昨日のブログに、「萌葱Books新刊:明日発売予定!」と紹介しましたが、印刷期間の関係もあるため、1週間前後遅れての刊行となります。正確な日にちが決まり次第、追ってお知らせいたします。
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年に一度、早春にだけ姿を現すギフチョウは、日本の自然愛好家にダントツの人気のある蝶だ。
本来は、日本を含む東アジア独自の植生である「中間温帯林(クリ・コナラ林)」に結びついた、遺存的な生物。その環境が、人間の手によって「里山」として置き換えられて、そこで繁栄していった。
昔は東京の近郊にも数多くいたが、「里山」の衰退に伴って、今はほとんどの産地で絶滅した。
日本の本州固有種。
永らくの間、同属種は日本の北部と日本海の対岸地域に分布するヒメギフチョウ、中国の長江流域に分布するチュウゴクギフチョウの3種とされてきたが、1980年代になって、中国の陝西省から湖北省にかけての山地帯で、第4の種オナガギフチョウが発見された。
*2人の中国人老教授による“新種記載の先陣争い”は、滑稽でもあり、それ自体が一つの物語(悲喜劇)にもなる。
*数年後、僕はその探索に向かった(スパイ容疑で監禁されたりもした)。
第5のギフチョウ(あるいはギフチョウの祖先種)は、存在するのだろうか?
実は、一時期、存在が確実視されていたことがあった。
ギフチョウ属の分布圏の西(中国西南部からヒマラヤ東部にかけて)に4種が分布するシボリアゲハ属の1種で、外観がギフチョウにそっくりな、「ユンナンシボリアゲハ」が、それにあたる(いわばギフチョウの祖先)と考えられていた。
しかし、超希少種で、標本は大英博物館に所蔵される雌一頭だけしかなかった(従って系統分類に不可欠な雄交尾器のチェックは叶わなかった)。
ギフチョウ研究の第一人者である大阪自然史博物館の日浦勇氏は、その唯一の標本から得られた諸形質を詳しく分析して、この蝶が、シボリアゲハ属よりも、むしろギフチョウ属に類縁が近い、非常に原始的な種であると喝破した。そして、1種で独立属を形成する「ユンナノパピリオ属」を設立した。
前述した「第4のギフチョウ(オナガギフチョウ)」が発見されたのは、そのすぐあとのことである。オナガギフチョウと(唯一標本が存在する)ユンナンシボリアゲハはとてもよく似ていて、この蝶が「ギフチョウの祖先」である可能性は、いやがおうにも高まった。
しかし皮肉なことに、オナガギフチョウ発見から間もなくして、それまで一頭の雌標本しか存在しなかったユンナンシボリアゲハが、四川省最高峰ミニャコンガの氷河の袂で、12人のクライマーの命と引き換えに、大量に採集されたのである。
日浦氏の愛弟子でもある九州大学の三枝豊平教授が、その全貌(特に雄交尾器の構造)を調べることになった。その結果は、予想に反して、、、、見かけがギフチョウそっくりであるにも関わらず、雄交尾器をはじめとした体各部の形質は、(見かけが大きく異なる)ほかのシボリアゲハ属の種と、ほぼ全く変わらないことが判明した。ギフチョウとの著しい類似は「他人の空似」に過ぎなかったのである。
三枝教授は、苦悩した。ある意味、日浦氏の研究を補佐するつもりで任に当たったのに、期せずして恩師日浦勇氏の一世一代の業績を抹殺してしまうことになったのである。しかし研究者としては、個人の情に囚われることは出来ない。心を鬼にして、論文を書き上げた。脱稿を成したその夜、九州から遠く離れた奈良県の研究室で、稀代の天才蝶研究者・日浦勇は、急性心筋梗塞に襲われ、蝶の標本を手に持ったまま、50歳の生涯を閉じたのである(その前後の僕との交流は別の機会に記す)。
天才、ということで言えば、三枝教授も天才である。この時の「ユンナンシボリアゲハ」の研究論文は、単にギフチョウ属とシボリアゲハ属の比較に留まらず、両属を含む近縁各属、すなわち、「タイスアゲハ族」を構成する、東アジアのギフチョウ属、シボリアゲハ属、ホソオチョウ属、ヨーロッパのタイスアゲハ属、シロタイスアゲハ属(いずれも狭い地域に分布する1~数種から成る)の比較を、徹底して行った。また、同じ“原始アゲハ”の一員である、西アジアのイランアゲハ(一族一種)と、北半球の寒冷地に多数の種が繁栄するウスバシロチョウ属との比較も、詳しく行った。いやもう、この上もなく詳細な、完璧ともいえる、素晴らしい論文である。
