ヴィー組”の懐メロ?パッケージショーで最近も頑張っていますが、他の面子とは違って、彼もディオン同様、現役感たっぷりです。そして、相変わらず、実に単調でストレートな“ロック・ン・ロール”を唄いつづけている。
前にも触れた、80年代中期のDVD「元祖ティーン・アイドル達(の今)」の中でのフレディは、凄いですよ!(もう一人、ルー・クリスティーと共に)超カッコいいステージ、「元ティーン・アイドル」で括ってしまうのは、余りに失礼ではないかという気がします。
フレディ・キャノンは、ロックの歴史の中で、もっと評価されてもいいはず。もう1~2年早く登場していれば、ジェリー・リー・ルイスやジーン・ヴィンセント、あるいはバディ・ホリーやエディ・コクランといった面々と共に、ロックの創始者として並び称されたかも知れません(その分、“メジャー”には成り得なかったかも知れないけれど)。逆に、数年遅く登場していたら、ビートルズ達と共に、新世代の旗手と成りえたかも知れない。“ポップス黄金期”のド真ん中で出てきたものだから、いつまでも“ティーン・アイドル”のイメージが付きまとい、後年の評価にワリを食っているような気がします。
彼も、64年ビートルズ登場による“駆逐組”の一人であることには、間違いありません。もっとも、それまでもヒット曲は、Top 10入りの大ヒット(3曲)と、Hot 100すれすれの小ヒット(多数)の繰り返し、それでもチャートから消えてしまうことが無かったのは、彼の実力を持ってのことでしょう。ビートルズ登場後も、64年の「アリゲーター・バルチャー」と65年の「アクション」の2大ヒット(共にTop 20入り)があります。
80年代には、元ディオン&ベルモンツのベルモンツと、フレディー&ベルモンツを組み、「Let's Put The Fun Back In Rock N Roll」で久しぶりにチャートに顔を出しています。
ディオンもフレディも、ジョニーと同じ39年組(ニールも)、70歳を越えて、それぞれに頑張り続けているようです。
Dion Di Muchi
1858.05.19(Billboard Hot100初登場日付け)-64.09.12(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:28曲
同Top40ランク曲数: 20曲
同Best10ランク曲数:10曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:34曲
4チャートのBest10ランク曲総数:11曲
Freddy Cannon
59.03.09(Billboard Hot100初登場日付け)-64.03.21(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:20曲
同Top40ランク曲数:07曲
同Best10ランク曲数:03曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:23曲
4チャートのBest10ランク曲総数:03曲
時間が無いので走り書き。(殊にディオンに関しては最初に断った通り)資料チェック無しです。
【ディオン/マイ・ベスト10】
●Where or When(いつかどこかで)
1959年Pop 3位。ベルモンツ時代の最大のヒット曲。どことなく気だるいところがまた心地よい、絶妙のハーモニーを聴かせるバラードナンバーです。ベルモンツ解散前の最後の曲、同時に50年代最後の週のBest 3ランキング曲のはず。60年代最後の週のNo.1ヒットが、シュプリームス解散前の最後の曲「Some Day We’ll be Together Again(またいつの日にか)」。なにかの因縁を感じます。
●Ronaumd Sue(飛んでヘレヘレ)(悲しき恋の物語)(浮気なスー)
1961年Pop 1位。文句のつけようのない、素晴らしい曲。ディオンのパワーには、圧倒されるばかりです。一つ文句を付けるなら、「悲しき恋の物語」という、ダサイこと極まりない当時の邦題。さすがにマズイと思ったのか、後年は原題直訳の「浮気なスー」に。それよりも、巷では「飛んでヘレヘレ」(僕には「ホンでヘレヘレ」とも聴こえるけれど)通っているみたいですけれど。
●The Wondrer
1961年Pop 2位。テイク1ヴァージョンというのがあります。これが凄い!全体に抑えた感じで進行する、一般に知られている「ザ・ワンダラー」より、テンポを上げて迫力満点です。エンディングがいつまでたっても終了せず、ディレクターがストップをかけます。ディオンの真骨頂。
●Lovers Who Wonder
1961年Pop 3位。3曲連続Best 3チャートインというのは、この時代、Elvisを除けば、他に4シーズンスの「Sherry」「Big Girls Don’t Cry」「Walk Like a Man」(62年、3曲連続No.1)、ボビー・ヴィントンの「Blue on Blue」「Blue Velvet」「There I’ve Said it Again」(63年)ぐらいだったと思います。「飛んでヘレヘレ」を上回る迫力です。
●Ruby Baby
1962年Pop 2位。コロンビア移籍後の最初の曲)ですね。日本での有名度は一番?「飛んでヘレヘレ」ともども、ある程度はヒットしていたように記憶しているのですが。この後、ローリーとコロンビアの両レーベルからチャートヒットが続きます。
