青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

夢と意識と時間の関係性について

2021-05-20 14:00:00 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・・

「夢」と「意識」について、どうしても言っておきたいことがある。

おそらく、専門の研究者の人たちにとっては、いまさら、と言う(理論的に簡単に説明できる)ことなのかも知れないけれど。

僕は、人生の1/3程の意識は、“夢”で成り立っていると思っている。表層に出てこない隠れた意識である。しかし、隠れてはいても、存在していることは、確かである。それが表層に現れる意識に、何らかの影響を与えている、と思っている。

夜、寝る前に、20曲ほど収めている音楽ファイルを、イヤホンで聴いている。(睡眠剤がよく効いた場合は特に)3曲目か4曲目辺りで眠りにつき、そのまま熟睡してしまっている。以降の曲は聴いていないわけだが、正確には、聴いていないのではなく、聴きはしたけれど、意識の中に再現されない、、、、のだと思っていた。

しかし、次の例を考えた場合、そうとも言えぬ気もしてくる。その例というのは、別に今に始まったわけではなく、ずっと以前から何度も経験していることである。

例えば、12曲入りの「涙ながらに」のアルバムを聴いていたとしよう。「涙ながらに」「ロンリー・ストリート」「泣きたいほどの淋しさだ」「ひどい仕打ちに」「時のたつのは早いもの」「どうしたらいいの?」「どうにも出来ない」「どうかあの娘を幸せに」「四枚の壁」「夢の枕を」「フールNo.1」「ハロー・ウオールス」の並びである(設定によってはそれを繰り返す)。

これが、ウトウトしている時などには、順番通りに聴こえてこない場合がある。確かに今「泣きたいほどの寂しさだ」を聴き終えた。次は「ひどい仕打ちに」のはずである。ところが、いきなり「四枚の壁」に移っている(曲の出だしに“ハッ”と気付く)。途中の4曲がすっぽり抜け落ちているのである。パソコンやウオークマンの設定の問題やシステムエラーではない。その間、眠ってしまっているのだ(これを“寝落ち”というのかな?)。「時間」は完全に「ゼロ」である。「意識」が「隠れている」のではなく、「無くなっている」わけだ。その間、僕の中での時間は、全く進んでいないことになる。

これは、どういう事なのだろう? 仮に「無意識」から「意識下」の状態に切り替わる瞬間(時間の長短は分からないけれど「ゼロ」ではない)に意識に上るのが「夢」だと定義しても、このパターンの場合は、瞬間の(僕の中の)時間はゼロである(4曲ならば外の時間は約10分)。

原則として、眠っている時は(「意識」には再現されなくても)何らかの形で“夢”を見続けている、と思っていたのだが、、、、。

実際はそうではなく、99%は「無意識の意識」も伴わず、完全に「意識」が途絶えているのだろうか? ごく例外的に(ごく瞬間的に)「完全に途絶えた意識」から「表層的意識」に移り変わる瞬間の「無意識の意識」が“夢”なのだろうか? 

それにしては、眠っている時にしょっちゅう夢をみている気がするのだが、、、。今朝だって、結構いろんな夢を見ていた気がする。でも起きてすぐ何かの作業を行いだしたので、全て忘れてしまった。夢を夢として認識するためには、起きた瞬間に尻尾を捉えなければならぬ。捉え損ねば、無かったことになる。しかし「あったはず」と言う事は、確かに分かっている。先に記した「ゼロ意識の」状態とは明らかに違う。

「意識を伴った無意識」と「意識を伴わない無意識」があると言う事なのだろうか?

ちなみに、(何の根拠もないのだけれど)「過去」と言うのは前者に収斂して行き(すなわち「夢」と同類?)、「未来」というのは後者の展開(すなわち、もう一つの意味での“夢”)なのではないだろうか、、、。

意識はその都度上書きされ、過去は完全に消えて行くのか。深層に残って(寿命が尽くまで)積み重なって行くのか。

完全に消えたわけではないことは、時折何の脈絡もなく、過去の記憶の断片が瞬間的に蘇ることでも分かる。

しかし、それを実態として確認することは出来ない(もしかすると、出来ないのは僕だけ?)ので、積み重なっているわけでもなさそうに思う。

あと、もう一つ時間について。

僕は、(客観的に眺めれば)まもなく死ぬわけだ。例えば75歳まで生きるとすれば、これまでの時間が73年で、これからの時間が2年。外からは測れる。でも、僕の内部では、両者を比較することは出来ない。

ポジティブ/ネガティブとは関係なく、僕自身にとっては、これまでの時間は「無」のようなものであって、これからの時間は(好むと好まざると)「無限」なのだと思う。消えた時点で、無限が無くなる。

赤ちゃんの頃の意識は、どのような形で、現在に繋がっている(あるいは繋がっていない)のだろうか?







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