結論はこうである。ギフチョウ属は、(以前からの知見通り)シボリアゲハ属やホソオチョウ属やタイスアゲハ属ともども、タイスアゲハ族の一員で、なおかつそれらの属とは直接的な血縁上の繋がりを持たない、孤立したグループ(従って、ギフチョウ属の4種だけで独立のギフチョウ属を設置する海外の研究者もいた)。
ところが、110年前に、それに異を唱えた研究者がドイツにいた。イタリアの古第三期の地層から見つかっている化石種が、実はギフチョウ属だというのである。この化石種の外観は、ウスバシロチョウ族の一員で、地中海島南部から中東にかけて1(~数)種が現存するArchonシリアアゲハ(改称モエギチョウ)
属とそっくりである。化石種がギフチョウ属ならば、ギフチョウ属とは似ても似つかないシリアアゲハもギフチョウ属に含まれてしまうことになりかねないではないか、そんなことがあるわけがない、と一笑に付され、その説は無視されてしまった。
でも、僕はどこか引っかかっていたんですね。そういえば、日浦勇氏も、三枝豊平教授も、その詳細極まりない論文の中で、(僕が勝手にそう感じているだけなのかも知れないけれど)どこかこのシリアアゲハの存在を気にしていた節がある。その形質の一部に於いてのギフチョウ属との類似性に一瞬触れかかりながら、そこから先には入り込まない。シリアアゲハ属は紛いなきウスバシロチョウ族の一員なので、タイスアゲハ属の一員のギフチョウ属との比較は無意味、と(当然のことのように)思い込んでいたのではないだろうか。
それは僕にしても同じである、英国のヒギンズのヨーロッパの蝶の雄交尾器の手引書に、ごくごくラフなシリアアゲハ雄交尾器のスケッチがあって、それを見る限り、ウスバシロチョウ属との相同性は皆無であり、(きわめて消極的ではあるけれど)特徴の方向性がギフチョウ属と軌を一にするように思われて仕方がなかった。しかし僕もまた、「シリアアゲハは当然ウスバシロチョウ族の一員」と信じ込んでいたので、そこから先に思いを巡らせることはなかった。
ごく最近になって、ミトコンドリアDNA解析による、アゲハチョウ科の系統関係に対する複数の論文が発表された。(それらの複数の論文で)原始アゲハは、ウスバシロチョウ族、タイスアゲハ族、ギフチョウ族に3分割され、なんと、シリアアゲハは、ウスバシロチョウ族でもタイスアゲハ族でもなく、ギフチョウ属の4種とともに、ギフチョウ属の分枝に置かれているのである。
110年前“一笑に付されていた”見解はここに復活し、僕が言い出せないでいた、ギフチョウ属との雄交尾器の類似性の指摘も、改めて成すことが可能になったという次第である。
しかし、研究者・アマチュアマニアこぞっての、異常なほどのギフチョウ熱の高まりが続く日本に於いて、そのことは、全く無視されたままである。
日浦勇氏にも、もう一人のギフチョウ研究の第一人者であった、僕の恩人でもある原聖樹氏にも、「幻」の原型「萌葱蝶」が確かに現生に存在していることを、見てもらいたかった、と思っている。
「青山君、本当にギフチョウだね」という声が聞こえてくる。
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突然現れる。目で追うのだが、前後左右に不規則に飛ぶので、進行方向が読めない。
いったん止まると、どこに止まったか全くわからなくなってしまう。目の前にいても、一度目を外らせてしまうと、どこにいるのか見つけられなくなる。
この時期この一帯で最も多い花はキク科キク属の白い花と、キンポウゲ科アネモネ属の濃ピンクの花。しかしモエギチョウがそれらの花を訪れることは滅多にない。
そこで、花での吸蜜時ではなく、花の近くの草上にとまった時、周りの花ともども蝶を写し込もうと、花の近くでカメラを構えて待っていた。来た!と思ってシャッターを押したら、止まっていたのはクモマツマキチョウだった。日本では高山蝶の一つに数えられるが、中国やヨーロッパでは里山の蝶。モエギチョウとともに、早春最も早くに出現する蝶。
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