●This Little Girl
1963年Pop 21位。キャロル・キング&ゲリー・ゴーフィンの作品。本格的な構成の名曲です。
●Be Careful of Stones That You Throw
1963年Pop 31位、AC 13位。カントリー・バラードもこなします。ハンク・ウイリアムスのナンバーです。語りが素敵!唯一のACチャートインナンバー(他に後年の数曲はチャートインしているかも知れません)。
●Donna the Prima Donna(可愛いドンナ)
1963年Pop 6位。いかにも日本人受けしそうな、覚えやすいメロディーなのですが、、、、。日本ではほとんどヒットしなかったように思います。それはともかく、「ルビー・べイビー」も実質63年のヒットだと思うので、この年のヒット曲量産は、質量とも、凄かったのです。ロイ・オービソンの「Mean Woman Blues」(最高位は5位)とほぼ同じチャート航跡。
●Drip, Drop
1963年Pop 6位。僕が一番好きなディオンの曲。下駄の音の様なバッキングが印象に残ります。63年の快進撃を締めくくる一曲で、ビートルズ襲来直前の64年初頭にかけ、Top 10にランクされていました。ジョニーの「Talk back Trembling Lips」より一週間後にHot 100入り、最高位は一つ上、一週間早くHot 100から姿を消しています。
●Abraham, Martin, &John
1968年 Pop 4位。64年も快進撃が続くと思いきや、次の「I’m Your Hoochie Coochie Man」は、何とTop 100圏外!続く「Johnny Be Goode」がかろうじてチャートインしたものの、そこでお終いです。4年後の復帰作(というより一発ヒット)がこれ。一転して、静かなフォークロック調、アブラハム・リンカーン/マーティー・ルサ-・キング/ジョン・Fとロバートのケネディ兄弟の暗殺をテーマにした“メッセージソング”です。
≪おまけ≫●Rudolph the Red Nosed Reindeer(赤鼻のトナカイ)
1996年発表のクリスマスアルバム収録。これぞ“The R&R”と言った「赤鼻のトナカイ」です。ちなみに、スーリンは、このディオン盤「赤鼻のトナカイ」が大のお気に入り。現代の若者にも受け入れられるのだと思います。
【フレディー・キャノン/マイ・ベスト10】
○Tallahassee Lassie
1959年Pop 6位、R&B 13位。フロリダ州の州都はどこか知っていますか?「マイアミ」ブー!「オークランド」ブー!「ジャクソンビル」ブー!。正解は「タラハシー」付け根の左隅にある、メキシコ湾沿岸都市です。
○Way Down Yonder in New Orleans(ニューオリンズ遥か)
1960年Pop 3位、R&B 14位。地名シリーズで行くようです。2曲目は「Okefenokee」(Pop 43位)、3曲目も、メキシコ湾沿岸の「ニューオリンズ」です。
○Transistor Sister
1961年Pop 35位。60年から62年まで17曲 のチャートヒットがありますが、大多数は50位以下(含100位以下2曲)、トップ40入りは、この曲を含め4曲です。
○Teen Queen of the Week
1962年Pop 92位。僕の中では、アメリカンポップス史上最高のロックナンバー。92位というポジションが信じられません。次の大ヒット曲「Palisades Park」より遥かに良いのだけれど。
○Palisades Park(恋のジェットコースター)
1962年Pop 3位、R&B 15位。フレディの曲で最もよく知られているのは、この曲でしょう。後のBeach Boysのカヴァーが有名。
○Patty Baby
1963年Pop 65位。「Teen Queen of the Week」と並ぶ、R&Rの最高峰。もっと多くの人々に聞いて貰いたいと、つくづく思います。
○Abigail Beecher
1964年Pop 16位。ノンヒット3曲の後、スワンからワーナーブラザースへ、レーベルを移動します。初リリースが大ヒットとなりました。
○Action
1965年Pop 13位。再び沈黙し、ノンヒット4曲のあと、ふたたび大ヒットです。
○The Dedication Song
1966年Pop 41位。「アクション」の後、80年代に至るまで、24枚のシングルをリリースしていますが、この曲と、100位以下の3曲、及び後述するベルモンツとのジョイント曲を除き、全てハズレです。
○Rock Around The Clock
1968年Pop 131位。ロックの超有名曲。この曲を、どのようなスタイルで唄っているのか、興味深々、、、一度聴いて見たいですね(まだ聴いていない)。
≪おまけ①≫○Let's Put The Fun Back In Rock N Roll
Withベルモンツです。ディオンは許可?したのでしょうか?81年Pop 81位。
≪おまけ②≫○Come On a Sleigh Ride with Me(橇滑り)
ディオンに対抗して、こちらも2002年のクリスマスアルバムから。withジョニー・ティロットソン、ブライアン・ハイランド。この曲、You-Tubeにアップされていて、その動画がなんとも素晴らしい(極めつけのシンプルさですが)。ぜひ一度訪れて下さい。